三月 26

NYの音楽シーンを代表するロゴデザイン22 (Part 1)

ニューヨークの音楽史に燦然と輝くロゴの数々を3回に分けて紹介する。

By Sue Apfelbaum and Laura Forde

Anthrax
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かのウッドストックの開催地に近い緑豊かな郊外、ニューヨーク州ホワイトレイクでスラッシュメタルバンド四天王(Big 4)のひとつAnthraxのビジュアルイメージは生み出された。家族と共にこの地で夏を過ごすことが多かった同州ロックランド郡出身のギタリストDan Spitzが兄(Dave Spitz‐元Black Sabbath)を通じてこの街に住むKent Joshpeと友人となったことが、Anthraxのロゴが誕生するのきっかけとなった。


現在同州ロチェスターで広告代理店を経営するJoshpeは、「昔はよく友人たちの似顔絵を描いていた。そしてAnthraxが結成された時、Danからロゴとファーストアルバム『Fistful of Metal』(1983年)のジャケットのデザインをやってくれないかと頼まれたんだ。アルバムのジャケットに関しては、パンチが後頭部から突きぬけている人を描いてくれという注文だったよ」と笑いながら当時を振り返る。

「パンチが後頭部から突きぬけている人を描いてくれという注文だった」-Kent Joshpe

『Fistful of Metal』のイラストは滑稽で残酷なものだが、すべての文字が鋭角に組み合わさったAnthraxのロゴは時の流れに負けない強度を誇る出来であり、現在でも優秀なバンドロゴのひとつとして認識されている。Peter Corristonがセカンドアルバム『Spreading the Disease』をデザインした際、各文字が多少リファインされたものの、全体のロゴデザインはオリジナルのものが残された。「(ロゴデザインは)多少Iron Maidenのロゴに影響を受けた部分があったと思う。だが、他と同じようなロゴにしたくなかったので、基本的には他を参考にしないようにした」とJoshpeはデザインについて説明している。

また、クーパー・ユニオンでデザインを教えるメタルファンのMike Esslは、Joshpeのレタリングは他からも影響を受けていると分析しており、「このロゴにはHerb LubalinフォントAvant Garde 、そしてカスタムタイポグラフィが流行った時代からの影響が見出せます。Avant Gardeは初めて合字(リガチャ)が使われたフォントのひとつであると同時に、非常に『メタル』なイメージのフォントでもありました」と説明している。この説明を受けたJoshpeは敬愛するデザイナーを引き合いに出されることは恐縮だとしながら、「Herb Lubalinは私が大好きなデザイナーのひとりで、ロゴデザインの神だと思っている」とコメントしている。(Sue Apfelbaum)

Blue Note
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Alfred Lionが運営するBlue Note Recordsは、デザイナーReid Milesが1956年に参加する前から、アートディレクター/フォトグラファーでレーベル設立時のメンバーであるFrancis Wolffによるディレクションが高い評価を受けていた。78回転から10インチ、そして12インチへとメディアが変遷していく中で、所属していたデザイナーPaul Bacon、Gil Melle、John Hermansaderは時代のニーズにフィットした仕事をしっかりとこなしており、かのLeonard Featherも1955年の『The Blue Note Story』のライナーノーツで、「レコードのプレス、レコーディング、ジャケットのデザインやプロダクションなど、熟考された製品を生み出すために必要と思われるすべての過程のクオリティに対して綿密なチェックが行われている」とそのクオリティの高さについて賞賛している。

「大抵のレーベルはロゴをデザイン自体に組み込まないが、Reidは臆さずに組み込んだ」-Michael Cina

Milesはレーベル設立時のデザイナーではなかったが、Blue Noteの美学を最も上手く表現したデザイナーであり、11年間の在籍で実に400以上のジャケットデザインを手掛けた。Miles本人はジャズファンではなくクラシックファンだったが、Lionのイメージ通りに音楽をビジュアル化する方法を把握していた。デザイン評論家のRobin Kinrossは1990年に発行された『Eye』誌で、Milesのクールでクリアなデザインは当時のニューヨークのグラフィックデザインを表しているとし、「当時勢いのあった写真界、そして印刷所などに豊富に揃っていたフォント-特にアメリカ式のサンセリフから影響を受けている」と解説している。そしてMilesの元、Blue Noteは初めてブランド・アイデンティティを取り入れ、音符を変形させたロゴを使用した。

数々の書籍がMilesのダイナミックなフォント、そして独特の写真のクロップ方法を称賛しているが、このロゴ自体についてはついつい見逃しがちで、基本的には各作品でデザインの一部分としてロゴを使用したMiles自身が評価される。しかし、このロゴは実用的な情報を私たちに伝える役目も担っており、カタログナンバーが楕円形の中に、そしてコピー『The Finest in Jazz since 1939』が矩形の中に記されている。1959年8月28日にリリースされたカタログナンバーBlue Note 4017、Horace Silverの『Blowin’ the Blues Away』で初めてこのロゴが用いられた。Blue Noteのコレクターとして知られるデザイナーMichael Cinaは、Ghostly Internationalの一連のデザインで同様のアプローチを用いているが、Blue Noteに関して、「大抵のレーベルはロゴをデザイン自体に組み込まないが、Reidは臆さずに組み込んだ」と評価している。(Sue Apfelbaum)

CBGB
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CBGBのロゴは315 Boweryで静かにスタートして以来、現在までその影響力を保ち続けている。かつてダウンタウンの外れの小汚いクラブだったこの場所は、今は高級メンズブティックの一角になっている。2006年10月にPatty Smithが最後のライブを行った時でも、すでにCBGBの「アンダーグラウンド・ロックの聖地」としての黄金期は過ぎ去っていた(創業者でありオーナーであったHilly Kristalはその約1年後に肺がんでこの世を去っている)が、CBGB & OMFUGの本質は今でも生き続けている。「CBGB」とは、時を超えて数々の商品化と賞賛を得てきた「アイディア」なのだ。しかし、その歴史の大部分がドキュメンタリーとして取り上げられている一方で、このロゴがどのように生まれたのかについては殆ど言及されていない。

Kristalの元妻Karenはロゴのデザインは自分がやったと主張しているが、「真実」はHillyが墓の中まで持って行ってしまったようだ。クーパー・ユニオンフォントデザインプログラムのコンサルタントを務めるフォントデザイナーNick Shermanは、「もしKarenがデザインしたのだとしたら、看板画家のフォントブックを参考にしたのではないだろうか」としており、このロゴが19世紀のトスカナ様式のフォントに類似していると指摘している。

「当時のCBGBは非常に話題になっていたため、あそこにいる奴ら全員が偉そうにしていた」-Richard Hell

文字の中央部分と先端部で独特の広がりを見せるトスカナ様式は西部時代を彷彿とさせるが、CBGBは元々、その名を知らしめたパンクロックではなく、「カントリー、ブルーグラス、ブルース、また音楽の大食漢のためのその他の音楽(Country, Bluegrass, Blues & Other Music For Uplifting Gormandizers)」というコンセプトで作られたことを考えるとそのデザインにも納得がいく。ボロボロの白いオーニングにDIYスタイルで傾いて描かれていたオリジナルロゴは、当時のシーンからはみ出たアーティストや詩人、ミュージシャンたちをその西部時代のサルーンを思わせる店内へと引き寄せる役目を担った。

1974年にCBGBで初のパンクバンドとしてプレイしたTelevisionの元ベーシストRichard Hellもロゴの経緯については知らないとしつつも、「Tシャツなどに描かれたあのロゴを見かけるたびに、当時の嫌な思い出と楽しい思い出がよみがえる。当時のCBGBは非常に話題になっていたため、あそこにいる奴ら全員が偉そうにしていたよ」と当時の勢いを振り返っている。しかし、そのような時代はとっくに過ぎ去ってしまった。(Sue Apfelbaum)

Danceteria
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1980年代のニューヨークを代表するクラブのひとつだったDanceteriaJim Fourattと共に立ち上げたRudolf Piperは、「私はニューウェーブの50年代、60年代の美学への回帰を『不条理』だと捉えた。これはDevoの『De-Evolution』だけが上手く表現できていた」とクラブ創設のきっかけを振り返り、Fourattはそのコンセプトについて、「シリアスな音楽を意図的に洗練されていない形で見せることで、逆に『洗練されていない』という言葉の持つ純粋な部分を引き出そうとしていた」と説明する。そして、その「洗練されていない」新しい事業の名前に悩んでいたPiper、Fouratt、David Kingの3人は、クラブの最初のロケーションからほど近い距離にあったGarment Centerの人気ランチスポットDubrow’s Cafeteriaを通り過ぎた時に、「Danceteriaだ!」とひらめく。

Danceteriaの打ち出したダンスとパンクの融合は、80年代初期のニューヨークのクラブシーンを定義づけることになった。Bill Bahlman、Johnny DynellAnita SarkoMark KaminsなどのDJが、ポストパンクにディスコ、ヒップホップ、エレクトロなどを織り交ぜてプレイしたこのクラブは、2年後にかの有名な「30 West 21st Street」へ移転する。この頃のDanceteriaは、1982年にA Certain RatioのオープニングアクトとしてMadonnaが出演した他、レギュラーパーティー『Art Attack Wednesday』ではDiamanda GalasPhilip Glassのようなハイアート側のアーティストが出演し、複数のフロアから成り立っていたこの新たなロケーションの3階にはビデオラウンジとレストランも備わっていた。Fourattはこのような多様性について、「様々な種類の人たちを集めようとしていた」とNew York Timesに対して説明している。

「容疑者の目線を黒い長方形で隠すというタブロイド紙の手法に常に魅力を感じていた」-David King

アナーキストなパンクバンドCrassのロゴデザインを担当したことで知られる英国人グラフィックデザイナーDavid Kingは10年間のロンドン生活の後、1977年にニューヨークへ移り、その後は昼間に『Psychology Today』やペンギンブックスのカバー、そしてMoMAのクリスマスカードなどにイラストを提供し、夜になるとパンクバンドArsenalのメンバーとして活動していた。

アメリカのカフェテリアについての本に掲載されていたWhite Castleの昔のウェイトレスが写った写真にインスピレーションを受けたKingは、Danceteria Ladyのイメージを作成したが、8分音符を目線として使用したことで、そこにニューウェーブ的なエッジが加えることに成功した。「容疑者の目線を黒い長方形で隠すというタブロイド紙の手法に常に魅力を感じていた」と本人はそのアイディアの背景を説明している。また、やや変わった筆記体フォントKaufmann Boldが、オールドスクールな「アメリカ感」を与えている他、「t」の横棒を伸ばし「i」の黒丸部分を二分割するというアイディアも用いられた。Piperはこのロゴを採用した経緯について、「ロゴの候補はいくつか用意していて、その殆どはパリのSerge Clercのドローイングをベースにしたものだったが、最終的にはこのデザインが良いと思った」と説明している。(Laura Forde)

Def Jam
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Def Jamを語るあらゆるストーリーは、Rick Rubinが1984年にニューヨーク大学の学生寮からこのレーベルを立ち上げた時の話から始まる。ファーストリリースは自らが率いるパンクバンドHoseだったこと、そしてセカンドリリースのT La RockとJazzy Jayによる「It’s Yours」について、Russell Simmonsがロングアイランド出身の裕福な白人によってプロデュースされたトラックだとは到底信じることができなかったことなどは、必ず触れられるエピソードだが、これらはすべて真実だ。そしてRubinはその後Simmonsを正式なパートナーとして迎え、ヒップホップを定義づけるトラックを次から次へと生みだし、LL Cool JBeastie BoysPublic Enemyなどを世界に紹介していった。

「私は7インチシングルで育った。60年代、70年代の小さなインディーレーベルの7インチシングルのロゴデザインに影響を受けた」-Rick Rubin

Def Jamのロゴはレーベル同様Rick Rubinが生み出したものだ。Dan Charnasの著作『The Big Payback: The History of the Business of Hip-Hop』では、RubinにはEstée Lauderで働いていた叔母がいたため、そこでロゴの作成に必要な用具を揃えたと書かれている。尚、Rubin自身も、「パソコンが台頭する以前、Estée Lauderのクリエイティブ部門には沢山のフォントがあった。私はそこで色々と試し、最終的にDとJを大文字にして、残りを小文字にした今のロゴを制作した」とその経緯について言及している。またRubinはフォントHelveticaに惹かれたとし、「装飾的な部分が何もなかったので、グラフィックの質、そして伝える情報の質がむき出しだと思えた。このフォントならばシリアスさを簡単に伝えることができる」とその理由を説明している他、大学で映画を学んでいた自分のデザイナーとしての素養については、「高校2年から3年に上がる夏休みに、ハーバードでデザインを学んだ。非常に楽しかったが、当時はそれが役に立つとは思っていなかった」と振り返っている。

尚、12インチのスリーブに使われていたトーンアームのグラフィックは学生寮の友人に頼んだものだ。「私が持っていたTechnics製のターンテーブルのトーンアームを真似た設計図のようなグラフィックを描いてくれるように友人に頼んだ」と説明するRubinは、どういうアイディアでロゴをデザインしたのかという質問に対しては、「私は7インチシングルで育った。60年代、70年代の小さなインディーレーベルの7インチシングルのロゴデザインに影響を受けた。それらと並べて置けるようなロゴにしたかった」と続けている。(Sue Apfelbaum)

DFA
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「私は素敵なものは好きではない。秘密めいた誰も知らないようなものが好きなんだ」2010年のNew YorkerのインタビューでJames Murphyは自分の好みについてこう説明すると、「『美しいもの』はレアな存在だと感じたいのさ」と続けている。ディスコパンクレーベルDFAはそこまで秘密の存在ではなくなったにせよ、今でもニューヨークに隠された宝石のひとつとして活動を続けている。今年13年目を迎えるDFAは、新たな流れが求められていたニューヨークで2001年にJames Murphy、Tim GoldsworthyJonathan Galkinによって設立された。

DFAの音楽性は生ドラム、アナログシンセ、軽快なカウベルという選び抜かれたシンプルな要素から成り立っている。またデザインにおける殴り書きのようなメモやスタンプ、何回もコピーされたフォントなどの特徴は、ディスコよりもパンク的な折衷主義と斜に構えたアプローチによるものだ。「私たちのデザインは洗練されていないので、世間からはデザインだと思われないが、実はすべてにおいてしっかりと考えてある。デザインには人間性が備わっている必要がある。そうでなければすべてが機械から生まれたもののように見えてしまう」アートディレクターのMichael Vadinoはそのアプローチについてこう説明している。

「もちろんすべてが完ぺきで美しい作品を作ることはできる。だがそれでは面白くない」-Michael Vadino

Vadinoは、Murphyとは「ちょっとした強迫観念」を共有しているとし、「もちろんすべてが完ぺきで美しい作品を作ることはできる。だがそれでは面白くないんだ」とその強迫観念について説明している。それゆえに制約を設け、鉛筆やグラフ用紙、ポラロイドなどを意識的に使って作品を制作している彼らは、こだわる理由については、「こういう制約を設けることで面白い何かが生まれる。制約があれば、クリエイティブにならざるを得ない」と説明している。ちなみにMurphyからVadinoに対しては、「良い感じだが、もっとダメにできないか?」という注文が一番多いとVadino本人が明かしている。自らを「拘る人物だ」と称する彼らが、あえて駄目なものを作ろうという姿勢にはある種の可笑しさがある。

尚、つい最近までDFAのロゴ(落書きのような雷マーク)を誰が作ったのかは分かっていなかった。Vadinoはロゴが生まれた当時について、「2000年のある日、スタジオで誰かがこの雷マークとその上にDFAという文字をグラフ用紙に書き残していた。私は『これはいいぞ。これをロゴにしよう』と思った。JamesとTimはこう考える私に全く取り合ってくれなかったが、私は2人を無視して『これを使おう』と決めた。そしてフライヤーデザインに組み込み始めたことで、徐々に本物のロゴとして機能するようになっていった」と振り返っているが、2010年、シドニーでDFAのグラフィックワークの回顧展を開催した後に、Murphyに「俺があのイラストを描いたんだ」と告白されたのだという。(Laura Forde)

EPMD
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Erick SermonとParrish Smithは高校生の時にロングアイランドで出会い、80年代中盤からEPMD(Erick and Parrish Making Dollars)名義で音楽制作をスタートさせた。共にMC兼プロデューサーだった彼らは自分たちの野望をそのグループ名に明確に示している。また「Business」という単語をすべてのアルバムタイトルに用いていることからも分かる通り、EPMDは成功を収めるために計算されたアプローチを用いており、「Please Listen to My Demo」ではSleeping Bag RecordsのサブレーベルFreshと初めて契約を結ぶ前の状況を臆すことなく題材にし、「It’s My Thing」ではPink Floydの「The Wall」のヘリコプターのサウンドで幕を開け、その後The Whole Darn FamilyのループとMarva Whitneyのヴォーカルを大胆に使用している。大都会で生き抜く狡猾さがありつつも、遊び心と90年代の西海岸のギャングスタラップに大きな影響を与えたレイドバックなムードを兼ね備えていた彼らは、成功を収めるに必要なパワーとスキルを持っていた。

「新人アーティストとしてキャリアを積み、作品で金を稼ぐには、ファインアートの道しか残されていなかった」-Eric Haze

アップタウンのグラフィティアーティストEric Hazeも彼らの持つパワーに影響を受けたひとりだった。Marc “Ali” EdmondsのSoul ArtistsクルーのメンバーだったHazeはBeastie Boysと知り合うと、活動を共にし始め、それにつれて彼の名前も知られるようになっていったが、当時既にダウンタウンのギャラリーはストリートアートへの傾向を強めていたため、「新人アーティストとしてキャリアを積み、作品で金を稼ぐには、ファインアートの道しか残されていなかった」(Haze)。しかし、絵画よりも文字やレタリングを好んでいた彼は、1982年にSchool of Visual Artsに入学し、「自分の世代のトップロゴデザイナーになる」という目標を立てると、1987年にはPublic Enemyの『Yo Bum Rush the Show』とLL Cool Jの『Bigger and Deffer』のジャケットデザインを担当した。尚、『Bigger and Deffer』のロゴデザインにおける、タバコ「KOOL」を模した「O」の重ね方が当時話題となった。そして、この2組のアーティストが当時所属していたRussell SimmonsとLyor CohenによるヒップホップエージェントRush Artist ManagementにEPMDも所属していたことがHazeとEPMDの繋がりを作ることになった。

1988年、HazeはFreshからEPMDのデビューアルバム『Strictly Business』のロゴ制作をオファーされる。EPMDに会ったことも、そして彼らの音楽を聴いたこともなかったHazeは、「当時ヒップホップで目立ったロゴを使っていたのはRun-DMCだけだった。だから俺もEPMDのロゴにも太いバーを使用したんだ」とそのデザインの経緯を振り返っているが、その独自の太いロゴは結果的にHazeが素人ではないこと、そしてEPMDがシーンで活躍できる才能を持ったアーティストであることを世間に証明することになった。(Sue Apfelbaum)

FANIA
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FaniaのアートディレクターIzzy Sanabriaはロゴデザインよりも、数々の強烈なアルバムカバーのデザインとFania All StarsのMCとしての大仰なパフォーマンスで知られている。「ラテンアーティストのイメージの向上」を目指し、サルサを世界に紹介しようとしていた彼にとって、ロゴデザインは些細な仕事にしか過ぎなかったが、レーベルが50周年を迎えつつある今も、このロゴは素晴らしいラテンミュージックの象徴として大きな意味を持ち続けている。

Faniaは1964年にバンドリーダーJohnny Pachecoと彼の弁護士だったJerry Masucciによって立ち上げられた。彼らはPachecoが1960年にリリースしたスマッシュヒットアルバム『Pacheco y Su Charanga』(Alegre Records)のジャケットをデザインしたSanabriaにデザイン面での協力を求めた。「『Pacheco y Su Charanga』は当時の大ヒットラテンアルバムだった」とSanabriaは当時を振り返るが、フルートを吹く人物を木版画で表現した彼のジャケットデザインもまた時代を象徴するものとして高い評価を得ていたのだ。SanabriaはFaniaで初めてデザインを担当した『Pacheco at the NY World’s Fair』でもこのスタイルを用いたが、このアルバムではカッターを使って黒い紙をくりぬくことで、パーカッショニストと文字の部分を作りだしている。

「Sanabriaの手描きのロゴは、緻密というよりはむしろそのキャラクターが前面に押し出されている」

もしジャケットの右上に置かれているbevelタイプのFaniaのロゴが普通に思えるのであれば、その感覚は正しい。「最初のロゴは印刷機を使ったんだ」とSanabriaは当時を振り返っている。そして最も有名な次のロゴについては、「1968年頃、Jerryが新しいロゴが必要だと言うので、私たちは彼が気に入るフォントがないか色々チェックした。そして彼が気に入ったフォントを少しひねって作ったんだ」と説明している。角度のついた(beveled)ブロック体の文字が台形のように内側に向かい、その上に「i」のドットが置かれているこの手描きのロゴは、緻密というよりはむしろそのキャラクターが前面に押し出されたものになっているが、このデザインはその後26年間に渡って使用され、Ray Barrettoの『Power』(旧約聖書のサムソンの髪の毛にヒントを得た作品)SanabriaのジャケットデザインやWillie Colónの『The Big Break』(FBIの指名手配書のパロディ)などと共に高い評価を得ることになった。

現在使用されているロゴは、ファッションイラストレーターJoe EulaがFania All-Starsの30周年記念アルバムのジャケット用に描いたパステル調のロゴが元になっている。このデザインでは「FANIA」の文字が旧バージョンよりも縦に長くなり、手前にはミュージシャンの姿が描かれていた。そして「最終的にEulaのバージョンを元にロゴを作ることにした」Sanabriaが色調整を行い、フォントをより直線的に変更して今のデザインを制作した。そしてSanabriaが言うところの「ファインアートのような」Eulaのバージョンを経た今のロゴにも、オリジナルのロゴのスピリットは残されている。(Sue Apfelbaum)