三月 14

武満徹と勅使河原宏:魂を探す旅

国際交流基金日本研究フェローが、日本を代表する作曲家と映画監督のコラボレーションが放つ普遍的魅力の源流を探る

By Lena Pek Hung Lie

 

1996年にこの世を去ってから25年近くが経過したが、武満徹は今も国内外で最も影響力を持つ日本人作曲家のひとりとして評価され続けている。彼のその膨大な作品群は、彼の器用さと多作性の証拠で、その中には現代西洋音楽、100タイトル以上に及ぶ映画・ドラマ・ドキュメンタリー音楽、いくつかの文章や本が含まれている。武満はこれら全てをたった40年弱で生み出した。

 

ほぼ独学で音楽を学んだ武満の西洋音楽との最初の出会いは、勤労動員として大日本帝国陸軍に所属していた1994年のことだった。そこで聴いたシャンソン「聴かせてよ、愛のことばを / Parlez-Moi D’Amour」は、少年武満に大きな影響を与えることになり、戦後、米軍キャンプで仕事を得ることに繋がった。米軍キャンプでの武満は、そこで流れていたラジオを通じて、多種多様な西洋音楽を貪欲に聴いていった。武満の音楽に対する愛情は非常に大きく、16歳になるまでには作曲家になることを決意していた。

 

この頃から、武満はすでに「自分」を「他者」にさらしていた。

 

 

 

“武満と勅使河原は、自分たちの映画と音楽のコンテキストを通じて、オクシデンタリズムを備えた東洋人になるにはどうすれば良いのかを模索しながら、文化の壁を乗り越えようとした”

 

 

 

武満は映画ファンでもあり、時間を作り出して1日3本鑑賞していると発言していた。海外訪問中も、映画館を訪れては、言葉が理解できる、できないを問わず、現地の作品を鑑賞していた。武満にとって、映画は文化表現だった。映画を観れば、レンズが向けられている人たちの日々の苦しみや気持ちを体験する機会を得ることになる。貪欲な映画ファンだった彼が、かなり前から映画製作の本質を捉えていたのは当然だった。

 

映画以外では、武満は自然界に畏怖の念を抱いており、自然風景から自分の作品のインスピレーションを得ていた。武満は、自分の周囲にあるものを細かく聴き込んでいくことで、自然が持つ音や音調を、自分の芸術音楽や映画音楽などに落とし込んでいた。

 

映画音楽の作曲における武満は、作品に合う音源を見極め、それを最大限活用することに非常に優れていた。楽器、自然音を問わず、武満は楽曲の根幹となる音源を電気的に処理することで、微妙なニュアンスを生み出したり、特定のシーンにおけるナラティブに対する自分のイメージを具現化したりしていた。このアプローチが顕著に現れているのが、1964年公開の映画『砂の女』の、風と砂が砂丘で動き回るシーンで使われている楽曲で、これは自然音を録音したあとそれを音源として使用する作曲技法「ミュジーク・コンクレート」によって作られている。

 

様々な作曲スタイルを積極的に取り入れていくという武満のアプローチは、この時代としては、そして偏狭偏屈だった島国の人間としては、非常に珍しいものだったが、これが彼の才能の幅を広げることになった。彼の映画音楽には、後期ロマン派半音階主義、ジャズ、20世紀アヴァンギャルド、辺境の伝統音楽、流行のラジオポップスまでもが、取り入れられた。

 

具体的な例を挙げると、バリのガムラン、トルコのショームと太鼓、鏑矢(かぶらや)、プリペアド・ピアノ、ミュジーク・コンクレートが、それぞれ『心中天網島』(1969年)、『怪談』(1964年)、『おとし穴』(1962年)、『アントニー・ガウディ』(1984年)で使用されている。

 

生涯を通じて国内で最も有名な作曲家として知られていた武満は、当然ながら、同世代の映画監督の間でもその名が広く知られていた。妻の武満浅香は「作曲をしていると、いとも簡単に世間から孤立してしまいました。ですので、主人は良い刺激を受けるために、他の方と一緒に仕事をするのをとても好んでいました」と回想している。武満が映画音楽を提供した映画監督の中には、黒澤明、小林正樹、篠田正浩、大島渚、今村昌平、勅使河原宏などが含まれていた。

 

このような監督たちとのコラボレーションの成功の度合いは、彼らと武満とが受け取った賞の多さから推測できるかもしれないが、このようなコラボレーションの中でも、武満の映画音楽と勅使河原の撮影手法の芸術的融合は、特にユニークで美しい共生関係を築き上げている。

 

 

 

 

勅使河原宏と美の世界との出会いは早く、それはいけばなを通じてだった。勅使河原の父蒼風はいけばな草月流の創始者だった。そして、日本初の前衛映画監督のひとりだった勅使河原も、のちに1980年から2001年までいけばな草月流の三代目家元を務めることになった。しかし、東京美術学校(現:東京芸術大学)で洋画を学んでからしばらくは、芸術家、陶芸家、デザイナー、オペラ演出家など、複数の芸術活動を同時進行させていた。

 

勅使河原が映画に進出したのは1950年代前半で、その後生涯を通じて約20作品を手がけた。その作品群の一部を構成しているのが、独特の細やかな視点から特定の人物を描いていくドキュメンタリー作品で、代表作としては『北斎』(1955年)や『ホゼー・トレス』(1959年)、そして前出の『アントニー・ガウディ』などが挙げられる。長編作品については、初期4作品は全て小説家・劇作家の安部公房と武満とのコラボレーションだった。前出の『おとし穴』と『砂の女』、そして『他人の顔』(1966年)と『燃えつきた地図』(1968年)は全て安部の小説が原作で、アイデンティティや実存、社会からの疎外感がテーマに据えられている。

 

武満と勅使河原のコラボレーションは、公私にわたる長年の友情によって生まれたものだった。Dore Ashtonは、著作『Noguchi East and West』の中で、勅使河原は武満の「compagnon de route」、つまり “人生を共に歩む仲間” だったと記している。また、Ashtonは、この2人と日系米国人アーティスト、イサム・ノグチとの芸術活動上の関係性にも触れており、3人はお互いを尊敬、称賛していたとしている(勅使河原と武満は、別個のインタビューの中で、ノグチが自分の芸術とキャリアの成長と発展を助けてくれたと評価している)。

 

武満と勅使河原の友情の結晶化は、日本全体が “魂を模索している” 時代に起きた。当時は、数世代にまたがる多くの日本人が、大日本帝国時代の封建主義と第二次世界大戦の戦禍が落とした長い影に触れることなく自分たちを社会や世界と結びつける方法を見つけ出せずにいた、孤独な時代だった。

 

 

 

“ありとあらゆる日本的なものを忌避する時代は長くは続かなかった。武満は、John Cageとの関係を通じて、自分の伝統やルーツの価値を受け容れるようになっていったと振り返っている”

 

 

 

武満と勅使河原には、多くの共通点があった。2人は、伝統的な日本文化に対する反抗的な姿勢を共有していただけではなく、共に西洋文化の概念に惹かれていることを公に認めてもいた。

 

「日本の伝統的な古典音楽を聴くたびに、戦争の嫌な記憶が甦った」と発言していた武満は、作曲家になることを決めたあとは、あらゆる日本的なものから距離を取ろうとした。この2人の芸術家は、自分たちの映画と音楽のコンテキストを通じて、オクシデンタリズムを備えた東洋人になるにはどうすれば良いのかを模索しながら、文化の壁を乗り越えようとした。

 

彼らのこの志向は、勅使河原の次の言葉が裏付けている。「そこに日本人と外人のハーフのイサムがやってきて、全てが変わった」 - すでに成功を収めていた "ハーフオリエンタル・ハーフオクシデンタル" のアーティストとの出会いが、 「他者」にとっての他者でありながらも、自分たちの活動が内包している 「他者の芸術」に取り組むことは可能なのだという彼らの考えをさらに強めることになった。

 

こうして、武満は、西洋音楽のオーケストラや西洋楽器のための作品を手がける西洋音楽作曲家として仕事をこなすようになり、勅使河原もまた、近代西洋芸術の支持者となっていった。

 

ドキュメンタリー作品『ホゼー・トレス』(1959年)の撮影のために訪れていたニューヨークから戻った勅使河原は、父が都内に新築した草月会館を、西洋をルーツに持つ前衛芸術作品と実験音楽が交流できる空間にすることを決め、ヨーロッパ、米国、日本の著名な芸術家、音楽家、デザイナー、パフォーマーたちが積極的にエキシビションやパフォーマンスを披露した。その中には、John Cage、Merce Cunningham、一柳慧、武満、David Tudor、ノグチなどが含まれていた。

 

勅使河原のこの試みは大成功となり、美術評論家の東野芳明は、当時の草月会館を「1960年代の日本の前衛芸術の中心」と高く評価した。米軍統治下の日本に育った勅使河原は、映画製作を通じてありとあらゆる西洋を自分の中に取り入れていったが、彼は、地理的な「自分」である “東京” に「他者」を持ち込むという重要な役目も果たした。これは「文化の壁を越える」、または「芸術活動における文化的折衷」の具現として考えることができるだろう。

 

西洋の文化と伝統を自分たちの作品に取り入れ、同化させていった武満と勅使河原は、自分たちを “西洋” のドメイン内 - 「自分」を「他者」の中 − に置いており、2人がコラボレーションした長編映画8作品は、「主権回復後の自分探し」の示唆に富む例として捉えることができる(『アントニー・ガウディ』、『利休』、『豪姫』以外)。これらの8作品には、日本人と日本の社会文化的生活の研究から生み出された現代的なナラティブが用意されている。

 

勅使河原は、能をはじめとする様々な日本の舞台芸術の美術を相当数手がけてきたが、日本人としての自分を表現するメディアとして選択したのは映画だった。元来、映画は西洋のメディアだが、彼はこのアートフォームを非常に高いレベルでマスターした数少ないひとりだった。

 

勅使河原のその優れた映画的才能は、数多くの印象的なシーンで確認できる。『他人の顔』に登場する診療所の奇妙なインテリアデザイン、『砂の女』で描かれる動く砂と泣きすさぶ風、『利休』の茶室に置かれたミニマリストな生け花、『アントニー・ガウディ』のカサ・バトリョ内部などは、ほんの小さなディテールだけで映像に重みを加えることができる彼の才能を示している。

 

 

京都・西芳寺:武満はここで自身のルーツを再評価するきっかけを掴んだ ©Lena Lie

 

 

武満のサウンドに対する原則・主義が、勅使河原の映像に対する武満のアプローチに大きく影響している。武満にとって、音楽やサウンドエフェクトは映画のナラティブにおける副次的要素でしかなく、重要な瞬間にほんの少しだけ鳴らすことで、極端な強調や誇張抜きに観客に特定の体験を与えようとしていた。

 

武満の映画音楽の代表作と言われる『砂の女』を例に挙げよう。エレクトロニックを使用して表現される砂漠の風や、クライマックスで聴かれる緊張感をもたらすストリングスのグリッサンドは、砂丘を巧妙に擬人化しており、間接的に砂丘を女と男に次ぐ第3の主人公に仕立て上げている。これは、他の多くの同時代の作曲家たちとは違う形で、使用されている全てのシーンに命を吹き込めるという武満の音楽の永続的な魅力を示すほんの一例だ。

 

映画の内容を問わず、武満の映画音楽には必ず「他者の中の自分の位置」がモチーフとして用意されている。これが特に顕著なのが、『他人の顔』のビアホールのシーンだ。これは、人工皮膚のマスクを被った主人公(仲代達矢)とそのマスクを用意した主治医(平幹二朗)が新橋のビアホールで酒を酌み交わす中、日本人とアメリカ人のハーフの女性歌手(前田美波里)が、武満が手がけたテーマ曲『ワルツ』に付けられた岩淵達治監修のドイツ語詞を歌うというシーンで、主人公が装着したマスクが本人の感情と心理に与える影響と、主人公がその新たに手に入れた “顔” に徐々に惹かれていることについて意見を交わし合う主人公と主治医の会話に、「あなたはどこ?」と戸惑いや不安を歌う『ワルツ』のドイツ語の歌詞が見事な対比を作り出している。

 

複数の人種をルーツに持つ女性歌手、ドイツ語の歌詞、ビアホールの随所に確認できるドイツやイギリスのマグカップやポスター、外国人客などがフィーチャーされているこのシーン全体が、日本人2人を中心にした「文化的混乱」の研究となっている。このシーンは、武満と勅使河原の「他者の中の自分」弁証の頂点と言って良いだろう。

 

武満と勅使河原の最後のコラボレーションとなった『利休』と『豪姫』は、2人の自分探しが完全に一周したことを示している。両作品のナラティブは、日本を代表する茶人として知られる千利休と古田織部、伝統的な日本の茶道、茶室、いけばなを中心にしている。両作品における勅使河原は、映像表現を通じて日本文化の代表格と日本的美学を崇めており、日本の楽器を起用している武満のレントでデリケートな音楽が、その崇拝を美しくサポートしている。武満と勅使河原の「ありとあらゆる日本的なものを忌避する時代」は長くは続かなかった。2人は、自分たちの手元にあるものへと立ち返っていった。

 

武満浅香によると、武満は最終的に「他者を追従しようとしていた自分」から自分を解放し、伝統的な日本音楽のトロープやツールを自分の作品に起用するようになっていった。また、武満本人は、自分が自分の伝統に対してより受容的になるきっかけは、John Cageとの出会いだったと語っている。禅宗と道教に大きな影響を受けていた米国人作曲家のCageが、武満を自分のルーツに立ち返らせたというのは何とも皮肉な話だ。武満の「自分への回帰」と平行して、勅使河原も1970年代を通じてドキュメンタリーとエキシビションに注力したあと、1980年に草月流三代目家元を継いだ。

 

武満と勅使河原のコラボレーション作品群には、自国の伝統文化に対する個人的な心情の揺れが反映されている。戦争による完全破壊と、その先に見え始めていた大きな世界の魅力が、若者2人のルーツ否定を強めることになった。この「自分」との関係破綻は大きな連鎖を生み出し、2人は作品を通じて「他者」への歩み寄りを強めていった。

 

彼らの作品群の重要性は時の流れに一切弱められていないが、その成功の要因は、戦後固有の日本的精神の模索にあったと言える。ありとあらゆる日本的なものが厳しく見直されていた時代に、武満と勅使河原は文化の壁を越えて「他者」の要素を取り込んだあと、「自分」へと立ち返り、最後はそこに安らぎを見つけたのだ。

 

最後に、現在も続けている「武満の映画音楽研究」の初期研究を助成してくれた国際交流基金(Japan Foundation)にこの場を借りて謝意を表したい。

 

 

※:著者Lena Pek Hung Lieは、2009年度日本研究フェロー

 

 

 

All illustrations inc. Header:©Nayan Graf Quartier 

 

15 Mar. 2019