三月 18

ジャマイカ音楽史:ハイレ・セラシエ1世のジャマイカ訪問

エチオピア帝国最後の皇帝ハイレ・セラシエ1世のジャマイカ訪問、そしてそれがジャマイカに及ぼした影響についてDavid Katzが考察する。

1966年4月19日、ジャマイカに素晴らしい光景が広がった。尚、このレベルの出来事はこの日以降ジャマイカでは一度も起きていない。その日、パリサデス空港(現ノーマン・マンレー国際空港)にはラスタファリ運動において救世主と言われていたエチオピア帝国の皇帝ハイレ・セラシエ1世を歓迎しようと数千人の支持者が集まり、激しい雨にも関わらず、ドラムやバナーを持ち、盛装したラスタファリアンが今か今かとその到着を待ち構えていた。そして一瞬雲が途切れ、エチオピアの国旗の色に彩られ、咆哮するライオンが描かれた専用機が姿を現すと、彼らは大歓声を上げて喜びを表現した-救済の日を遂に迎えたのだ。



このハイレ・セラシエ1世のジャマイカ訪問は、ラスタファリ運動に多大な影響を与えたものとして知られている。神(ジャー)の化身と呼ばれていたハイレ・セラシエ1世に対しジャマイカの政治家たちによる祝宴と首都キングストンの市民権の授与が行われたこの訪問は、ジャマイカにおいて最も迫害されていた市民層であったラスタファリアンの信仰に信憑性を与え、その信仰が初めて公式に正当性を認められることになった。多くのラスタたちが殺害された「コーラルガーデン事件」から3年後に実現したセラシエ1世のジャマイカ訪問に対するラスタファリアンによる熱烈な歓迎は、ラスタファリ運動に関わる人たちを増加させると同時に彼らの掲げる信仰の強度を強めることになったが、このような変化はジャマイカの音楽シーンに大きな影響を与えることになった。セラシエ1世の訪問がなければ、レゲエ界におけるラスタファリ運動の広まりは起きていなかっただろう。

ジャマイカにおけるラスタファリ運動は、マーカス・ガーベイによる「アフリカを見よ。黒人の王が生まれる時、我々は救われるだろう」という預言の3年後の1930年にセラシエ1世が即位したことで始まった。聖書にも同じ内容と受け取れる部分があり、更にはレナード・ハウエル、エマニュエル・エドワーズと言った新たな指導者たちが、神は黒人であり、黒人系ジャマイカ人における聖地はアフリカにあると宣言し始めたことで、この運動はジャマイカ国内の農民層から熱狂的な支持を集めていく。そしてセラシエ1世は黒人の神(ジャー)の化身であるという考えの元、様々な形のラスタファリ運動がジャマイカ全土で根付いていくことになった。しかし、基本的にヨーロッパ中心主義だったジャマイカでは、そのような考えを持つ人は異常者として扱われるか、子供の心臓を食う悪魔信者という意味の「黒い心を持つ人(Blackheart Man)」として忌み嫌われ、特に警察からは酷い虐待を受けることになった。

アンチ側からは「専制君主」などと揶揄されていたセラシエ1世だったが、実際はエチオピアの近代化に多大な貢献をした人物であり、国際問題にも積極的に参加していた。在位中は世界中を飛び回り、1966年には1930年代にムッソリーニのファシズム政権下にあったエチオピア帝国において、エチオピア側への支持を明言していた親和国トリニダード、ジャマイカ、ハイチへの訪問を果たした。特にジャマイカは、1961年にラスタファリ運動の代表団がジャマイカ政府と共にエチオピアを訪れていた経緯から、セラシエ1世にとって特別な意味を持っていた。ちなみにセラシエ1世は以前からラスタファリアンによって崇敬されている事実を知っていたが(神の化身であることは否定した)、訪問がここまで熱狂的に迎えられるとは予想していなかった。

haile-selassie-in-jamaica-portrait


訪問初日、専用機が着陸し、セラシエ1世が機内からタラップに姿を現すと、大勢のラスタファリアンたちが飛行機へと押し寄せ、空港は一瞬で凄まじい光景となった。一向に静まらない群衆に圧倒され、群衆の沈静化が出来なかったセラシエ1世は嘆き悲しみ、一度機内へ戻ることになったが、最終的にラスタのリーダーだったMortimer Plannoが沈静化に成功。ようやくセラシエ1世は降機することができた。この日について、Lee ‘Scratch’ PerryはジャーナリストJean-Francois Bizotに対し次のように語っている。「12000人のラスタが空港で彼を待ち構えていた。預言では、ある朝に白いハトが1羽、ラスタたちの上を飛び、祝祷が行われるだろうと伝えられていた。そしてあの日、専用機は夜明けと共に東から現れ、着陸した時は雨が降っていた。ハッパを回していた我々は旗を振り、音楽を奏でていた。更に、200年前にマルーンたちが使っていた角笛アベン(Abeng)も吹かれていたよ」

「あの経験は絶対に忘れない」-その日セラシエ1世が乗る公用車のドア係を務めたプロモーターCopeland Forbesが振り返る。「奇跡と呼んで良いのかは分からないが、土砂降りだったにも関わらず、専用機が雲を抜けて姿を現すと日光が差し込んだ。そして滑走路に着陸し、パイロットが操縦室の窓を開けてエチオピアの国旗を振ると、飛行機は何千人もの人たちで囲まれたんだ。飛行機のタイヤによじ登る人、ハッパを吸う人、ドラムを叩く人で溢れていた。だから公式の歓迎パーティーなんてとてもじゃないということで、中止になったんだ」-飛行機の燃料が目の前にある中で大量のハッパが吸われていた事実を考えると、負傷者が出なかったことがむしろ奇跡だったと言えるだろう。

セラシエ1世の訪問は、ジャマイカの歴史が持つ分極性を明確に示すことになった。ラスタファリアンたちは空港で「セラシエ万歳!」、「神の子だ!」、「黒人の時が来た!」と叫び、歌い、踊り、セラシエ1世に市民権を与える儀式では、警察署長Eustice Birdに対して激しいブーイングを浴びせた。その一方で、ジャマイカ国内を電車で移動したセラシエ1世が最初に訪れた街、スパニッシュタウンの大観衆は警察側から攻撃され、複数の負傷者が出た。とはいえ、支配層から軽蔑されていたラスタたちに、セラシエ1世の訪問は彼らを多少解放することになった-ラスタの指導者たちはセラシエ1世から勲章を与えられ、Count Ossie率いるバンドがセラシエ1世を前に情熱的な演奏を披露した。

セラシエ1世の訪問はジャマイカのミュージシャンたちに大きな影響を及ぼした。パレードを歩道から眺めていたRita Marleyもそのひとりで、彼女は車上のセラシエの手のひらに焼印の痕が残っているのを確認すると、当時デラウェア州にいた夫Bob Marleyに、自分の信仰を変えると宣言。そしてBob Marleyもジャマイカに戻った後、RitaとWailersと共にラスタファリアンとなった。こうしてラスタファリ運動は徐々に彼らの音楽の中心に位置するようになり、この運動を世界中に広める存在になっていった。

ジャマイカのポップミュージックにおける影響は段階的なものだったが、セラシエ1世の訪問が触媒になったのは確かだ。まず、カリプソニアンLord BravoとLord Creatorが楽曲をリリースしたが、彼らの場合は、信仰を表現した作品というよりは、訪問の話題性を取り上げた作品だった。ジャマイカの音楽シーンにおいて何よりも大きなターニングポイントになった曲は、Peter Toshの「Rasta Shook Them Up」だろう。この曲で初めてアムハラ語が部分的に使用され、また歌詞も「Ally Babylon tremble to see our Father’s face / We got one day of freedom and not one baton did shake」と明確にラスタファリ運動に関連するものとなっている。

 
この曲が発表されるまで、ラスタファリ運動の世界観は、直接的ではなく暗喩的に表現されることが多かった。例えばCount Ossieもスカの前身とも言える記念碑的な名曲「Oh Carolina」をリリースしているが、これはR&Bのロマンス系バラードと言えるような作品だ。またNoel “Zoot” Simmsも讃美歌「Golden Pen」を飛び跳ねるようなスカにアレンジして紹介し、また「Press Along」ではアムハラ語を使用しているが、両曲共に世界観については微妙に暗示的で、一般層にはどのような意味なのかが伝わらなかった。またSkatalitesの「Beardman Ska」などのインストゥルメンタル楽曲も、あくまで信仰をほのめかす程度に収まっている。これらと比較するとToshの楽曲は非常にストレートで、レゲエという音楽の登場と共に開花する新しい方向性の到来を告げるものだった。

そして60年代末までには、Reggae Boysが「Salassie a go burn them with fire」という歌詞を組み込んだ「Salassie」を、U Royが「Righteous Ruler」を、Abyssiniansが「Satta Amassa Ganna」を、そしてBurning Spearが「Zion Higher」をリリースした他、Bob Marleyも「Selassie Is the Chapel」、「Satisfy My Soul Jah Jah」を歌い始め、ラスタファリ運動は世界から注目を集めるようになっていった。

ジャマイカの音楽史において、セラシエ1世ほどの影響を与えた「国外の人物」は存在しない。彼の訪問の1カ月前に同国を訪れていたエリザベス2世でさえも、注目度と影響力では遠く及ばなかった。彼の訪問はジャマイカの歴史-特にラスタファリ運動とレゲエの誕生-において本当に大きな意味を持つ分岐点として、今でも語り継がれている。