六月 27

ルーツレゲエからダンスホールへ

ジャマイカの首都キングストンはこの国の創造力の源として存在し続けているが、1970年代後半から1980年代前半にかけては、ディージェイとシンガーたちが中心となってこの都市を盛り上げた。この時期、Barrington Levy、Dillinger、Trinityなど数多くのアーティストがそれまでのキングストンの音楽の中心だったルーツレゲエを新しい音楽に変えようと試み、その新しい音楽はのちにダンスホールと呼ばれるようになった。今回はその歴史を紹介する。


1981年のBob Marleyの死去がルーツレゲエの終焉とダンスホールの登場の境界線として語られることが多いが、ジャマイカの音楽はそこまでシンプルなものではなかった。もう少し丁寧に調べれば、それ以前にキングストン西部のディージェイたちが媒介となってその変遷が起きていたことが分かる。

ここ50年間の大半に渡り、ジャマイカのポップミュージックは変化を重ねることでその存在を保ってきた。読者の大半は、ダンスホールが生まれる以前は、スカ、ロックステディ、レゲエがジャマイカの音楽の中心だったことは知っているはずだが、実はジャマイカ最古の録音物はジャマイカ土着のフォーク「メント」の作品であり、1950年代後半にはジャマイカ流R&Bが支持されていた。そして独立運動の活性化と共にスカが生まれると、次にシンプルなロックステディが流行し、1968年後半になるとシャッフル感溢れるオルガンを用いたスピーディーなダンスミュージックとしてレゲエが台頭した。しかし、それから1年以内にレゲエのリズムはスピードダウンし、音楽性が社会への抗議とスピリチュアル性にフォーカスするようになると、ルーツレゲエが1970年代を通じて流行した。そして、その次に起こったダンスホールは、ジャマイカの音楽の進化において最も重要なものとして考えられている。なぜなら、ダンスホールは以降、様々な形でジャマイカを支配することになったからだ。

ライターたちはこの一連の変遷を分かりやすい形で説明しようとしてきたが、自然発生した変化が多かったこともあり、疑わしい結論で終わっている内容が多かった。たとえば、しばし引き合いに出される誤解のひとつに、ロックステディのスローペースはジャマイカの暑い夏が生んだものだというものがあるが、雨期と乾期しかない熱帯の国ジャマイカで「暑い夏」は物理的に存在しない。

U Roy
話を元に戻すが、1970年代後半のジャマイカでは、レゲエを新しい音楽に変えようとするゆっくりとした動きが起きていった。まず、Bunny LeeのバックバンドThe AggrovatorsがBunny Leeの作品群を通じ、MFSBの “The Sound Of Philadelphia” (ソウルトレインのテーマ曲)のハイハットのオープンとクローズを参考にした「フライングシンバル」スタイルを生み出したが、その「フライングシンバル」は、Channel OneスタジオのSly Dunbarによって生み出された過激なビートを元にした「ロッカーズ」に取って代わられた。その後、今度はディージェイの台頭があった。ヒップホップシーンでは「MC」として知られる、マイクを使ってサウンドシステムで自己表現する彼らは、楽曲間に話すだけの二次的な存在からシンガーと同様に重視され、シーンのスターとなった。中でもU Royはその素晴らしい功績により、「オリジネイター」と呼ばれ、Big Youth、I Roy、Dennis Alcaponeなどの優れたMCたちのスタイルもシーンに革新をもたらし、ディージェイの人気を更に高めることになった。

初期ダンスホールスタイルの多くは、キングストン西部(ウエスト・キングストン)のゲットーエリアを両断する幹線道路Waltham Park Road付近のディージェイとシンガーによって生み出された。ウエスト・キングストンはジャマイカの音楽の革新において最も重要なエリアで、スカの中心地であった他、ダブ発祥の地としても知られている。また、Wailersを始めとした数々のハーモニーグループの活動拠点でもあり、Clement DoddのStudio One、Duke ReidのTreasure Isla、Lee PerryのUpsetterなど、ジャマイカの最重要レーベルとサウンドシステムの大半もウエスト・キングストンを中心にしていた 。しかし、1960年代前半以降のこのエリアはトライバリズム関連の暴動の中心地でもあり、ジャマイカの2大政党、左派の人民国家党(PNP)と保守派のジャマイカ労働党(JLP)を支持するストリートギャングたちの抗争が起きていた。

尚、Waltham Park Roadがこの政治的に対立するエリアの間を縫うように走っているという点、またダンスホールスタイルの基礎が政治的に最も不安定だった時期と言えるタイミングで生まれたという点は注目しておくべきだろう。アーティストの多くは常にこの内輪もめを乗り越えて活動しようとしていたが、ジャマイカのサウンドシステムのカルチャーにおいて、政治的側面は切っても切れない存在だった。各サウンドシステムはゲットー内の特定のエリアを拠点として活動しており、拠点のある各エリアは必ずいずれかの政党と結びついている。

Linval Thompson
Three Mile Area(Spanish Town Roadに沿ってキングストン中心部の西側3マイルに渡っているエリア)で育ち、シンガーからプロデューサーへ転向したLinval Thompsonは、Al CampbellやWayne JarrettのようなシンガーやBig Joe、Trinity、Ranking Trevorなど、ローカルシーンの音楽を変えようとしていたウエスト・キングストンの若手アーティストたちとの一連の仕事で、ジャマイカの音楽に変化をもたらしたことで知られる、初期ダンスホールにおける最重要人物のひとりだ。「Big JoeはThree MileやKingston 13にいた頃から知っている。俺は自分のファーストアルバムとダブアルバムを制作したあと、Big Joeのアルバムを制作した」Thompsonは振り返る。

またウエスト・キングストンのディージェイたちの強い仲間意識も、このスタイルの開花を促した。Dennis Alcaponeは、 1973年にイギリスへ移住する以前はEl Pasoシステムを率いており、PNPと関係が深いゲットーエリア、Whitfield Townの端にほど近いTwo MileにあるBrotherton Avenueを拠点としていた。 Alcaponeは、自分がU Roy(ジャマイカ国内で初めてチャート首位を獲得したディージェイ)からスタイルを学んだ経験から、El PasoでDillingerの面倒を見ていたが、これがDillingerにとって大きな助けとなり、DillingerはすぐにPayne AvenueのSmith The Weaponのトップディージェイとなった。Dillingerは、「俺はU Roy、Alcapone、King Stittなど自分の前の世代から影響を受けている。ダンスホールにいた彼らにマイクを使わせてくれと頼んでやらせてもらうようになると、世間は俺が次のキングだと思うようになっていった」と振り返っている。

Dillinger
「近所の若者だったDillingerは昔よく俺のプレイを聴きに来ていた。やる気が感じられた」Alcaponeが振り返る。「俺たちがプレイしていると、Dillingerは常にアンプの横にいた。俺がディージェイをしていると、奴が自分のスタイルでディージェイしているのが聴こえた。そしてある晩、奴がマイクを握らせてくれと言ってきたのでマイクを渡してみると、奴に才能があることが分かった。だから俺がマリファナを吸ったり、女性と話したりしたい時は、Dillingerにマイクを渡して、奴に任せた。そうやって奴はキャリアをスタートさせたのさ」

Dillingerは、Lee “Scratch” Perryとの初期作品にはややムラが感じられるが、 “Chucky Skank” や “Stop The War” などのStudio Oneでの作品群を聴けば、独特のスタイルが備わっていることが理解できる。1975年にChannel Oneで制作をする頃までには、彼のリラックスしたトースティングは、ジャマイカン・パトワがふんだんに盛り込まれたスラングの使用と型破りな歌唱法というスタイルが確立されていた。その後、DillingerはIslandと契約して世界的なブレイクを果たし、 “Cokane In My Brain” (BT Expressの “Do It Til Your Satisfied” のレゲエバージョンにブルースのスタンダードソングから拝借した歌詞を乗せたトラック)をスマッシュヒットさせたが、ジャマイカではDillingerがSmith The Weaponに連れてきたTrinityがより大きなインパクトをもたらした。Trinityが当時を振り返る。「俺とDillingerは親友だった。マリファナを一緒に吸った仲だったからさ。DillingerがSmith The Weapon でプレイしていたある晩、奴が俺にマイクを握るように言った。俺が歌うと客は盛り上がったよ。それでDillingerが俺をChannel Oneへ連れて行ったのさ。あそこで俺が書いた曲はすべてヒットしたね」

Trinity and Dillinger
Trinityはどんなリズムでも巧みに乗ることができ、必要に応じてブレイクも生み出せたが、決してその勢いを殺すことはなかった。ロッカースタイルのハードなテイストは彼のリアルなゲットーライフとフィットし、Trinityはたどたどしい “Jailhouse” や、The Mighty Diamondsの名曲 “Have Mercy” を使用したスムースな “All Gone” など数曲のローカルヒットを生んだ。ディージェイは当時の流れに合っていたとTrinityは言う。なぜなら彼と彼の仲間は サウンドシステムを使った活動を定期的に展開していたため、自発的なリリックを労することなく生み出せる環境にあったからだ。「いつも俺たちはスタジオに入る前にダンスホールで練習していた。そうすることで自分たちが何をしたいのかが正確に理解できたんだ。だからスタジオに行ってワンテイクでレコーディングを終える時もあった。当時のディージェイは俺かDillingerを真似ていた。なぜなら俺とDillingerがベストだったからさ。当時Payne AvenueのSoul Hombreに小さなコミュニティがあった。だから俺やDillinger、U Brown、Clint Eastwood、Leroy Smart、Barrington Levyはスタジオを出るとPayne Avenueへ向かって、そこで練習をしたんだ」Trinityは説明する。

上記のアーティストたちはRanking JoeやCharlie Chaplinなどウエスト・キングストンの他のディージェイたちと同様、ダンスホールの革命においてそれぞれ重要な役割を果たしたが、中でもBarrington Levyの貢献は非常に大きく、Roots RadicsがChannel Oneで仕込んだ陽気な “Conversation” のリズムに合わせ、BarringtonがKing Tubbyのスタジオで歌った “Collie Weed” は新たな時代の幕開けとなった。


“Collie Weed” がヒットした時、Barringtonはまだ15歳だったが、 彼はいとこと共にMighty Multitudesとしてレコーディングした作品がお蔵入りになるなど、それまでに数回の失敗を経験していた。彼がブレイクを果たしたのは、ダンスホールへ復帰した後だった。「俺といとこは金で揉めたんだ。だから俺はダンスホールに戻り、サウンドシステムのソロとして活動を始めた。そこからすべてが始まった。当時Burning SpearとTape ToneというシステムがPayne Avenueにあったが、ある夜Leroy Smartが歌っている時にTrinityが『こっちへ来て歌えよ!』と俺にマイクを渡した。そこで俺が “Shine Eye Girl” と “Collie Weed” を披露したら、その場がクレイジーに盛り上がったのさ」

ゲットー内で彼の存在が広まると、すぐにプロデューサーHenry “Junjo” Lawesが意欲的に関わるようになっていった。マッシュルームの品種名をニックネームに持つ痩せ形の若者だった彼は、ゲットーエリアWaterhouseの不良で、以前は政治団体の用心棒を務めていたが、その後Linval Thompsonに助けられ、音楽制作の道へ専念するようになっていった人物だ。Barringtonは彼との出会いを振り返る。 「ある日、タレントショーへ出向くと、Junjo Lawesが俺に会いたがっていると人から伝えられた。当時新顔だったJunjoに俺が会いにいくと、奴は俺に歌ってもらいたいトラックがあると言ってきた。それでスタジオへ出向いて “A Yah We Deh” と “Collie Weed” をレコーディングしたのさ。結果 “Collie Weed” はジャマイカで大ヒットになった。良い気分だったし、ハッピーだったね。それから俺はアルバム『Shaolin Temple』を制作してリリースした、これはアメリカでも『Bounty Hunter』という名前でリリースされたんだ」


部分的にニューヨークのプロデューサーHyman “Jah Life” Wrightによって資金援助がされたこれらの初期作品群は、レゲエ史における画期的な作品群となった。これらには複数の新しい要素が持ち込まれた。まず、Barringtonの天性のショーマンシップが、 “甘美なカナリア” と称された彼の特異なヴォーカルスタイルを通じて表現された。彼のユニークなスタイルは母音が伸ばされて、特定の単語が強調されながら、視覚的な歌詞が驚くほどレンジの広い歌声で届けられた。そしてChannel Oneに所属し、後にRoots Radicsと呼ばれ、レゲエの未来形を象ることになる前衛的なセッションミュージシャンたちによるシャープな演奏があった(Roots RadicsはMorwellsから派生したグループで、安定したベーシストFlabba Holt、控えめなプレイが特徴的なギタリストBingy Bunny、そしてグルーヴィーなドラマーStyle Scottを擁していた)。また、当時10代ながらもジャマイカの音楽を新たな次元へ引き上げたスタジオエンジニアScientistによる革新的なミックススキルや、後に海外のオーディエンスに向けて作られた商業的なレゲエよりも本格的なサウンドを維持し、ローカルのダンスホールを席巻したJunjoのセンスの良さも大きな特徴だった。

UKでこの新しいサウンドを初めて本気でプロモートしたレーベルがGreensleevesだった。彼らはBarrington Levyの次作『Englishman』や『Robin Hood』などJunjoが手がけた作品を数多くリリースした他、Clint Eastwood、Ranking Joe、Michael Prophet、Wayne Jarrett、Eak-A-Mouse、Toyan、Nicodeemusなどのダンスホール初期の人気作品も数多くリリースした。「既にジャマイカでは変化が起きていて、俺たちにとっては神の啓示に思えた」同レーベルの元A&R主任を務めていたChris Cracknellは振り返る。「Barrington Levyの “Shine Eye Gal” がリリースされた時、ジャマイカでは既に新時代が始まっているんだと感じた。それで俺たちがアルバム『Bounty Hunter』をリリースすると、世間は突如として新しいサウンドを求めるようになった」


しかし、CracknellはUKのレコード会社の大半は、その変化に対して前向きではなかったと強調する。「当時は他にも沢山のインディーのレゲエレーベルがあり、シーンには活気があった。だが、彼らはルーツレゲエやラヴァーズロックばかりをリリースし、ダンスホールはリリースしていなかった。1979年から1981年にかけてUKで ダンスホールをリリースしていたレーベルはGreensleevesだけだった。だからチャートによっては、俺たちの作品だけが載っている状況になった。だから他の奴らは『ちょっと待て。ダメだと思っていた音楽が実は好調じゃないか。俺たちもこれをやらないと』と思い始めたのさ。俺たちがリリースしていた作品群で大きな反応が生まれていく様子は素晴らしかったね」

結局、ダンスホールはBob Marleyの突然の死が訪れる前の段階でシーンを席巻することになり、Yellowmanがジャマイカの音楽を代表する新たなキングとなった。ウエスト・キングストンのディージェイたちの数々の発明とそのユニークな歌唱スタイル、そしてRoots Radics、Scientist、Junjo Lawesなどによるサウンドは、「ダンスホール」という大きな成果をもたらし、そこから派生したもののいくつかは今のダンスホールシーンの中でもその勢いを保ち続けている。