九月 28

Fresh Kid Ice & 2 Live Crew

2017年7月にこの世を去ったマイアミベースを代表するグループのメンバーの自叙伝から、結成初期が語られている部分を抜粋して紹介する

By Jacob Katel

 

2017年7月13日に2 Live Crewのメンバー、Fresh Kid Ice(本名:Chris Wong Won)がこの世を去ったというニュースを聞いた我々は打ちひしがれたが、有り難いことに、RBMAに記事を寄稿しているライターで、2015年にFresh Kid Iceの自叙伝『My Rise 2 Fame』で彼と仕事をしたJacob Katelが、この本からの抜粋を用意してくれた。マイアミベースを生み出したグループのひとりで、言論の自由においても大きな貢献をした偉大なるアーティストのキャリアに再び光を当てることにしよう。

 

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マイアミベースは、気楽に楽しい時間を過ごしていた若者の生活の一部だったが、俺のマイアミベースは早すぎる幕切れを迎えるところだった。86th StreetとBicayne Blvdの交差点にあったクラブ、Big Daddy’s 8600での暑い夏の夜のことさ。このクラブは誰もが毎週金曜日の晩に向かっていた場所だった。デイジー・デュークを履いた女たちやドラッグディーラー、マイアミ大学のフットボール選手、殺人犯、そしてただ飲んで騒ぎたい奴らにとっての、マイアミのナンバーワンスポットだった。俺もそこで友人と一緒にパーティを楽しんでいたんだ。1988年の母の日の前夜さ。そしてこの日に俺は死にかけたんだ。

 

全ては俺の友人のA.C.ことAlton Conleyが女と出会って、デートの約束を取り付けたことから始まった。それで相方が必要になった。そして不幸なことに俺がその相方になったのさ。

 

クラブを数軒はしごしたあと、俺たちは午前3時頃にサウスビーチへ向かったんだが、警官に見つかって、立ち去れと言われたんだ。それでAltonのCamaro Z28に乗り込んだんだが、俺は後部座席で眠りこけていた。そして、ハイウェイ112号を西に向かって飛ばしている最中に、運転していたAltonも眠ってしまったんだ。助手席に座っていた女はそれを見ていたはずなんだが、彼女は誰にも言わなかった。ただ、シートベルトを締めて祈りを捧げたのさ。

 

俺たちはかなり派手にクラッシュした。今でもハイウェイのあちこちにその時の破片が残っているくらいさ。俺と、俺の隣に座っていた女は車から放り出された。俺はまるでA.C.のCamaroから外れた金属パーツみたいにコンクリートの上を転がっていった。俺の隣に座っていた女は窓から放り出されて宙を舞い、エンジンが彼女の頭に落ちた。だが、どういうわけか全員命を落とさなかった。

 

俺の腕と肩は完全に神経から切り離されて、いわゆる腕神経叢(わんしんけいそう)麻痺になった。俺の腕の神経系は、指先から脊髄までの全てがズタズタに切断されたのさ。仲間も俺が死んだと信じていて、誰もが「なぁ、Chrisは多分ダメだと思うぜ」と言っていた。

 

この事故は俺たちのファーストアルバム『2 Live Is What We Are』が「Throw The D」、「We Want Some Pussy」、「Get It Girl」に支えられながら50万枚を売ろうとしていた時に起きた。セカンドアルバム『Move Somethin’』のリリースも控えていた。

 

 

世間は、なぜ俺が腕に補装具を着けてステージに上がっているのか不思議に思っているが、真実を言えば、俺は1988年から補装具をずっと着けているのさ。事故の後遺症がずっと残っているんだ。タフな人生だったが、俺はサバイバーだ。訴訟問題、喧嘩、アルコール、変態、ワイルドパーティ、最高裁での勝利、言論の自由に関する英雄的行動、ヒップホップの創出、終わりのないツアー生活、床で寝る日々、スタジオの長時間作業、出費、ヒットトラックの制作、ギャンブル、子作り、家庭、浮気、ミリオン達成、死にかけた2回の心臓発作、糖尿病ステージ2、肝臓疾患、交通事故、肺疾患、脳障害との戦い、危うく命を落とすところだった自宅での出血、スーツケース暮らしなどを経た俺は、ひとつの凄い旅をしてきたのさ。

 

俺がこの旅を続けてきた理由はシンプルだ。音楽が好きだからさ。俺は自分の家族とスタッフの家族を支えてこられたことを誇りに思っている。俺には4人の子供と3人の孫がいて、全員を愛している。家族全員を愛しているんだ。音楽のために刑務所に入り、言論の自由のために戦い、パロディに関する判例を作り、最も大きな影響力を持つヒップホップグループのひとつを生み出し、マイアミベースを世界に示し、音楽への愛を通じて他の才能に影響を与えてこられたのは、本当に有り難いことだと思うし、後悔していることはひとつもない。

 

 

 

“音楽の人をひとつにまとめる力にいつも感服していた”

 

 

 

俺とDavid Hobbs、Yuri Vielotでグループを始めた頃、俺たちに手元にあったのはちょっとしたレコードコレクションと、いくつかの機材と、音楽への愛と、暇な時間だけだった。それで、南カリフォルニアのMarch Air Reserve Baseと近所の公園でパーティをやり始めたんだ。

 

昔はロサンゼルスのHighland Parkで良くジャムをしていた。スピーカーとターンテーブル、BBQセットを置いて楽しい時間を過ごしていたのさ。仲間を呼び出したり、新しい友人を作ったりしていた。俺はいつも、音楽の人をひとつにまとめる力にいつも感服していた。俺が音楽をずっと好きな理由のひとつさ。

 

他人の音楽を聴くのは楽しかったが、だからといって、自分の音楽を作るというアイディアが頭の中から消えることはなかった。Mr. Mixxもパーティを盛り上げられる自分のDJスキルに自信を持ち始めていたし、Amazing Veeも俺のアイディアに乗り気だった。それで最終的に俺たちは自分の音楽をリリースして、様子を見てみることにしたんだ。

 

ある晩、空軍の寮に集まってラップしている時に、2 Live Crewという名前を思いついたんだ。Mr. MixxがDJをしていて、Veeは頭の後ろで手を組みながら両足をテーブルの上に伸ばしていて、俺はマイクを手にして動き回りながらフリースタイルをしていた。こうやって全員が自分の世界に入り込んでいた時に、俺が「We’re the motherfuckin’ crew」というラインをドロップすると、誰かが「Yeah the 2 Live Crew」と続けたんだ。全員がピタリと止まって、お互いの顔を見た。あの瞬間に、俺たちはどう名乗るべきかを理解したのさ。

 

それで、Mr. Mixxがいくつかのビートを打ち込み、俺たちはいくらかの貯金をした。そのあと、Clarement Studiosに向かって「The Revelation」と「2 Live」をレコーディングした。「2 Live」は、周りから「Beat Box」と呼ばれていた。

 

 

俺たちの低音は当時としては少し変わっていた。初期ヒップホップを作っていた連中の大半はLinn Drumを使っていたが、低音がディープじゃなかった。キックにパワーが感じられなかった。だから、俺たちは808を使っていたんだ。当時、808のサウンドはチープでダーティだと言われていたが、やがて南カリフォルニアのサウンドの代名詞になった。808のキックとあのサブベースが特徴的だったからだ。

 

俺たちは808のサウンドの特徴をマスタリングでさらに強調した。スネアを目立たせてビートを強調して、踊りやすくしたんだ。あとは、キックをハードに鳴らして、体に響くようになサウンドにする必要があると考えていた。サブベースが強烈過ぎて壁を揺らすことがあったから、サウンドには細心の注意を払った。

 

俺たちには新品のリールを買う金がなかったから、次善策を取る必要があった。それで人からテープを借りてレコーディングしたんだ。デジタルになる前の時代は、オープンリールのテープレコーダーにレコーディングしていたんだ。

 

次はマスターテープをサンタモニカのMacola Recordsに持ち込んだ。Macola Recordsは自主盤を500枚プレスしてくれる会社で、オリジナルのラベルも貼ってくれた。Eazy EとNWAもここからスタートした。Macola RecordsがRuthless Recordsの最初のマニュファクチャラーとディストリビューターだったのさ。俺たちが活動を始めた頃、Ice T、Too Short、Egyptian Lover、Dr. Dreの最初のグループなんかもMacola Recordsを通じてリリースしていた。正確に言えば、1,000ドルで500枚をプレスしたいと思っていた全員がMacola Recordsに頼んでいたんだ。

 

俺たちのレーベルはFresh Beat Recordsで、Macola Recordsが取引先のプロモーターに俺たちの12インチを送った。俺たちもディストリビューター、DJ、ラジオ局に送ったが、当時はR&Bばかりで誰もラップをプレイしていなかったから難しかった。

 

どういう経緯か分からないが、俺たちのレコードがマイアミに渡り、Henry Stoneを介して、Macola Recordsと仕事をしていたプロモーター、Nick Selarnoの元へ届けられた。奴は仲間と一緒に俺たちのレコードをプッシュして、クラブDJに手渡してくれた。それですぐに人気を獲得していった。

 

「2 Live」には「Like Luke Skywalker, I got the force, whenever I rhyme, I am the boss(ルーク・スカイウォーカーのように俺にもフォースがある。俺がライムすれば、俺がボスなのさ)」というラインがあるんだが、これがLuther Cambellに気に入られた。マイアミでDJ / コンサートプロモーターとして活動していた奴は、Luke Skyywalkerと名乗っていたのさ。

 

 

奴はカリフォルニアに住んでいるMr. Mixxの母親のところに連絡を入れて、ポケベルの番号を伝言で残していた。マイアミに俺たちを呼びたいという話だった。当時の俺たちはパーティで何回かライブをしたことはあったが、本格的なライブパフォーマンスをしたことはなかったし、もちろん、カリフォルニアの外でヘッドライナーを務めたこともなかった。

 

Lukeと奴の仲間は、仕事とパーティで稼いだ金を貯めては、アンダーグラウンドなアーティストを安価で呼んでいた。それで俺たちも話をまとめて、金曜日にマイアミへ飛行機で向かい、マイアミ北西部のCarol Cityと呼ばれるエリアの199th Streetと441号線の交差点にあったPac Jamでライブをしたんだ。このエリアには、Rick RossやFlo Rida、あとはNFLの選手が大勢住んでいた。クラブはキッズで埋まっていた。DJが盛り上げていたから、キッズは飛び跳ねまくっていた。

 

マイアミをちゃんと訪れたのはこの時が初めてだった。熱気と興奮、ワイルドな客がどことなくトリニダード・トバゴを思い出させた。ダンスも見物だった。それまで見たことがないようなケツの振り方をしていた。あとは、“Ghetto Jump(ゲットージャンプ)” と呼ばれていたダンスもあって、全員が同時にジャンプしていた。

 

DJたちはレコードをプレイしながらトークや叫び声で客を煽っていて、学校や付近のエリアなど、ローカルな名前や地名を盛り込みながら、騒々しいコール&レスポンスを生み出していた。これは「regulatin’」(仕切るの意味)と呼ばれていて、DJがマイクで "仕切り" 始めると、キッズたちはいつも大騒ぎだった。

 

俺たちは、キッズが自分たちのレコードのリリックをすでに覚えていて、一緒に歌う姿に驚いた。このライブが成功したあと、俺たちは頻繁にマイアミを訪れるようになった。金曜日の夜8時にマイアミに到着して、3本のライブをこなし、マイアミの綺麗どころとパーティして、日曜日の深夜にカリフォルニアに戻り、朝7時半から始まる空軍の仕事に間に合うようにしていた。

 

 

 

“Pac Jamはスペシャルな時代のスペシャルなクラブだった”

 

 

 

リバティシティは、自分たちのスキルをネクストレベルへ高める場所になった。

 

パーティのライブを通じて、Lukeはハイプマンとしての経験値を積み、コール&レスポンスのテクニックを身に付けていった。俺たちも良い経験を積むことができた。パフォーマンス以外にも、DJたちが俺たちのレコードや他のアーティストのレコードをどうやってプレイしているのかを学ぶことができた。

 

当時の経験が、Greg Allenと一緒にMiami Bass DJ’sを立ち上げるきっかけになった。お互いに金を出し合って、サブウーファーやアンプを購入したあと、マイアミのサウスサイドにパーティに送り込むDJチームを集めた。Kimbo Sliceたちは全員このエリアの出身さ。この会社がマイアミベースという言葉を初めて使ったんだ。Trick Daddyの親父がサウスサイドでイベントを開催するたびに、俺たちの会社からDJを送り込んでいた。

 

マイアミのDJは、スローガンをシャウトしたり、アドリブやフィルインを入れたりして、アクセントやハイライトを作り上げながら、パーフェクトなタイミングであらゆるトラックのリリックも変えていた。ミックスやカット、スクラッチをしながらだ。マイアミのDJはMCでもあり、ハイプマンでもあったのさ。レコードとマイクを同時にコントロールしていたんだ。プレイされていた音楽は、R&B、エレクトロ、ソウル、ダンスを低音重視でミックスしたもので、カリビアンとラテン、ポップが混ざり合ったマイアミ独自のリズム&ブルーズ的な伝統を、ストリートやスタジオ、最新機材から生み出されていた新しいスタイルと組み合わせていた。Pac Jamはこういうフレッシュなビートと低音、そして全員を踊らせる音楽をプレイしていた上に、ユニークなゲットースタイルのヴィジュアルも用意していた。

 

ローカルMCで、パイロテクニックを使うMarvelous JPという男がいた。こいつが木とバケツで作ったオリジナルの爆発物をPac Jamに持ち込んでいたんだ。プラスとマイナスのケーブルを用意して壁に仕込んだあと、「よし、今から爆弾を爆破させるぞ!」と言って、爆発させていた。爆発音が轟いて、壁が揺れた。全員が埃で咳き込んでいた。

 

俺たちもこの爆弾をいくつか手に入れてツアーに持ち込んだんだが、火薬が違法だってことで問題に巻き込まれた。要するに、Pac Jam以外でその火薬は使われていなかったのさ。火薬の量を少しでも間違えば、コンテナが吹き飛んで、誰かが怪我していた可能性があった。グレネードランチャーを自作しているようなものだったのさ。

 

 

 

"マイアミに移住した頃は、昼も夜もひたすら音楽を作っていた"

 

 

 

Pac Jamはスペシャルな時代のスペシャルなクラブだった。俺たちにとっては自分たちのテクニックを磨けた場所だったし、一番熱心なファンがついていた場所だった。パフォーマンスの一番大事な部分を学んだ場所でもあった。このクラブが閉店してから随分長い時間が経ったが、当時通っていた全員の心の中に永遠に残るはずさ。

 

俺は2 Live Crewが半年以内に成功しなかったら、空軍の医療研究所の専門訓練を受けて医学の道に進む予定だった。それで1986年5月に一度除隊して、全員でマイアミに向かって勝負に出たんだ。幸運なことに俺たちの音楽は世間に気に入ってもらえた。

 

俺たちはカリフォルニアからマイアミまで、Mr. Mixxの1977年製Buick 225で向かった。“Deuce and a Quarter” というこの車の通称は、225インチ(約5.715m / Deuceは2、Quarterは25を意味する)もあった車体の長さから来ている。旅費を修理代に回して、無事に着けるようにした。

 

マイアミに着いたあと、1~2週間は知人や友人の家の床やカウチで寝ていた。それから、Miami Jackson High Schoolと同じ通りで、ラジオ局Starforce99から数ブロック先に位置していたアラパタの2ベッドルームのアパートを借りた。

 

アラパタはDade County Jail(デイド群刑務所)とリバティシティの間にあるドミニカ人のエリアで、マジで危なかった。建物から一歩外に出れば、真っ昼間から住民がクラックをやっていた。悪が堂々とのさばっていたのさ。

 

1980年代のマイアミはドラッグが横行していた。Trap House(トラップハウス / ドラッグの製造拠点・取引場所)はどこにでもあった。1晩どころか、1時間で用が足せる売春宿もあった。そういう場所が山ほどあった。当時の俺は車を持っていなかった。必要なかった。出掛けたい時は、Mr. Mixxか他の仲間が乗せてくれたし、そうじゃない時は自転車に乗っていた。楽しく運動できたし、エリアを理解するのも向いていた。

 

俺たちはストリートにたむろっていた。マイアミをホームだと思っていた。ここしか知らなかった。誰もが自分が快適にいられるホームを持つべきだ。マイアミはどこにいても快適だった。俺たちは気楽にストリートをうろついていた。自転車で移動する時が多かった。

 

 

マイアミに移住した頃は、すでにマイアミでライブを始めてから2年が経っていた。俺たちのレコードも人気があった。俺たちは基本的にライブで飯を食っていたが、「Throw The D」が人気を獲得し始めていた。俺が空軍を除隊する前にこのトラックをリリースしていたからさ。2月にこのトラックをリリースして、5月にマイアミへ移住したんだ。それでこの曲がレコードプールに出回るようになると、全米にチャンスが広がっていった。最終的に「Throw The D」は全米で50万枚売れて、ゴールドを獲得した。このトラックがDJたちの間で人気を獲得したんだ。

 

当時の俺たちの家にあったのはベッド3台と小さなテレビ1台、あとはカウチだけで、残りのスペースは音楽制作に使用する機材を置く場所として使っていた。俺たちはとにかく音楽を作っていた。それしかしていなかった。マイアミに移住した頃は、昼も夜もひたすら音楽を作っていたのさ。

 

1989年頃の俺はハードワークをしていた。全員そうだった。Mercedes Benz 190 EとHyundaiがあれば十分だった。快適だった。家族の面倒も見られていたし、自分で使える金も多少持っていた。レーベルも儲かっていた。まるで世界の頂点に立ったような気分だった。

 

そして、ブロワード群の保安官だったNick Navarroが俺たちのアルバムを手にすることになるのさ…。