十一月 25

French Rap Essentials

RBMA PARIS 特集 PART 11:フレンチ・ヒップホップの名盤10枚を紹介

By Laurent Fintoni

 

Kool Hercがブロンクス・セグウィック通り1520番地にある自宅アパートで2枚のヴァイナルをスピンしてブレイクビーツを編み出したその瞬間、ヒップホップが誕生した。しかし、ヒップホップのカルチャーや音楽そのものが今日の私たちが知る姿に成長し世界中のあらゆる場所に根付くようになるまでには、数多の求道者たちはもとより、様々なアウトサイダーたちの人知れぬ努力があった。

 

マンハッタンに住むフランス人ジャーナリスト、Bernard Zekriもそんな知られざるアウトサイダーのひとりだ。1982年、フランスのラジオ局Europe 1から支援を受けたZekriをはじめとした数名がヒップホップを本格的にフランスへ持ち込むと、やがて、DJやラッパー、グラフィティアーティスト、ブレイクダンサーなどといったヒップホップカルチャーをショーケース形式で各地を巡回しながら紹介するイベント「New York City Rap Tour」が実現した。1982年の11月にはパリでもこのツアーが開催され、その夜を境に遂にパリにもヒップホップというカルチャーが根を下ろした。

 

フランスでは以前から「Rapper’s Delight」が幅広い層に知られており、パリのRadio Novaにもヒップホップを選曲する番組が既に存在していたため、ヒップホップという新しいジャンルの認知は少なからずされていたと言って良い。また、New York City Rap Tourがフランス国内にもたらした熱狂も爆発的だった。しかし、フランスにおける1980年代全体を通してのヒップホップの広がりはごく散発的なものに過ぎず、メディアでの扱いも至極冷淡なものだった。

 

 

フランスの一般メディアでは1985年頃までヒップホップは黙殺されていたが、ストリートでの実情は違った。1984年、Dee Nastyによる初のフランス語によるラップレコード「Paname City Rappin’」がリリースされ、パリをはじめとした各都市ではレギュラーパーティ以外にもブロックパーティやオープンマイクセッション、ブレイクダンスショーケースなどが開催され、その後10年以上に渡って成長することになるフレンチ・ヒップホップの種子があちこちで萌芽した。この黎明期においてグラフィティやブレイクダンスはヒップホップのビジュアル的側面を広める役割を大いに果たし、社会の片隅に追いやられていたキッズたちの興味を俄然集めた。やがて彼らはそのありのままの生活をラップという手段で表現するためにペンを執ることになる。

 

 

情熱に突き動かされてフランス独自のシーンを造り上げた数少ない先駆者的存在といえるのが、Dee Nastyと故Lionel Dの2人だった。パリのシーンから登場したこのコンビは、1988年にRadio Novaで「Deenastyle」という番組を手掛け、番組の中で若いラッパーたちにフリースタイルを披露する機会を与えた。数年間に渡りこの番組は「まだスキルこそ足りないが、シーンに参加したいという熱意はある(Lionel D談)」、そんなキッズ世代に大きな影響を与えた。1990年にはAssassin、NTMそしてEJMといったラッパーたちがレゲエ系のシンガーたちに混ざって参加したコンピレーションアルバム『Rapattitude』がVirgin Recordsからリリースされ、新時代の胎動を印象づけた。

 

1990年に収録されたLionel Dのインタビューでは、どうやって自分の言葉が持つリズムをフランス語を解さない米国のラッパーにさえも伝えられたのかについて説明されている。ラップが織りなすリズム、そしてフロウはまさしく世界共通言語であり、新世紀におけるエスペラントだ。たとえその言葉の意味は分からずとも、ラップが持つフロウこそが意味性というレイヤーを解きほぐし、共感を呼び起こす。

 

フランス国内の旧世代たちにとって、たしかにラッパーたちの存在は忌み嫌われる存在だったのかもしれない。しかし、彼らはフランス語という言語における最も鋭敏かつクリエイティブな解釈を証明した存在だった。ラッパーたちはフランス語の言語体系という規範を捩じ曲げた上で新しい形のリアリティを提示し、使い古された言葉に新たな意味を吹き込んでみせた。ラップはフランス語という言語に対して想像もできなかったような変化をもたらしたと言える。

 

ここに筆者が選び出した90年代フレンチ・ヒップホップの最重要アルバムリストは、これらが世に生み出された当時のインパクトをリリースから10年以上を経た現在でも維持している珠玉の10作品だ。もちろん、たった10枚の作品のみではフレンチ・ヒップホップの音楽的な歩みのすべては到底語り尽くせないことは承知の上だ。むしろ、今もなお現在進行形で変貌を続けているフランスのヒップホップにおける一部分だけを切り取ったものに過ぎないのかもしれない。ともあれ、英語圏や日本のリスナーにとって、このディスクガイドがこれまでフランス国外ではあまり知られることのなかったフレンチ・ヒップホップの世界を知るための入り口となってくれれば幸いだ。

 

 

MC Solaar - 『Qui Sème Le Vent Récolte Le Tempo』

Cymande「The Message」のキャッチーなループ(Masta Ace「Me and the Biz」と同じサンプル)を使用して好評を博した1990年リリースのシングル「Bouge De Là single」での成功を足がかりとして、翌1991年に制作されたMC Solaarのデビューアルバムがこの『Qui Sème Le Vent Récolte Le Tempo(訳注1) 』だ。パリ郊外出身のセネガル移民のSolaarは、このアルバムによって1990年代前半のフレンチ・ヒップホップ界の代表格としてフランス国外でもその名を知らしめる事になった。

 

訳注1:風をまく者はリズムを収穫す、という意。Qui sème le vent récolte la tempête = 風をまく者は嵐を刈り入れる = 身から出た錆、という意のフランスの諺をもじったタイトル)

 

1989年に或るDJコンテストで出会ったJimmy Jayをプロデューサーに迎えたこのアルバムは、アップビートなファンクサンプル、粋なジャズループ、スムースなR&Bの断片を絡めて1991年当時の世界的なヒップホップのトレンドに沿った内容となっているが、同時にヒップホップのルーツにおける鋭い解釈も示した。ヒップホップは一過性の流行に過ぎないとする風潮がまだまだ強かったこの当時において、このアルバムのように非常に幅広いリスナーに受け容れられる作品が登場したことは重要だった。興味深いことに、「Armand Est Mort」や「Caroline」などのトラックで聴けるダークなビートは、Massive Attackのようなアーティストたちとの同時代性も感じさせる。「Ragga Jam」ではRaggasonic(フランスのレゲエグループ)と当時弱冠13歳のKery Jamesが参加し、Solaarと共に高速ラップを披露している。ここでJamesがフランス軍に対して浴びせた「平和な土地にわざわざ赴き戦争を起こす奴ら」という痛烈なラインは今も語り草となっている。

 

大学で言語学と哲学を専攻していたSolaarは、Africa Bambaataaの「ラップとは我々にとっての母語であり、それぞれのローカルな現実を写し出す存在なのだ」という言葉に触発されマイクを取った。フランス語の豊かな言語体系を背景に、Solaarは言葉遊びやリリシズムを組み合わせながら「Victime De La Mode」では社会規範に疑問を投げかけ、「Armand Est Mort」では日常に生きる苦しみを描写し、はたまた「Caroline」では失ってしまった愛についてラップする。このアルバムの成功によってSolaarはいわゆる「コンシャス・ラッパー」というステイタスを確立し、その後米国でヒップホップ発展の過程において巻き起こった意識性 vs.リアリズムというイデオロギー対立の構図から直接的な余波を受けながらも、10年以上に渡ってその孤高の存在感を維持しつづけた。

 

 

Ministère A.M.E.R – 『Pourquoi Tant De Haine』

 

先に挙げたMC Solaarの進歩主義的アプローチと対照的な存在と言えるのが、このMinistère A.M.E.Rというラップグループだ。パリ都市圏北部に位置するサルセルというコミューンがあるが、そこは大戦後にアルジェリア系引揚者が数多く移り住み、グラン・アンサンブルと呼ばれる都市暴力が横行する集団住宅群が存在することで知られる。そのサルセル出身である彼らは、そうしたタフな環境におけるリアリティをラップで表現しはじめ、Ministère A.M.E.R(英語で言うところの「Ministry of Action, Music And Rap=行動と音楽、ラップのための省庁」の頭文字をとったもの)は活動開始当初、パリにおけるギャングスタ・ラップの代表格と呼ばれた。そして更に急進的なエッジを強めた彼らは、1991年にリリースされたデビューEPで「knowledge is a weapon, now I know(今や俺たちは知っている。知識は武器だ)」というスローガンを掲げ、当時のPublic Enemyにも呼応するポリティカルな方向性さえ見せ始めた。

 

活動開始当初は4人編成だったA.M.E.Rは、デビューアルバム『Pourquoi Tant De Haine(Why So Much Hate=なぜこれほどまでの憎しみが)』制作時には2人組のデュオに再編成された。2人のラッパー、Stomy BugsyとPassiはこのアルバムを通してゲットーでの生活のリアル(「Garde a Vue」、 「Prisonnier De La Monnaie」)とギャングスタ的な虚無主義(「Au-Dessus Des Lois」、「Damnés」)を軸に展開しているが、アルバム最後を飾る「S.O.S.」では愛を切実に求めている。故Mariano Beuveがプロデュースを手掛けたこのアルバムは、James BrownやBob James、Mandrillといった王道的なサンプルをシンプルに料理したトラックを軸に作り上げられているが、そのラフなエッジを残した質感はSchooly DやN.W.A.といった米国の元祖ギャングスタ・ラップの先達たちとも呼応している。

 

このアルバムで最も強く印象を残したのは2曲目に収録された「Brigitte(Femme De Flic)」だ。この曲のリリックは、白人女性がマイノリティに対して向ける視線に潜む性的欲望を自伝体に近い形式を借りながら写し出し、人種間に介在する緊張を寓話化している。最初のヴァースではこの曲のタイトルとなっているBrigitteという女性 ― 警官の娘で、警官に嫁いだ妻 ― のストーリーが綴られていたが、このアルバムがリリースされて約1年後、この「Brigitte(Femme De Flic)」を含むアルバム中2曲が警察当局に目を付けられ、当時のフランス内務相Charles Pasquaは、このアルバムの発売禁止を求めるという不毛な措置を呼びかけた。A.M.E.Rの2人と政府当局は1995年に映画『La Haine』の内容を巡って再び舌戦を繰り広げることになった。

 

 

Suprême NTM - 『1993… J’appuie sur la gâchette』

1980年代のフレンチ・ヒップホップ黄金期には、次世代への基礎を作り上げ歴史に燦然とその名を残すグループがいくつか登場した。そのひとつがこのSuprême NTMで、彼らもまたパリ・バンリュー(訳注2)のセーヌ・サン-ドゥニの出身者で構成されたグループだ。その中心人物はラッパーのKool ShenとJoeyStarrで、彼らはグラフィティやブレイクダンスからヒップホップの世界に染まり、やがてペンを執ってラッパーの道を志した。

 

訳注2:バンリューとはもともとは「郊外」を指す語だが、ほとんどの場合は移民が多く住む貧しい公営住宅が集まった都市郊外地域を指す)

 

彼らがその名をシーンに知らしめる決定打となったのが、この1991年のデビューアルバム『Authentik』と、その翌年1992年に彼らがZénith de Parisで披露した伝説的なライブパフォーマンスだった。国内でもフランスのラップシーンに注目度が高まりつつあったこの時期、シーンには少なからずメジャーレーベルの資金が流入し、ヒップホップのイデオロギー的なスタンスはメジャーとアンダーグラウンドの間で分断される兆しを見せていた。そんな中、Suprême NTMはメジャーとアンダーグラウンドのちょうど中間に位置していたと言って良いだろう。一方ではオールドスクールに敬意を示して良質なファンク・ベースラインをこよなく愛する楽天的な一面を持ちながら、もう一方ではバンリューでのタフな日常をダークなサウンドと鮮やかなストーリーで綴りながらフランス社会に対する怒りを発露するハードな一面を持っていた。

 

この『1993... J’appuie sur la gâchette』は彼らにとって2枚目のアルバムにあたり、リリース当初セールス的には失敗に終わったが、1997年頃になって後追いで評価されるという現象が起きた。全体を通してDJ Sがプロデュースを手掛けたこの作品は、彼らのダークさにより磨きのかかった音楽性とリリックの内容の充実ぶりが、当時高いレベルで成熟しつつあったことを示している。ただし、当時のフランスでの社会政治的風潮を考えれば、こうした作品が評価されにくい世相だったとも言える。アルバムタイトルを直訳すれば「引き金を引く」といったところだが、そのグループ名(訳注3)の由来やこのアルバム・タイトルトラックで題材にした自殺の現実というテーマも相まって、アルバムのムードはのっけから陰惨だ。当局やメディアはこのアルバムを批判し、こぞってボイコットすることとなり、このアルバムリリースに先立ってプロモーションの一環としてパリ市内のあちこちに掲げられた「このアルバムはパリでは放送禁止になるだろう」というコピーが現実のものになってしまった。

 

訳注3:NTMとはフランス語のNique Ta Mere、英語で言うところの「fuck your mother」の頭文字を取ったもの)

 

多くのファンはこの後1995年にリリースされた3枚目のアルバム『Paris Sous Les Bombes』をこのグループの最高傑作に推しているが、この『1993... J’appuie sur la gâchette』が持つメッセージ性の高さは格別だ。彼らのメッセージは当時のフランスにおける政治的・社会的ムードを鋭くえぐり出すもので、その主張の内容には非常に入念な構成がなされている。なによりも重要なのは、彼らの持つ怒りがコマーシャリズムとは到底相容れるものではないことをこのアルバムがはっきりと示しているという点だろう。

 

 

Various Artists - 『Cut Killer Mixtapes』

90年代前半に勃興したフレンチ・ヒップホップのインディペンデントな潮流の最前線にいた人物こそ、その活動の多くをテープや12インチ、EPといった形式でのリリースにこだわり、メジャーとの取引はアルバムリリース時のみという誇り高い反骨精神を持っていたAssassinだ。90年代のフレンチ・ヒップホップにおけるミックステープシーンは2大巨頭レーベルによって仕切られていたと言って良いのだが、そのひとつがニューヨークに拠点を持つTape Kingz傘下のPasse-Passeで、彼らは米国直送のヒップホップをフランスの市場でも効果的に売ろうとしていた。そして、それに対抗していたミックステープ・レーベルがこのDouble H Productionsだ。

 

Double H ProductionsはDee Nasty、IAM、そしてSolaarなどと活動を共にしてきたパリのDJ Cut Killerによって立ち上げられたレーベルで、彼は映画『La Haine』でもシーンの象徴的な存在として客演している。Double H Productionsのレーベル設立当初のアイディアは、ニューヨークで既に成功していたミックステープというメディア形式をフランスに持ち込むことだった。90年代初頭にスタートしたDouble H Productionsは米国の市場からベストなシングルを選りすぐってミックスし、フランスのラップクルーによるフリースタイルと共に収録した。そのラッパーたちの名前はしばしばそのミックステープの入り組んだアートワークにも掲載されたため、フランスのアーティストにとってはこのCut Killerのミックステープへ収録されることで知名度を上げるという流れが半ば慣習化し、結果的にCut Killerは有名無名を問わず多くのアクトのキャリアを手助けした。

 

1999年、Double H DJ Crewは最初にして唯一のアルバムを発表している。このクルーはCut Killerが率い、Dee NastyやAbdel、Crazy Bなど様々な世代のDJたちが集ったファミリー的な集団だったが、このアルバムの収録曲にはFabeやScred Connexion、113 Clanなどフランスのラッパー勢が参加したほか、Cash MoneyやDJ Dummyといった本場米国のヒップホップのヒーローたちも名を連ねた。ターンテーブリズムのシーンの熱気を捉えつつ、80年代から現代まで続くフランスのあらゆる世代のヒップホップ勢の実力を結集することで最盛期を形にした記念碑的作品と言えるだろう。

 

 

Various Artists - 『Musiques Inspirées Du Film “La Haine”』

1995年頃になると、フランスのラップシーンは本場米国にもひけをとらぬ程の市場規模とクリエイティブな知性を見せつつあった。シーンを牽引していたアーティストたちはもとより、ArsenalやTime Bombといったインディーレーベル、『Radikal』 や『R.E.R』といった雑誌、NovaやGénérations FMのようなラジオ局、そして先述のPasse-PasseやDouble H Productionといったミックステープ・レーベルなど各メディア相互の繋がりが作り上げた豊かな土壌から生まれてきた新世代アーティストたちが次々と頭角を表していた。そんなブームとも言える状況の中、『La Haine』という映画が公開された。人種間の荒涼としたフラストレーション、希望、若い世代の怒りを代弁するラップというカルチャーに脚光を当てたこの作品はしかし、フランスの一般メディアや国民の大部分からは黙殺された。この映画の公開と合わせ、脚本から触発された楽曲を収録したサウンドトラックが「映画のビジュアル的興奮とその世界観を増幅したもの」と銘打ってリリースされた。

 

この映画を監督したMathieu Kassovitzが自ら監修を手掛けたこの独創的なサウンドトラックは、当時のフランスにおけるヒップホップ・ムーブメントの反骨精神と成功への欲求を克明に描き出した貴重なドキュメントで、収録曲も世代的/スタイル的/イデオロギー的/地理的な境界線をあえて明確にはしない形で並べられており、たとえばSolaarやSens Unik(スイス出身のグループ)の楽曲がAssassinやLa Cliqua(荒涼とした都市の情景を描くラップ詩人)といったポリティカルな性格のラッパーたちの楽曲の次に並んでいる他、フランス南部のシーンを代表してやってきたIAMがレゲエ・シンガーのDaddy Nutteaと共演し、ハングリーな新人Direktと女性MCのSté Strauszが共作するなど、興味深いコラボレーションもあちこちに散りばめられている。

 

このアルバムの性格を象徴するかのように、1曲目はMinistère A.M.E.Rの「Sacrifice De Poulets」というトラックで幕を開ける。フックで「鶏を生贄にしようぜ」と呼びかけるこのトラックでは、フランスの警察と政府当局に対して真正面から武装抵抗しようというメッセージが叫ばれている(鶏=Pouletsはフランスでは警察官に対する蔑称)。この曲はMinistère A.M.E.Rのキャリア中でも屈指の存在感を放ち、世間を大きく騒がせた。というのも、時のフランス内務相Jean-Luc Delarueがこの曲は国家および警察に対する名誉を毀損しているとして25万フランの賠償をMinistère A.M.E.Rに対して求めたからだ。政府側は裁判にこそ勝ったものの、この戦いにおける本当の勝者が一体どちらなのかは言うまでもないだろう。

 

 

X-Men & Diable Rouge - 『J’Attaque Du Mike / L’Homme Que L’On Nomme Diable Rouge』

1995年夏、映画『La Haine』が巻き起こした反響はフランスの各地のバンリューを駆け巡った。そしてこの映画に触発されたセーヌ・エ・マルネの友人3人がインディーレーベルと共同体を兼ねたTime Bombを結成すると、数ヶ月後には、このDJ SekとDJ Mars、Ricky Le Bossの3人は『Time Bomb Vol. 1』と題してパリ近郊の無名アクトたちを集めたミニ・コンピレーションアルバムをリリースする。このアルバム中盤には、パリ20区にあるメニルモンタンという地域出身のX-Menと名乗る3人組によるトラック「J’Attaque Du Mike(俺はマイクでぶち壊す)」が収録されていた。Rufus & Chaka Khanの哀愁漂う名曲「Magic in Your Eyes」をサンプリングし、そこに淡々としたライムを乗せたこの曲はシーンに大きな衝撃をもたらした。

 

X-MenとTime Bombがインディペンデントなやり方でこの国のラップゲームのあり方を変えたことは今や現行シーンにおける共通認識だと言っても良い。Time Bombはこの後もLunatic、Oxmo Puccinoそして2 Bal 2 Negといったアーティストを発掘し90年代後半を牽引する存在として新たなアティチュードを根付かせ、X-Menはフランス語でラップするという行為の可能性を再定義してみせた。

 

頭韻法や語呂合わせ、オノマトペ(擬音・擬声・擬態語)と、米国からアフリカに至るまでのクロスカルチャー的な包括性を伴った引用の幅広さが生み出したX-Menの創造性あふれるリリックのインパクトは、90年代後半の彼らの作品でも引き続き感じられた。グループの創始者のひとりであるCassidyは、最近『VICE France』のインタビューでこう語っている。「僕らがやったことは従来のフランス語の言語体系を爆破したようなものさ。いわゆる『主語 - 動詞 - 形容詞』という伝統的な順序を壊したんだ... 僕らは移民の両親の下で育ったから、みんな2つの言語を話せるんだ。フランス語はもちろん、アラブ語やウォロフ語なんかもね」

 

当時のフレンチ・ラップはほとんどの場合ニューヨークのヒップホップ・ビートを参考にしており、サンプリングの手法やプロダクションの方法論もニューヨークのヒップヒップから大きく影響を受け続けてきた。リリックという面でX-Menが成し遂げた功績は、ニューヨークというよりむしろ数年前にロサンゼルスのGood Life Cafe周辺で起こったシーンとの共通性が多い。X-MenにしろGood Life Cafe周辺にしろ、両者共に共通しているのは強いリリシズム(訳注4)志向だ。X-Menのライム、フロウ、言葉遊びはラップという枠を超えてフランス語そのものを刷新する革新的なものであり、もはやAcadémie Française(訳注5)に「不死の存在」として名を連ねるに相応しいほどだった。

 

訳注4:本来は「叙情性」を意味する言葉だが、ここではラップにおけるより広義な詩情性を指す)

訳注5:Académie Française/アカデミー・フランセーズはフランスの国立学術団体で、フランス学士院を構成する5つのアカデミー中で最古の歴史を誇る。その役割はフランス語を誰にでも理解可能な言語に純化し統一することにあり、またフランス語辞書の編纂も重要な任務のひとつとなっている。アカデミーは会員定員40名によって構成されており、詩人、小説家、哲学者、医師、科学者、批評家、軍人、聖職者、民俗学者など様々な背景を持つ専門家たちで構成される。会員資格は終身で、このためAcadémie Françaiseの会員は『Les Immortels = The Immortals、不死の存在』とも呼ばれる)

 

 

IAM - 『L’École du Micro d’Argent』

商業的・歴史的な中心地という意味において、フランスのヒップホップにとってパリはニューヨーク的な存在の街なのかもしれない。とはいえ、米国のヒップホップにしろ、当然ながらニューヨーク単独で作り上げたものではない。フランス南部の商業と文化における中心地マルセイユでは、地元のB-BOYやラッパー、DJが集まったIAMというグループの登場をきっかけに独自のヒップホップシーンが急速に形成された。このIAMはデビューアルバムで、自らの存在を「火星からの正当な攻撃」と呼んでいた。マルセイユを火星と喩えることは、複層的な自主権の主張であり、それぞれイタリア、アルジェリア、マダガスカルと個別のルーツを持つメンバーたちがフランス社会に対して持つ疎外感と誇りを同時に表現していた。また、マルセイユを取り囲む環境の特殊さを考えると、「火星」というメタファーはますます相応しいものだったと言えるだろう。

 

メディアやファンの一部は「都会 vs 地方」という明快で分かりやすい構図にあてはめがちだったが、マルセイユは米国で言うところの「ダーティ・サウス」ではない。いや、むしろIAMが展開していたサウンドはパリのどのグループにも増してニューヨーク的(つまり都会的)だった。IAMのセカンド・アルバム『Ombre Est Lumière(Shadow Is Light=影は光)』は、80年代マルセイユの知られざるナイトライフへの称賛をMichel Gondryの手掛ける鮮やかなエンターテイメント性豊かなPVと共に描き出した「Je Danse Le Mia」(このアルバムのリードシングル)のおかげで、彼らの名をシーンに知らしめる作品になった。また、『Ombre Est Lumière』はエジプト、日本、中国などの歴史や文化を高度にブレンドした彼ら独自の神話的な世界観を更に広く知らしめた作品だった。こうした独自のアプローチはメンバーのステージネーム(Akhenaton、Kheops、Imhotep、Kephren、Shurik’n)にも如実に表れており、彼らは満を持して3作目のアルバム『L’École du Micro d’Argent』の制作へと邁進していった。

 

一部がニューヨークで録音されたその『L’École du Micro d’Argent』で、彼らは当時フランスで絶大な人気を博していたWu-Tang Clanやニューヨーク・ヒップホップからの影響を隠そうとしていない。Imhotepが創り出すビートはWu-TangのトラックメイカーRZAが持つオリエンタルな世界観へのオマージュとなっており、さらにRZAのいとこであるProdigal Sunnが客演したことでこのアルバムは国際的な注目も集めた。映画『スター・ウォーズ』やゲットーの現実、そしてJean Paul Sartre(フランスの哲学者・小説家)などの構成要素を並べてひとつの世界観の中で提示してみせた『L’École du Micro d’Argent』は1990年代フレンチ・ヒップホップにおける金字塔的アルバムのひとつだ。

 

またこのアルバムでは、当初このグループのダンサーとして加入していたFreemanがAkhenatonとShurik’nに加わってラップしており、Wu-Tangの「C.R.E.A.M」をサンプリングした「Petit Frère」のような兄弟賛歌から「Chez Le Mac」「Elle Donne Son Corps Avant Son Nom」のようにセクシャルなテーマのトラック、はたまた「Un Cri Court Dans La Nuit」のような都市の暴力についてラップしたものまで、IAMの神話的でリリカルな世界観はさらに幅広いものになっている。アルバムの最後を飾る「Demain C’est Loin」では、AkhenatonとShurik’nの2人がマルセイユのバンリューで過ごした少年期についてラップしているが、彼ら移民二世の世代にとってこの公営集団住宅での生活がどれほど大きく残酷にのしかかっていたのかという現実を切実に表現したものとなっている。この『L’École du Micro d’Argent』は150万枚以上を売り上げ、フレンチ・ヒップホップのアルバムで最多の売り上げ枚数を誇る作品としてもその名を残している。

 

 

Various Artists - 『L 432』

1995年の『La Haine』の成功を契機にして、フレンチ・ヒップホップ界には一種のコンピレーションブームと呼べる状況が生まれた。Arsenal Recordsは『Time Bomb Vol.1』をさらに発展させた『Le Vrai Hip Hop』というコンピレーションを1996年にリリースし、続いて翌1997年にはHostile RecordsがX-Menを大きくフィーチャーした『Hostile Hip Hop』をリリース。さらにNight & Dayが1997年に『Invasion』(故DJ Mehdiが構成の一部を手掛けた)をリリースしてこの流れに続いた。

 

このコンピレーション『L 432』はフランスの刑法典432条(正確には432–4条、公的権威を持つ者同士の利益の対立を禁じるもの)をテーマにし、パリのアンダーグラウンド・ヒップホップアクト13組が集結したものだ。法律的なトピックとしてはいささか曖昧に思えるテーマだが、おそらくは政治家の汚職に関連したものだろう。フレンチ・ラップではこうしたポリティカルなトピックはしばしば登場するものであり、この同年には「11’30 Contre Les Lois Racistes」というフランスの移民法における偽善性を糾弾し撤廃を求める複数のグループによるポッセ・カットがリリースされている。

 

ギャングスタ主義の信奉者であるLunatic、Kery JamesやDJ Mehdiが在籍したグループIdeal J、 Ministère A.M.E.R.の秘蔵っ子Arsenik、フランス版Busta Rhymesとも言えるBusta Flexなど、この『L 432』には90年代後半のフレンチ・ヒップホップ第2世代ともいえるアーティストたちが数多く参加しており、またCaseyやLady Laisteeなどの女性MCも参加してフレンチ・ラップが男たちだけのものではないことを示している。

 

しかし、このコンピレーションにおいて最も特筆すべき点は、Oxmo Puccinoの「Pucc Fiction」が収録されていることに尽きる。Time Bombとともにシーンに登場したマリ移民であるOxmoは、この後2000年代最初の10年におけるフレンチ・ヒップホップ界の代表格となっていった。映画『パルプ・フィクション』のプロットを拝借してそれらを幾層にも重ね、英国のファンクバンドThe Olympic Runnersをループさせたビートをバックに、Oxmoは女性との二股交際をテーマにラップする。リリカルな器用さと繊細さをクレイジーに行き来するそのさまは、彼の盟友でもあるX-Menからの影響も感じさせるものだ。この「Pucc Fiction」は間違いなくフレンチ・ヒップホップ最高峰に位置する傑作のひとつだろう。

 

 

113 – 『Les Princes De La Ville』

 

1999年頃になると、それまでの10年近くに渡ってフランスのヒップホップシーンを分断してきたコンシャス対リアリストという対決構図はすでに疲弊してしまい、そこには新たなアイディアのためのドアが大きく開かれていた。そんな中、パリ南部ヴィトリー・シュル・セーヌのバンリューから登場した113というトリオは温故知新的な魅力に満ちたデビューアルバムをリリースし大きな反響を巻き起こした。

 

イデオロギーや出身地といった要素はフレンチ・ヒップホップにおいて非常に重要なものだったが、同時にフランスの植民地支配の歴史という亡霊もその音楽性のカギになっていた。1990年代に登場したヒップホップアクトの多くはアフリカやフランスの海外領土諸島からやってきた移民の一世もしくは二世・三世の世代で、フランス政府が推進する同化政策の失敗を暴露することに何の恐れも感じていなかった。113というグループ名は彼ら3人が育った公営住宅の棟番号に由来しており、そのアルバムにはバンリュー出身者としての彼らの出自への誇りや移民としての人生の喜び、苦しみ、葛藤への称賛が込められていた。

 

まだ当時若手であったDJ Mehdiがプロデュースの大部分を手掛け、Cut Killer、DJ Pone、Manu Keyといった面々もプロダクションに手を貸して出来上がった『Les Princes De La Ville(Princes of the City=都市の王子たち)』ではブーム・バップ・スタイル(訳注:ヒップホップにおけるサウンドプロダクションの典型のひとつで、一般的にはハードでブーミーなキックドラムとEQで鋭く尖らせたスネア/クラップ類を組み合わせたリズムを指す)と当時の主流だった埃っぽくザラついたサンプリング技法が明確なコントラストを形成しており、2000年代以降のエレクトロニックシーンで大きく羽ばたいていくことになるMehdiの才能の片鱗が窺える。アルバム表題曲では早いテンポのラップ形式をアップビートなリズムとCurtis Mayfieldの明快なストリングス・サンプルで更に加速させており、随所に忍ばせたスタイリッシュなエフェクトは当時隆盛していたフレンチ・タッチの影響も感じさせている。3人のMCはエナジーいっぱいに地元愛を高らかにラップし、システムの隙間にはまり込んだ野望に光を当てている。「Jackpot 2000」もまた前述のアルバム表題曲での手法を援用しているが、この曲ではディスコサンプルを使った楽しげなパーティヴァイブを演出しており、懐かしのヒップハウスを見事に蘇らせている。

 

このアルバムのもうひとつのハイライトと言える存在が「Tonton Du Bled」で、3部構成の1部を担っているこの曲は、3人のラッパーそれぞれのルーツの地 ― グアドループ島、アルジェリア、マリ ― に捧げられたものだ。アルジェリアのシンガー、Ahmed Whabi「Tonton Du Bled」から引用したサンプルを巧みに使い、北アフリカからの移民家族が夏のバケーションの1ヶ月を故郷に帰省して過ごす典型的なストーリーをRim’Kがラップしている。フランスとアルジェリアの両方におけるステレオタイプを茶化しつつ、自らのルーツでありながらまったく馴染みのない土地(アルジェリア)と自分を受け容れてくれない国(フランス)の狭間でもがき苦しむ移民二世・三世特有の苦悩を描写して見せている。たとえフランス語が分からなくとも、この曲のPVを見ればすべてが理解できるはずだ。

 

 

TTC – 『Game Over 99 / Trop Frais』

90年代のフレンチ・ヒップホップを総括するこのエッセンシャル・ディスクガイドを締めくくるのは、やはりこの1枚以外は考えられない。90年代末にある種の停滞を迎えていたシーンに颯爽と登場した新世代アーティストのDJ Mehdiや113、そして(このリストでは紹介しきれなかったが)1998年に『Heptagone』という決して無視できないデビュー作をリリースしたATKなどを追うようにして数年後に登場したのがTTCだった。このパリ出身のグループのキャリアは、2000年前後のフランスのヒップホップシーンの変遷とシンクロしている。もはや使い古された定番のサンプルや、お決まりのクリシェやイデオロギーではヘッズたちが満足できなくなっていた時代だった。

 

TTCとはTeki Latex、Cuizinier、Tido Bermanという3人のラッパー、そしてDJ Orgasmic、プロデューサーのTacteel(元ATK)とPara Oneまでを含めたチームのような存在で、彼らは英国のレーベルBig Dadaとアルバム複数枚にもわたる大型契約を交わした。英国のレーベルと契約したことで彼らの音楽はフランス国内から飛び出し、ロサンゼルスのラッパーBusdriverやドイツのModeselektor、そしてフィラデルフィアからのし上がってきたDiploとも交流を重ねることになる。

 

だがその前に、まず彼らのファーストシングル「99 Game Over / Trop Frais」に触れておかねばならないだろう。A面は誰もが知っているスーパーマリオの効果音サンプルをMr. Flashが見事に料理し、ノスタルジアの入り交じったクレイジーさを演出しているが、真に重要なのはB面で、ここではシーンの中でTTCのポテンシャルをいち早く発掘したDJ Fabによるほんの少し無骨なビートが刻まれているが、そこに乗せられたラップは、いままで一度も聴いたことがないアクセントと声を持ち合わせていた。Teki Latexの甲高い声質は純粋主義者たちを厄介払いするには十分で、TTCはシーンに混乱の種を蒔き散らすことでその存在感を確立した。その意図が緻密な計算に基づくものだったのかどうかはさておき、このような形でフランスのヒップホップシーンにおける現状に挑戦し、米国のアーティストたちからも尊敬を集めてコラボレーションを果たしたグループはほとんど類を見ない。

 

その成功にも関わらず、TTCは決して孤立した存在ではなかった。米国のヒップホップがその場しのぎのトレンドに翻弄されたものになっていた90年代後半当時、フランスのヒップホップシーンは米国以外の場所に目を向け始めていた。そうした動きの中から登場し、TTCと同様にオリジナリティ溢れるラップで自己表現し始めたのがLes Svinkels、La Caution、James Delleck、Gremsといったアーティストたちだ。こうした新世代のアクトはクラシックで伝統的なヒップホップカルチャーで育ちながらも、その固定化された規範を否定し、独自の信念を持って自分たち自身のヒップホップを主張し、刷新していった。

 

メンバー間の意見や方向性の食い違いもあり、TTCとしての活動は2007年に終焉を迎えたが、TTCというグループの存在はフレンチ・ヒップホップが必ずしも米国のヒップホップの単純な模倣や真似事ではないということを世界に示した。こうしてフレンチ・ヒップホップはイノベイティブな側面を見せながら、言語の障壁を超えたサウンドのアイデンティティを確立していった。

 

2000年代以降のフランスにおけるオルタナティブ・ヒップホップの変遷については、つい先日公開されたドキュメンタリー『Un Jour Peut Etre』に詳しいのでこちらも是非チェックしてもらいたい。