一月 17

Fabio:ロングインタビュー Part 2

ジャングルのオリジネイターのひとりが地元ロンドンのクラブシーンの移り変わりとキャリアを振り返るインタビューの後編を紹介する

By Bill Brewster & Frank Broughton

 

DJ History.comのBill BrewsterとFrank Broughtonが2005年に行ったジャングルマスターとの貴重なインタビューの後半は、Fabio & Grooverider誕生の経緯、Rageでの人気獲得、アウトドアアシッドレイブの衝撃などについて語られている。

 

Part 1はこちら>>

 

 

ソウルからハウスへ至った経緯について教えてください。

 

Phase 1というパイレーツラジオが、俺のターニングポイントになったんだ。1984年だ。Kiss FMもまだパイレーツラジオで、ライセンス取得をしていなかった時代さ。Mendozaって奴が新しくPhase 1を立ち上げて、「地元の連中で番組をやって欲しい」と言ってきたんだ。

 

ブリクストンの話さ。Mendozaはパブの隣の建物の地下にシビーン(違法のバー / クラブを指す)を持っていた。その建物自体が、Mendozaの持ち物だった。奴は建築関係の仕事をしていたからね。で、その建物の上階に、パイレーツラジオ局があった。地下のシビーンは俺たちの溜まり場だったんだけど、全然人気がなかった。土曜の夜でも6人くらいしかいなかった。俺たちは地下で酒を散々飲んで酔っ払ったあと、上階のラジオ局でトラックをプレイしていたのさ。最高の環境だった。

 

俺が担当していたのは夕方のソウル番組で、ファンクと、黎明期のハウスやエレクトロをプレイしていた。ある晩、Mendozaから「おい、俺のダチにChrisって奴がいるんだが、そいつからPaul Oakenfoldって奴がとんでもないことをやってるって話を聞いた。Spectrumってパーティを知ってるか?」と言われた。俺が「知らないね」と返すと、「そのアフターパーティをウチでやろうと思ってるんだ」と言われた。だから、「OK。じゃあ、来週そのSpectrumってパーティに顔を出してみるよ」と約束したんだ。

 

それで、月曜の晩にSpectrumに向かった。ブリクストンの仲間数人と一緒に行ったんだけど、入った瞬間、仲間たちは「なんじゃこりゃ?」と言っていた。そこにいる全員がスマイリーフェイスのTシャツを着ていて、瞳孔は完全に開いていて、歯を噛んでいた。完全な別世界だった。だから、俺を残して他は帰ってしまったんだ。仲間たちは「地獄に迷い込んだみたいだぜ。ブリクストンに帰ろう」と言い捨てて戻っていった。残った俺がふと上を見上げると、Paul Oakenfoldがスモークの中に立っているのが見えた。まるで神様みたいだった。「すげぇな、最高じゃないか」と思ったよ。

 

これがきっかけで俺はSpectrumに毎週通うようになった。そのあと、Paul Oakenfoldと話すようになり、彼から「そっちでアフターパーティをやるんだ。お前もプレイするか?」と言われた。俺が「Mendoza’sでやるのか? アフターパーティを? あそこに人なんか来ないよ」と言うと、「いやいや、あそこのパイレーツラジオ局でハウスをプレイしているDJはGrooveriderだけしか知らないからお前に頼んでみたのさ」と言われた。

 

それで俺は話を受けることにしたんだ。でも、当時の俺はGrooveriderを良く知らなかった。当時のGrooveriderは無礼で攻撃的だったからね。奴は夜の番組を担当していた。Mendozaから「午前1時頃に来てくれ」と言われていたから、Grooveriderとその時間に行って朝までプレイしたけど、お客は来なかった。ひとりもね。Grooveriderは朝から仕事に行かなきゃならなかった。当時、奴はコンピューター関係の仕事をしていたんだ。だから、「悪いけど行くぜ」とMendozaに伝えたんだ。

 

 

 

"お客はパーティがやっていることが分かっていればそれで良かったんだ。夕方4時まで続いた。お客は一度家に戻って、子供を学校へ送り出して、身支度を調えたあと、午後1時に戻ってきていた"

 

 

 

それで、2人でレコードを車に積み込んでいると、ひとりの男が通りをこっちに向かってくるのが見えた。で、俺たちにイングランド北部訛りで「フォッキン・パーティ(※1)はどこだ?」と言ってきたんだ。真冬なのに短パンだった。背中にユニオンジャックのタトゥーを入れたスキンヘッドだった。その男は「フォッキン・ミュージック(※2)を聴かせてくれよ」と言うと、地下に下りていった。

 

それで俺たちも戻ることにしたんだ。「プレイした方が良さそうだぜ。プレイしないと殺されるかもしれない」と言ってね。そいつはひとりで来ていて、ひたすらこんな感じ(クレイジーなダンスを真似る)だった。スピーカーと向き合いながらさ。Mendozaからは「問題ない。酒は買ってるから、プレイを続けてくれ」と言われた。

 

そのあと、上を覗きに行ったGrooveriderが戻ってきて、「なんてこった! 100人単位でこっちに来るぞ!」って叫んだんだ。突然大人数が詰めかけて、一気にスペースが埋まったのさ。超満員になったんだ。それで、次からレギュラーで開催することになったのさ。この頃は月曜と火曜の夜に開催していた。水曜日は大きなパーティもなかったから休みだったけど、火曜日はSamatha’sっていう名前のパーティがあって、それが終わるとお客がこっちに流れてきていた。あとは、木曜日も何かしらやっていたね。そのあとで、週末も任されるようになったんだ。

 

Mendozaから「週末にやりたいか?」と言われたのさ。それで「いいぜ」と返して、フライヤーを自分たちで作るようになった。Grooveriderが60ポンドで中古のFord Cortinaを買ったから、Astoriaで開催されていたTripってパーティに顔を出して、フライヤーを撒いた。あとは知っての通りさ。

 

2年間毎週プレイした。それで名前が知られるようになったんだ。Oakenfoldも遊びに来たし、Trevor Fungも良く来ていた。ビッグプロモーターとも知り合って、色々な仕事をもらえた。これがFabio & Grooveriderの始まりさ。

 

※1 & 2:イングランド北部訛りの「Fuckin’」をFabioが真似たもの

 

 

パーティ名はついていたのでしょうか?

 

いや、ただ “Mendoza’s” と呼ばれていた。パーティ名はなかった。お客も気にしていなかった。やっていることが分かっていればそれで良かったんだ。夕方4時まで続いた。お客は一度家に戻って、子供を学校へ送り出して、身支度を調えたあと、午後1時に戻ってきていた。だから、「2時間プレイしてもらえますか?」と言われるたびに笑えるよ。「それだけ?」ってね。ハッピーな日々だったよ。

 

 

Spectrumはドラッグ的にどんな感じだったのでしょうか?

 


Spectrumはクレイジーだったね。あのパーティは全員がブッ飛んでた。

 

 

Spectrumがどんなパーティなのかをちゃんと理解できたのはいつでしたか?

 

3回目だ。でも、Spectrumはかなりヤバいパーティだった。地獄みたいだったね。だから、嫌がる奴も多かった。音楽は相当ラウドだったし、ライティングも強烈で、音楽はかなりバレアリックだった。ソウルフルな音楽ではなかった。ここは覚えておくべきところだ。Spectrumのサウンドは、何て言うか、フラメンコのミクスチャーみたいで、アーバンな連中は「何だよこれ」と言っていたよ。

 

あとは、アシッドがプレイされていた。エクストリームなサウンドだったね。当時のアシッドはパンクみたいなものだった。でも、俺たちはエレクトロを聴いていたから、“エレクトロニック・ミュージック” という枠で聴くことができた。「このトラック、半端ないな」なんて言いながら聴いていたのさ。Grooveriderは昔からエクストリームな音楽が好きだった。Public Image Ltdなんかを聴いていたから、Spectrumでは「俺の音楽だぜ! イェー!」って感じで盛り上がっていたよ。

 

 

GrooveriderをSpectrumへ連れて行ったのはいつですか?

 

Grooveriderは一滴も酒を飲まないから、結局30分くらいしかいなかった。「先に行くぜ。音楽は好きだけど、正気じゃないな… あとでMendoza’sで会おう。お前は残れよ」と言うから、俺は「OK。分かった。Oakey(Oakenfoldのこと)がプレイしているから、しばらく見させてもらうよ」と返したんだけど、誤解はして欲しくなかった。当時の俺はPaul Oakenfoldを盲目的に崇めていたから、Grooveriderにゲイと思われたかもしれないと思ったんだ。だから「いや、そういう意味じゃないぜ。あと少しで “Jibaro” がかかるからさ」と付け加えた。

 

Grooveriderはバレアリックにはあまり興味がなかった。奴はFast Eddieが好きだったし、DJ InternationalやTraxからリリースされていたソウルフルなアシッドのファンだったんだ。

 

 

 

 

 

Rageが始まった経緯について教えてください。

 

RageはUSの影響を受けていたんだ。木曜開催で、音楽的にはSpectrumと対立していた。Spectrumはヨーロッパ系だからね。

 

 

Justin Berkmann(※3)周辺は絡んでいたのでしょうか?

 

ああ。Justin Berkmann、Trevor Fung、Colin FaverなんかはUS系が好きだったからね。輸入盤やTrax系が好きだったんだ。さらに言えば、連中はSpectrum周辺を嫌っていた。この頃から分裂が始まったんだ。SpectrumとRageの両方に通っている奴はほとんどいなかった。Rageを始めたのは、Star Bar(※4)のバーテンダーを知っていたからなんだ。その頃のStar BarにはDJがいなかった。ただ、ひとりが適当に音楽を流しているだけだった。それで、RageのオーガナイザーだったKevin Millinsに会った時に、「ここでちょっとしたパーティをしないか?」と言われたんだ。

 

それでStar Barでパーティを始めると、一気にお客がついた。毎回満員御礼だった。その理由は、俺たちがアンダーグラウンドヒーロー的なステータスをすでに得ていたからさ。でも、本人たちは自分たちがどれだけの存在なのか理解していなかった。クラブシーンにそこまで本格的に関わっていたわけじゃないからね。

 

そうこうしていると、ある晩、ロサンゼルスでギグがあったColin FaverとTrevor Fungが帰りの飛行機をミスった関係で、Kevinから「今日はお前たちにメインフロアを任せようと思うんだ」と言われた。それで、2人でメインフロアを完全にノックアウトしたのさ。パーティが終わる頃は全員がクレイジーに盛り上がっていた。

 

TrevorとColinのポジションを奪うつもりはなかった。でも、そのあとで彼らとメインフロアをシェアするようになったんだ。その理由は、俺たちが彼らとは違ったからさ。2人は依然として “US限定” って感じだったけど、俺たちは、Frank de WulfやR&S系のような、ドイツやベルギーの初期テクノもプレイしていた。こういう音楽の人気が高まってきたこともあって、俺たちもメインフロアでプレイするようになったんだ。

 

※3:Ministry of Sound共同設立者

※4:Rageが開催されていたクラブHeavenの上階にあったバー

 

 

 

 

 

"当時はDanny Jungleって男にフロアを引っ張ってもらっていたんだ。「ジャングル! ジャングル!」って声を出してもらってね。それで、知らない間に “ジャングル” というタームが生まれていたのさ"

 

 

 

話を端折ると、俺たちはDerrick May、Kevin Saunderson、Joey Beltramのようなアーティストからダブプレートをもらうようになった。ハードコアなパーティから徐々にテクノパーティに変わったんだ。そこに、Masters At WorkのBサイドを放り込んでいた。ストレートなブレイクビーツだから、ピッチを上げるとテクノとミックスできたのさ。で、こういうブレイクビーツをプレイすると、フロアが盛り上がった。「新しい音楽だ!」って感じでね。

 

当時、俺たちはDanny Jungleって男にフロアを引っ張ってもらっていた。「ジャングル! ジャングル!」って声を出してもらってね。それで、知らない間に “ジャングル” というタームが生まれていたのさ。ジャングルトラックを作る連中が出てきた。Living DreamやIbiza Recordsが立ち上がって、ユニークなブレイクビーツが大量にリリースされるようになった。The ProdigyのトラックにSecond Phase「Mentasm」をミックスしていたよ。エクストリームでマッドなトラックをクレイジーにミックスしていたのさ。

 

Rageは女の子や着飾った連中が沢山来るような気取ったパーティから、ゲットーパーティに変わっていった。俺たちがゲットー感を打ち出したおかげで、Heavenは相当怪しいクラブになった。その雰囲気がまたパーティのバイブスを作り上げていた。そのうち、殺されるかどうかも分からないヤバい感じになって、Kevinが不満をもらすようになった。「ちょっとやり過ぎじゃないか? 昔からのお客がついてこれなくなってるぞ」と言われたよ。

 

 

 

 

実際に何か事件が起きたのでしょうか?

 

大きな事件に発展したことは一度もなかった。ケンカがいくつか起きるくらいだった。でも、大物のドラッグディーラーが数人出入りしていたね。だから、そういう雰囲気のパーティになっていったけど、実際に問題が起きたことはなかった。でも、昔からの連中がその雰囲気を少し嫌がるようになった。ソウルフルなハウスをプレイしていたトップDJたちがKevinに正式に文句を言ったんだ。俺たちがRageのルーツを台無しにしているってね。

 

残念な話だけど、これが原因でパーティが終わったんだ。ミーティングでKevinから「プレイする音楽を変えてくれ。昔みたいにハウスをプレイしてくれ。俺は今のお客が気に入らないし、安全面も…」と言われた。それで、パーティが終わったのさ。

 

 

Rageが終わったのはいつですか?

 

1993年だと思う。

 

 

Rageで様々なブレイクビーツを実験的にプレイしていたわけですが、そのプレイを通じて自分たちがユニークな音楽性を打ち出していたことに気付いていましたか?

 

いや。何も意識していなかった。ソウルフルなハウスDJたちからは嫌われていたし、自分たちがやっていることは間違っているのかもしれないと思ったこともあった。でも、現場は盛り上がっていた。Rageは完全な実験だったし、自分たちもそこは意識していた。他のDJのようなプレイはしなかった。でも、俺たちの自由なプレイは、Heavenでは “Fabio & Grooveriderのハウス” だった。俺たちは好きなようにプレイしていた。

 

今は、あそこまで勇敢な感じがない。これが、最近のダンスミュージックが多少停滞しているように思える理由のひとつだろう。あえて挑戦する感じがなくなってしまった。当時はそうだった。ユニークだった。俺たちはRageで世の中を盛り上げたのさ。

 

 

メディアからは叩かれましたよね。

 

そうじゃない。メディアはまずハードコアを叩いたんだ。The Prodigy「Charly」なんかをね。『Mixmag』が特集を組んで叩いたんだ。ハードコアは酷いジョークだってね。でも、ジャングルは、最初はメディアから気に入られていた。ジャングルにはハードコアのカートゥーンな感じ、悪ふざけの感じがなかったからさ。

 

ジャングルはアグレッシブで無骨だった。ブレイクビーツにBuju Bantonのサンプルをかぶせていた。ジャングルは正真正銘のゲットーだった。そのあと、都市部を中心にどうでもいい盛り上がりを見せるようになった。「ジャングルはブラックミュージックだ」、「ブラックミュージックは好きだから、ジャングルも好きだ」、「ジャングルはニューパンクだ。ブラックパンクだな!」なんて下らない評価が次々と生まれたんだ。

 

 

ジャングルがドラムンベースと呼ばれるようになったのはいつですか?

 

1996年頃だね。

 

 

その経緯について教えてもらえますか?

 

ジャングルというタームのイメージが悪くなった。メディアからも徹底的に叩かれるようになった。それで俺たちは「自分たちの音楽を続けるなら名前を変える必要があるぞ。ジャングルは完全に潰されてしまった」と思ったんだ。それで、ラガが少し流行ったあと、ドラムンベースに変わったんだ。でも、1998年に終わってしまった。音楽性を叩かれたんだ。誰もが「ドラムンベースは死んだ」と言っていた。18ヶ月に渡ってそう言われ続けたあと、ガラージが出てきた。ドラムンベースの息の根を止めたんだ。あれが一番大きなダメージだった。

 

 

ガラージは女性も引きつけました。

 

そうさ! ジャングルの女の子たちがガラージに流れたんだ。ガラージはあっという間にビッグになった。トレンドって感じだったね。ドラムンベースは何者でもなかった。雑誌のレビューページには1枚も取り上げられなかったし、パーティスケジュールに掲載されることもなかった。死人扱いだったのさ。

 

でも、今はドラムンベースがこれまで以上にビッグになっている。今年(2005年)は、ドラムンベースのターニングポイントだ。俺たちの音楽には長い歴史があるし、俺たちが消えないことを世間が理解している。俺たちがいなくなることはないのさ。

 

 

Sunriseなど、当時プレイしたアウトドアレイブについて振り返ってもらえますか?

 

Sunriseはクレイジーだったね。プロモーターを知っていた関係で出演することになったんだ。初めてプレイした時のスロットはウォームアップで、21時から22時だった。あの日は、Colin FaverがDJ中に最悪の体験をしたんだ。何が起きたのかは分からないけど、全員が奴に物を投げつけていた。

 

それで、プロモーターから「Colinは下がってくれ。Fabio、まだプレイできるレコードを持っているか?」と言われたんだ。それで「Strings Of Life」をプレイした。「Strings Of Life」はそれまで聴いたことがなかった。世界で初めて「Strings Of Life」をプレイしたDJを名乗るつもりはないけど、Sunriseでプレイされたのは初めてだった。

 

その場にいる全員が立ち上がって… 脚本では書けないような光景だった。まるで『未知との遭遇』だったよ。トラックがビルドアップしていくと、フロアが大爆発した。あのトラックをひと晩中プレイしようと思えばできたと思うね。あの場にいた全員が、家に帰ってから「人生最高のパーティだった」と思ったはずさ。

 

 

 

 

このような一世を風靡したビッグレイブとの仕事はどうでしたか?

 

覚えておくべきは、連中は大儲けしていたってことだ。会場のレンタル料は一切払わなかったし、俺たちのギャラは50ポンドだった。だから、聞いたところによると、連中はトータルで70万ポンド(1990年頃の為替レートで約1億7,500万円)の純利益を得たらしい。警察や税務署に気付かれることなくね。

 

驚きだったのは、連中のやり方さ。M4(※5)のHeston Services(※6)でレイブを開催していたんだ。でも、警察は何も分かっていなかった。大人数が押しかけていたのに、警察はただそこに立っているだけだった。ブラックをそれまで一度も見たことがなかったような郊外の警察官だから、「どうすればいいんだ? こいつらは何をしているんだ? 自分たちはどう動けばいいんだ? 軍を呼ぶべきなのか?」なんて感じだったのさ。

 

そのあと、『The Sun』紙がレイブを大々的に報じて、シーンが崩壊したんだ。「レイバーたちが摂取していると言われているエクスタシーやドラッグを目撃した」なんて報じていたのさ。笑える内容だったけど、これが全てを変えた。状況が完全に変わってしまったんだ。ヘリコプターが上空を飛び、警察がずっとついて回るようになった。破壊活動を仕掛けられているような感じだったよ。

 

全員がそうだったのかは分からないけど、お互いがお互いを警察なんじゃないかと疑っていた。「あの女、潜入捜査官だぞ」、「いや、あれは俺の姉貴だよ」って感じさ。パラノイアになっていたのさ。不気味だったね。

 

※5:UKの高速道路。ロンドンから西へ向かい、ウェールズまで伸びている。

※6:M4のサービスエリア。ロンドン郊外に位置する。かつて飛行場の一部だったため、周辺には巨大な格納庫跡と農地があった。

 

 

 

"俺たちはサッチャー政権に参加していないことに喜びを感じていた。アウトローだった。頭にバンダナを巻いて、ストリートで踊っていたのさ"

 

 

 

自分たちのアウトロー的なポジションにスリルを感じていましたか?

 

ああ。でも、最後の方は楽しくなかった。何しろ、冗談抜きにレコードを抱えて畑を逃げ回っていたからね。レコードを押収されればキャリアは終わりだなんて考えながら、警察から逃げていたのさ。

 

 

ですが、初期は楽しかった…?

 

当日、本部から連絡が来るんだ。本部ってのは、データベースって呼ばれているどこにでもある家のことさ。当時は、その日の21時になるまでどこで開催されるか分からなかった。その頃になると、本部から「Fabio、今日は畑でプレイしてもらうことになると思う。3万~3万5,000人が集まるはずだ。レコードを持ってHeston Serviceへ向かってくれ。そこでまた連絡する」なんて言われるのさ。

 

レコードを持ってブリクストンへ向かうと車が30~40台集まっていた。「今日はどこでやるんだ?」なんて言いながらね。それでみんなで高速道路に乗ってHeston Servicesに到着すると、本部からまた連絡が来て「今日はここだ」なんて指示されるのさ。それでその方向へ車を走らせると、人気(ひとけ)のない広大な農地が見えてくる。すると突然、ひと筋のレーザーが目に入るんだ。バットシグナルみたいにね。それで、「あそこだ!」と言って周囲を見回すと、自分の車のうしろに300台がついてきているのに気が付くのさ。

 

 

では、どこでやるかについては、DJも一般客と同じ情報しか手に入らなかったんですね?

 

そうさ。だから誰もが通ったのさ。「俺のスロットは?」と質問すれば、「お前が到着した時だ」なんて言われたよ。全てがその場の流れで決まっていて、全てが最高だった。

 

農地を車で走っていると、農家の人から「ウチの畑から出ていけ、この野郎!」なんて怒鳴られた。住宅地や倉庫が会場の時は、子供を抱えている親が「何が起きているの? 怖いわ!」なんて言っているのを見かけた。何せ昼まで続いたからね。最高の日々だったよ。ああいうのはもう体験できないだろうな。翌日の昼に反逆者気取りで家に帰るわけさ。タイダイのTシャツを着て、汗だくで、ガソリンスタンドに裸足で立ち寄りながらね。

 

あと忘れちゃいけないのが、これがサッチャー時代の話だってことだ。俺たちは「ファック・サッチャー! ファック・保守党!」って感じだった。自分たちをアウトサイダーに感じていたよ。サッチャー政権を支持していないことに喜びを感じていた。俺たちはお前らとは関係ない、9時~5時の仕事なんてまっぴらゴメンだぜって感じだった。

 

俺たちはアウトローだった。頭にバンダナを巻いて、ストリートで踊っていたんだ。スマイリーフェイスのバッジを付けている奴は全員仲間だったね。スマイリーフェイスが俺たちのマークだった。符牒だったのさ。スマイリーフェイスのバッジを付けている奴を見たら、「おお! シーッ…」って感じだった。

 

 

※:このインタビューは2005年2月に行われたものです。© DJHistory.com

 

Header Image:© Fabio & Grooverider(@Trip Street Party in 1988)