一月 10

Fabio:ロングインタビュー Part 1

ジャングルのオリジネイターのひとりが地元ロンドンのクラブシーンの移り変わりとキャリアを振り返る

By Bill Brewster & Frank Broughton

 

Grooveriderと共にRageのレジデントDJを務めたFabioは、初期ジャングルシーンを代表するDJ / プロデューサーとして世界的な人気を獲得した。1988年後半から1993年後半までロンドンのクラブ "Heaven" で毎週木曜に開催されていた伝説のパーティを通じて、FabioとGrooveriderは、Paul OakenfoldのアシッドレイブパーティSpectrumなどと共にラディカルなエレクトロニック・ミュージック・クラブシーンをリードした。 ロンドン生まれ・ロンドン育ちのFabioは、ティーンエイジャーの頃から市内の様々なクラブに出入りしており、ブルーズ、ソウル、初期ハウス、アシッドなど様々な音楽グループと触れあうことで独自の音楽性とマインドを構築していった。

 

DJ History.comのBill BrewsterとFrank Broughtonが2005年に行ったジャングルマスターとの貴重なインタビューを、Part 1 / Part 2に分けて紹介する。

 

 

 

あなたの出身地から話を始めましょう。

 

ロンドン・ブリクストン出身だ。音楽に囲まれて育った。親父は優秀なレコードファンで、素晴らしい音楽を持っていた。枚数はそこまで多くなかったけど、スカやMotown系など、ブラックミュージックをひと通り揃えていたね。Marvin Gayeのようなバラードも好んでいた。俺が少年時代を過ごしたブリクストンはブルーズパーティシーン(※1)が盛り上がっていた。

 

家の近所にElland Parkっていう名前のエリアがあって、土曜の晩になると、パーティが5つ、6つ開催されていた。サウンドシステムを持ち込んでね。その音は家まで届いていた。誰かの家で開催されているパーティもあれば、古いスクワット(編注:当時のブリクストンはスクワットが多数存在した)で開催されているパーティもあった。13歳、14歳の頃からそういうブルーズパーティに顔を出していた。最高に楽しかったよ。これがきっかけで、音楽がラウドにプレイされる場所に遊びに行くようになったんだ。

 

ブルーズシーンは楽しかったね。ある意味、クラブシーンのオリジナルだった。どのパーティも、馬鹿でかいサウンドシステムとMCを用意していた。トラックはミックスされていなかったけど、ラウドに鳴らすことが重視されていた。

 

※1:ブルーズパーティ / blues partyとはサウスロンドンで開催されていたレゲエ&ダブの有料ハウスパーティの通称。音楽ジャンルのブルーズは関係ない。

 

 

ジャマイカでやっていたことをロンドンでやっていたんですよね?

 

そうさ。ジャマイカのカルチャーを持ち込んだんだ。当時の普通のクラブに遊びに行くと、サウンドシステムは最低だったし、DJも「次はA-Ha “Take On Me” だ、よろしく!」みたいなクソトークをしていた。でも、こっちは違った。ホストがいて、MCがいて、音楽担当がいた。全員でひとつの大きなストーリーを語っているようだった。当時はまだ何が何なのか良く分かっていなかったけど最高だった。ブルーズパーティから俺は音楽にハマり始めたんだ。

 

ブリクストンは素晴らしかったよ。バイブスが良かった。とてもカラフルで、音楽が必ずどこかにあった。音楽と犯罪の街だったね。9時−5時の仕事をしたくないなら、そのどちらかを選ぶしかなかった。犯罪者か、DJに限られていたわけではないけど、何かしら音楽関係の仕事に就くしか道はなかったのさ。金なんて全くなかったよ。どこかに不法侵入して午後1時までパーティを続けていた。

 

 

そういうパーティはエントランス料金を取っていたのですか?

 

ああ。2ポンドくらいだったな。当時は、中に入って、酒を買うことが目的だった。中に入ると、小さなバーカウンターがあって、ちゃんとした作りになっていた。でも、かなりヤバい場所でもあったんだ。ブリクストン指折りの悪い連中が集まっていたからさ。誰かのワニ皮の靴を踏めば、もう終わりだった。冗談抜きでね。映画『グッドフェローズ』みたいな世界だったのさ。連中を怒らせるのはマズかった。

 

連中の中に、目立つ男がひとりいた。One Dreadって通り名でね。いつも女の子をゆっくりと撫で回しているような男だった。女の子と踊りながらジョイントを巻ける器用なタイプさ。俺たちは奴を見て、「奴はイケてるぜ」なんて思っていた。まぁ、狂った時代だったね。ヤバかったのは、全員が連中に憧れていたってことだ。俺も憧れていた。でも、ラッキーなことに、俺は盗みを働くより音楽に興味を持っていた。

 

 

犯罪と音楽は切っても切れない関係だったのでしょうか?

 

DJたちがどこかにサウンドシステムを設置して音楽をプレイしようとすると、悪い連中がついてきた。なぜなら、女の子たちが遊びに来るのを知っていたからさ。だから、綺麗どころがいるパーティには、必ず悪い連中がいた。笑えたのは、俺たちは女の子たちから全く相手にされなかったことさ。ノーチャンスだった。俺たちはまだ14歳くらいで、女の子たちは21歳くらいだったからね。

 

朝の9時くらいになると、音楽がスローダウンした。女の子たちをダンスに誘う時間さ。でも、ブルーズパーティに通っていた3年で俺が女の子とダンスしたのは1回だけだったと思う。その時は緊張しまくったよ。記憶が正しければ、その女の子は曲の途中で帰ったはずさ。これが俺のクラブヒストリーの中で一番古い記憶だ。そのあと、俺はソウルシーンに顔を出すようになったんだ。

 

 

 

“ブルーズパーティでホワイトに出会うことはなかった。99%ブラックだった。でも、ソウルパーティは50/50だった。ソウルパーティで肌の色は関係ないことを知った”

 

 

 

ブリクストン出身のあなたにとって、レゲエは自分の音楽と感じられるものだったのでしょうか?

 

レゲエとソウルを自分の音楽だと感じていたよ。どっちも好きだった。でも、当時はどちらも選ぶわけにはいかなかった。どちらかを選ぶ必要があったのさ。周りからは「ソウルが好きなら、お前はゲイってことだ」と言われたのを覚えているよ。当時は、俺の従姉妹がソウルクラブに通っていたから、一緒に連れて行ってもらっていたんだけど、そのことは誰にも話さなかった。週末はブルーズパーティに顔を出していた。

 

そんなある日、女の子から「この前、ウォーダー・ストリートのCrackersに入っていくのを見たわよ」って言われたんだ。俺はすぐに「行ってないぜ」と返したんだけど、その子に「あれは絶対にあんたよ」と言われた。それで、このやりとりを聞いていた全員から「マジかよ。お前じゃないことを願うぜ」、「あそこはソウルクラブじゃないか。正気かよ!」なんて言われた。15〜16歳の頃、俺はCrackersや100 Clubのようなセントラル・ロンドンのクラブに出入りするようになった。それでソウルムーブメントにのめり込んだのさ。

 

 

100 Clubのパーティは、土曜の昼間に開催されていたティーンエイジャー限定のパーティですか?

 

いや、大人しか入れないレギュラーパーティに通っていたよ。俺は8歳の頃から18歳に間違われるくらい老けていたし、シャツにベストを合わせて通っていた。叔母と一緒に通っていたんだ。金曜の昼間だったね。母親には、ちょっと出掛けてくるなんて言っていた。

 

 

金曜の昼間、つまりCrackersのパーティですね?

 

そうさ。George Powerという名前のDJがプレイしていたんだ。あとはPaul “Trouble” Andersonだ。1970年代だったけど、もうかなり年上に見えたね。Crackersは素晴らしいクラブだったよ。お客はひたすら踊っていた。全員が音楽をちゃんと聴いていたし、最新のUSの輸入盤がプレイされていた。当時のCrackersはフレッシュで重要なクラブだった。

 

 

Crackersのどこに魅力を感じていたのでしょう? Norman Jay、Jazzie B、Cleveland Andersonなど、当時のCrackersを知っているロンドン出身のブラックアーティスト全員が素晴らしかったと言っています。

 

Crackersの魅力について話すと、あそこは出入りしている人種がとにかく多様だったんだ。ブルーズパーティでホワイトに出会うことはなかった。ごくたまに、ローカルの連中を良く知っているホワイトがいたけど、99%ブラックだった。でも、ソウルパーティに行けば、50/50だったんだ。Crackersでそういうミックスなパーティを初めて体験して、肌の色は関係ないってことを知ったのさ。

 

俺がホワイトの女の子とデートしたってどうってことなかったし、ホワイトの男がブラックの女の子とデートしても良かった。何の問題もなかったのさ。DJもホワイトとブラックがいた。そういう社会を知ることができたんだ。「ホワイトとつるんだっていいのか。全然問題ないんだ」ってね。Crackersでは自分の好きなように振る舞えた。DJがトークを挟むこともなかった。ミックスはしなかったけど、トラックを連続でプレイしていたから、ファンクとソウルのシームレスなプレイが聴けた。最高だったね。20年以上経った今、こうしてまたこのクラブについて話をする日が来るなんて、当時は知る由もなかった。ただ土曜の午後に出掛けて、楽しい時間を過ごしていただけだった。

 

 

当時プレイされていたトラックを覚えていますか?

 

Roy Ayers「Running Away」がビッグヒットだった。毎週プレイされていたよ。あとは、Brass Construction「Movin’」だ。最新のUS盤と誰もが知っているトラックがプレイされていた。ジャンルはファンクだったけど、ファンクってのは、要するにダーティソウルだろ? ファンクはソウルより汚れていて、ソウルより作り込まれていなくて、ソウルよりダンスフロア向きだった。Crackersでは踊り倒していたね。

 

 

 

 

ダンサー時代は、やはりPeter Francis(※2)やHorace Carter(※3)のようなダンサーに憧れていたのでしょうか?

 

ああ、彼らね! Horaceの他に、Paul AndersonのDJの時に踊っていた、John O’Reallyというダンサーもいた。優秀なダンサーが沢山いたよ。俺は犯罪者ではなくて、彼らに憧れていたんだ。女の子にもてまくっていたからさ。若い頃はそれが何より大事だろ。とにかく彼らはクールだったよ。彼らがダンスすれば、周りに人垣ができた。パーティが終われば、その日一番の美人を連れ帰っていた。ソウルパーティもブルーズパーティもそこは同じだったね。俺はダンサーたちに憧れていた。彼らのようになりたいと思っていた。

 

犯罪者の道じゃなくて音楽の道を歩めたのはラッキーだった。俺のダンシングパートナーだったColin Daleと一緒に色々なクラブをはしごしたよ。でも、いくつか入れないクラブがあった。土曜の晩にパーティが開催されていたGlobal VillageとLacey Ladyは18歳以上しか入れなかったんだ。だから、この2軒には行かなかったけど、それ以外のセントラルロンドンのクラブは全部回ったよ。

 

※2 & 3:共にロンドンのクラブシーン黎明期を代表するダンサー。Peter Francisはのちに俳優として映画『スカム / Scum』などに出演した。Horace CarterはVivienne Westwoodなどでモデルを務めた。

 

 

そこまで大きな盛り上がりを見せていたソウルシーンをなぜレゲエシーンは敵視していたのでしょうか? 対立していた理由は何だったのでしょう?

 

モッズとロッカーの時代から、シーンはいくつかに分かれていたんだ。ジャズダンサーたちは、ファンクに合わせて踊る連中を腰抜けだと見なしていた。ジャズシーンでは、時速160km/hくらいの高速で踊り続けることが求められた。Electric Ballroomに行けば、ジャズダンサーたちがライバルのソウルクラブの連中と揉めることがあった。ジャズとソウルのバトルさ。ジャズダンサーたちは「腰抜けが。気の抜けた音楽を聴きやがって」と言っていた。当時は誰もがどこかのグループに属そうとしていた。

 

 

レゲエとソウルの対立の根には、ロンドンで生まれ育った世代と、彼らより少し上の西インド諸島をルーツに持つ世代の違いがあるとは思いませんか? ジェネレーションギャップがあったのでしょうか? 先ほど挙げた、Crackersを褒めていたアーティストたちは全員、当時 “UKのアイデンティティ” を模索していて、レゲエはそこにフィットしなかったと言っていました。

 

そこまで意識していなかったと思うし、大きな対立でもなかった。ただ、ロンドンの色々なエリアで起きていた、ローカルな諍い程度だった。ブルーズパーティは、バタシーやクラッパム、サウスロンドンで開催されていて、俺たちはそのサウンドをフォローしていたけど、ブルーズシーンはソウルシーンのようなムーブメントではなかった。あとは、単純にソウルクラブが揃っていたウエストエンドがエリアとして流行っていたっていうのもあったと思う。ウエスト・エンドがホットだったのさ。

 

 

ウエスト・エンドはニュートラルですよね。地元感がありません。

 

遠出する感覚が大事だったんだ。準備して、着飾って出掛けるのが良かったのさ。ウエスト・エンドで服を買えるほど裕福じゃなかったから、ウエスト・エンドのクラブに通ったり、そこでレコードを買ったりしていた。輸入盤をね。リリースされたばかりの最新の音楽を手に入れるっていうのは、レゲエよりもソウルのアイディアだった。ブルーズシーンは昔のトラックを大量にプレイしていた。Alton Ellisとかさ。先進的ではなかった。

 

 

レゲエでは、最新のトラックよりもダブプレートをプレイする方が重要ですよね。

 

その通り。それに、ブルーズシーンはローカル色が強かった。たとえば、バタシーのブルーズパーティに行けば、「地元の人間じゃないな?」なんて言われたし、トラブルに巻き込まれる可能性もあった。ブリクストンのサウンドはブリクストンから外には出なかった。

 

でも、ソウルシーンは違った。ウェンブリーからブリクストンのソウルパーティに遊びに来ている連中に出会うこともあった。俺たちにしてみれば、「ウェンブリーってどこだよ?」って感じだったけどね。イルフォードから来ている連中もいた。イルフォードも聞いたことがなかった。で、「俺たちはブリクストン出身だ」と言えば、「そっちって危ないんだろ」なんて言われた。そのあと、ソウルシーンは、Caister Soul Weekender(※4)と共に大きな盛り上がりを見せたんだ。

 

※4:ソウルムーブメントの火付け役となったビッグパーティ。現在も続いている

 

 

 

“昔の俺はガチのトレインスポッターだった。特定のトラックのシリアルナンバーを記憶していたし、最新のトラックを聴いてプレイヤーを当てようとする時もあった”

 

 

 

Caister Soul Weekendには関わったのでしょうか?

 

関わらなかった。俺の周りはひとりも行かなかったよ。Caister Soul Weekenderの話は良く聞いていたけど、俺たちが行ってみたいと思うようになった頃、Caister Soul Weekenderは排他的なパーティになっていたんだ。ホワイトが多かった。80%はホワイトだったね。不思議だったよ。開催されていたエセックスは人種差別が激しかったし、イギリス国民戦線も盛り上がっていた。だから、「こいつらはソウルで何をやろうとしているんだ?」と思っていたよ。俺たちにはかなり奇妙に思えた。

 

 

DJを始めたきっかけは?

 

元々レコードを集めていたんだ。さっきも話したColin DaleがソウルDJだったから、奴について回って買い集めていたんだ。DJというアイディアにはあまりピンと来ていなかった。シンガーになるか、制作に関わりたいと思っていたんだ。

 

当時の俺はガチのトレインスポッターだったよ。特定のトラックのシリアルナンバーを記憶していたし、友人と一緒に最新のトラックを聴いて、プレイヤーを当てようとする時もあった。「誰が弾いていると思う?」、「ドラムはHarvey Masonじゃないか? ベースラインはBrothers Johnsonぽいな」なんて言い合っていた。で、大抵の場合、俺の予想は当たっていた。深夜1時から早朝5時までのパイレーツラジオを聴きながら、夜通しそんなことをやっていたのさ。

 

実際にDJデビューするまで、DJに興味はなかった。初めてDJをしたのは、ウエスト・エンドのクラブGossipsで、Tim Westwoodのオープニングを担当したんだ。俺たちはソウルDJ時代の彼を追っかけていて、Colinがオープニングを担当していたんだ。それで、ある晩、Timから連絡があって「ちょっとプレイしてくれよ」と言われたんだ。それで「構わないよ」って返したんだ。

 

 

Tim Westwoodはのちにエレクトロシーンでビッグネームになります。

 

俺がDJデビューしたのは、そのちょうど数ヶ月前だったんだ。俺がDJを始めた頃のソウルは「Change」のようなトラックが流行っていたし、最悪の経験になった。俺はシーンに対応できていなかった。全然楽しめなかった。だから「もう結構だ」と思っていたのさ。そのあと、初期エレクトロシーンがスタートしたんだ。エキサイティングだったよ。

 

日曜の晩に開催されていたGlobal Villageのパーティに通うようになった。エレクトロニックな音楽が出てきたんだ。俺たちはソウルシーン出身だから、最初は「こういうエレクトロニックなサウンドは音楽のソウルを殺してるよな」なんて言っていたけど、「Planet Rock」をはじめとする初期Tommy Boyのトラック群には、否定できない魅力があった。あとは、ヤカモト…

 

 

坂本龍一ですね?

 

そうそう。「Riot In Lagos」だ。個人的には「Planet Rock」よりも素晴らしいと思っていた。俺はエレクトロシーンに完全にハマった。でも、周りのソウルボーイたちからはディスられたよ。「エレクトロにハマるなんて信じられないぜ!」ってね。俺がシーンを乗り換えたのは確かだが、当時の俺は、初期エレクトロシーンに関われたことを誇りに感じていた。Tim Westwoodをディスる連中がいるが、全ては奴から始まったんだ。奴はゲームチェンジャーだったのさ。ソウルをプレイするのをやめて、エレクトロに完全に切り替えたんだ。土曜の夕方にSpatsへ出向けば、ダンサーがブレイキンを踊っていた。誰もが『Wild Style』周辺に夢中だったんだ。

 

 

 

 

Spatsはどこにあったのでしょう?

 

オックスフォード・ストリートさ。100 Clubの向かいだよ。Plastic Peopleがあった場所で、薄汚い地下にあった。素晴らしいダンスフロアを備えた小さくてクールなクラブだった。

 

 

Part 2へ続く

 

※:このインタビューは2005年2月に行われたものです。© DJHistory.com

 

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