七月 05

Enter The Sound of Wu-Tang

刀身のような鈍い光を放ち続けるヒップホップクラシック『Enter the Wu-Tang (36 Chambers)』のサウンドの特徴と制作プロセスを当時のエンジニアたちが語る

By Phillip Mlynar

 

Wu-Tang Clanのデビューアルバムはヒップホップサウンドを変えた。

 

1993年にリリースされた『Enter the Wu-Tang (36 Chambers)』は、Dr. Dreがロサンゼルスで生み出した艶がありメロディアスなGファンクへのニューヨークからの無骨な回答のように響き、そのサウンドをメインストリームへ押し上げた。2006年の『Hip-Hop Connection』誌のインタビューでRZAは次のように語っている。

 

「強力なベースを備えている低くてファンキーなサウンドでSnoopとDreがシーンを支配していたから、俺はザラついたニューヨークのベースサウンドを世界に示し、そのサウンドをとにかくラウドに鳴らしてやると思ったのさ。最初から最後まで徹底的にタフなサウンドを作りたかった」

 

RZAのそのヴィジョンが見事に反映されていた、汚れた質感を持つWu-Tang Clanのローファイなサウンドプロダクションは、やがて彼らの代名詞となったが、このユニークなテクスチャの創出に力を貸したのが、Firehouse Studioという名前の小さなスタジオで働いていた若手エンジニアたちだった。ブルックリンのディーン・ストリートにあった消防署跡地からスタートし、のちにマンハッタンへ移転したこのスタジオは、エンジニアYoram Vazanが所有・経営していた。

 

1988年に設立されたこのスタジオは、当初、ニューヨークのタウン誌『Village Voice』への広告出稿でクライアントを集めていたが、やがてヒップホップ系アーティストたちの御用達スタジオとなり、1980年代後半から1990年前半にかけて、Audio Two、MC Lyte、Das-EFX、Guruなどがこのスタジオのヴォーカルブースを使用した。RZAとGZA(当時はPrince RakeemとThe Genius名義)もこのスタジオを使用し、ここで制作したデモによってTommy BoyとCold Chillin’との契約を勝ち取ることになった。結局、それぞれの活動は上手く行かず、共に契約を失うことになったが、この契約破棄がWu-Tang Clanの結成に繋がった。

 

Yoram Vazanは、RZAから「あいつらが間違っていたことを証明するぜ。新しいスタイルを聴かせてやるよ。Prince Rakeemじゃない、RZA、RZArectorのサウンドをな!」と言われたと振り返っている。

 

 

 

"マジックのような音楽だった。あのサウンドを聴いた全員が、凄くクールなことが起きることを感じ取っていたと思う"

Ethan Ryman

 

 

 

その新しいサウンドにテクニカルなサポートを提供したのが、Firehouseで働いていたエンジニアたちだった。『Enter the Wu-Tang (36 Chambers)』のレコーディングセッションを担当したEthan Rymanは、「プロダクションビジネスに失敗して無一文だったから金とスタジオでの経験が必要だった。だから、目の前にあった全てのチャンスに飛びついた」(Ryman談)結果、このスタジオに辿り着いた。

 

Rymanの同僚だったのがDennis MitchellとBlaise Dupuyで、元々、2人はマンハッタンのスタジオThe Boxで働いていたが、このスタジオが閉まると同時に、Vazanが雇い入れた。そして、Carlos BessとNolan “Dr. No” Moffitteが3人の脇を固めた。Ryanはこのチームについて「お互いに学び合いながら、最高のミックスを目指して競い合っていたんだ」と振り返っている。Wu-Tang Clanとの騒々しいミッドナイト・レコーディングセッションを通じて、RZAのハードコアな制作アプローチを壊すことなく全てのトラックにパワフルなインパクトが備わるように注力したRymanとBessは、やがて “RZA御用達” のエンジニアとなった。

 

『Enter the Wu-Tang (36 Chambers)』のサウンドテンプレートは、1990年代のヒップホップに影響を与え続けた。Wu-Tang ClanのMCたちがソロ活動をスタートさせたあとも、Firehouseのエンジニアたちは彼らをコンソール側から支え続け、Ol’ Dirty Bastard、Method Man、Inspectah Dech、RZAのBobby Digital名義やGravediggazのプロジェクトを担当した。メロディよりもディープなベースとヘヴィなドラムを重視した、彼らのタフなプロダクションが生み出すバイブスは、1990年代中頃に生まれたインディペンデントなアンダーグラウンドヒップホップシーンにも影響を与えたあと、今もクラシックなイーストコーストヒップホップサウンドの代名詞であり続けている。

 

ヒップホップ最重要デビューアルバムの1枚に数えられる作品のサウンドがどのように生み出されたのかをエンジニアたちの言葉で振り返っていく。

 

 

登場人物(発言順)

 

Yoram Vazan:Firehouseオーナー

Dennis Mitchell:Firehouseエンジニア

Ethan Ryman:Firehouseメインエンジニア

Nolan “Dr. No” Moffitte:Firehouseエンジニア

Blaise Dupuy:Firehouseエンジニア

 

 

Dennis Mitchell & Yoram Vazan:© Courtesy of Dennis Mitchell

 

 

 

第一房:火宅

 

Yoram Vazan

Firehouseの広さは約93㎡で、2ベッドルームのロフトスペースだった。大きなリビングルームがあって、キッチンとウォークインクローゼットが隣接していた。そのウォークインクローゼットをヴォーカルブースとして使用していた。ヴォーカルブースは、MC LyteとDas EFXの作品、あとはWu-Tang Clanがメジャーと契約する前にWu-Tang Recordsからリリースした「Protect Ya Neck」で使った。ベッドルームのひとつがそのヴォーカルブースに隣接していたので、窓を作ってヴォーカリストたちを見られるようにした。「Protect Ya Neck」の制作を終えたあと、スタジオをブルックリンからマンハッタンへ移した。

 

Dennis Mitchell

世の中には2種類のスタジオがある。投資家がデザインしたスタジオと、エンジニアがデザインしたスタジオさ。Firehouseは、初めて自分が納得できたスタジオだった。Yoramがオーナーで、彼自身が投資したスタジオだったが、彼はエンジニアだった。だから、エンジニアがデザインしたスタジオになっていたのさ。美しかったよ。

 

Ethan Ryman

Yoramは機材に対してスマートなアプローチを取っていた。Firehouseは高額の予算が投じられた高級なスタジオじゃなかったが、Yoramはその “クラス” を上回るサウンドを生み出せていた。当時はまだ、正しいルートさえ知っていれば、徐々に人気を獲得するようになっていた温かくて太いサウンドが得られるチューブ系ヴィンテージ機材を手頃な値段で手に入れることができた。俺の記憶が正しければ、Yoramはそういう機材を安価で手に入れて、自分でレストアしていたんだ。1980年代のHarrison製コンソールと24チャンネル対応の2インチテープデッキがあったのを覚えているよ。テープデッキはPrinceのスタジオに置かれていたものだって言っていたね。

 

Dennis Mitchell

Ampexのテープデッキがあって、Princeがかつて所有していたものだと言われていた。Yoramはそう言っていたよ。

 

Ethan Ryman

あのテープデッキはピカピカの新品じゃなかったが、機能していた。「Princeが持っていたテープデッキじゃない」と言っていたクライアントがいたのを覚えているよ。彼は「Prince Markie Dee(The Fat Boys)が持っていた奴じゃないのか?」と言っていた。

 

Dennis Mitchell

マイクはAKGだった。当時のマイクの中ではひときわ艶があってクリアだった。

 

Nolan “Dr. No” Moffitte

FirehouseにはPeavey製のコンソールもあった。悪くないコンソールだったが、おそらくスタジオに置かれていた機材の中で最も低質だった。100万ドル単位で売られているSSL(Solid State Logic)製のようなクオリティではなかったが、機能性は高かった。Firehouseでは数多くのヒップホップ作品を手掛けたよ。初期ヒップホップのメッカ的スタジオだったね。

 

Ethan Ryman

API製プリアンプとEQが詰まれたラックと、Urei 1176が数台あったのを覚えているよ。Pultec製EQも数台あったね。コンソールの奥の壁には巨大なWestlake製モニタースピーカーがはめられていて、コンソールの上にニアフィールド用としてYamaha NS10が置かれていた。NS10の間にはAurotone製のモニタースピーカーが置かれていた。あとは、Yoramが初期3Dサウンドプロセッサを持っていたのを覚えているよ。位相を変化させるとリスナーの前や後ろからサウンドが鳴っているように聴こえたんだ。サイレンの音を右にひねっていけば、目の前を通過するような効果が得られたんだ。

 

 

 

 

第二房:嚆矢

 

Dennis Mitchell

俺はShyheim(Wu-Tang関係者)のファーストアルバム『AKA the Rugged Child』のレコーディングを担当した。このアルバムのプロデューサーRNSとは数多くの仕事をこなしていた。その頃に、彼に言われていたんだ。「人を集めてグループを結成しようとしているんだ。Wu-Tang Clanっていう名前だ」ってね。Wu-Tang Clanの名前を初めて聞いたのは彼からだったのさ。RNSとRZAは仲が良かったし、RZAがスタジオにやってきて、Shyheimのアルバムに少し手を加えた時も何回かあったが、彼らがWu-Tang Clanなんだってことを教えてくれたのはRNSだった。

 

Ethan Ryman

Shyheimっていう名前のキッズの作品をレコーディングしていたRNSっていうプロデューサーと1セッション仕事をした。当時、Shyheimはまだ10歳くらいだったと思うが、とんでもないスキルの持ち主だったから、作業は上手く行った。それで、RNSが、俺がいい仕事をすることを従兄弟に教えたんだろうな。それで、俺はその従兄弟とも仕事をするようになった。その従兄弟はRakeemって名前で、Wu-Tang Clanというグループと活動していた。当時は誰もそのグループ名を知らなかったし、俺も会うまでは、ただ仲間内でデモを作っているだけで、どうせ大した音楽はやっていないんだろうと思っていた。

 

Dennis Mitchell

Gravediggazがデビューしたあとでさえも、俺は「RNSはどこにいっちまったんだ?」と思っていた。誰もはっきりとした答えを返してくれなかった。長いことRZAと仲違いしたんじゃないかと思っていたよ。

 

Yoram Vazan

Wu-Tang Clanは、Firehouseでシングル「Protect Ya Neck」を制作した。素晴らしいトラックだった。ワイルドでハードコアだった。私はスタジオを出たり入ったりしていたから、彼らと一緒にトラックを聴くこともあったが、実際に完成すると、金が足りないって言い出したのさ! RZAには「心配するな。払える時に払ってくれ」と伝えた。300ドル程度だったと思う。あの頃の彼らがよく25セント硬貨で精算していたのを覚えているよ!

 

Blaise Dupuy

俺はフリーランスのレコーディングエンジニアで、ブロードウェイにあった The Boxという名前のスタジオで仕事をしていた。このスタジオが閉まると、ここで働いていたDennis MitchellがブルックリンのFirehouseで仕事を始めたのさ。俺はたまたま手が空いていた。だからシングル「Protect Ya Neck」の大半は俺が立ち会ったんだ。それで、このシングルのレコーディングが終わると、Ethanが奴らのレコーディングの大半を担当するようになったんだ。

 

 

 

第三房:達人

 

Yoram Vazan

コントロールルームのプライバシーを侵害しないことは非常に重要だが、私はちょこちょこ顔を出して聴いていた。RZAがサンプラーを使ってEthan Rymanと一緒にビートを組んでいた。いくつかのサウンドを足すためにシンセサイザーとギターも持ち込まれていた。RZAはギターをまともに弾けなかったが、サンプラーに取り込んで、自分が求めているサウンドに変える方法を知っていた。

 

Dennis Mitchell

当時のプロデューサーはEnsoniq ASR-10を持ち込んでいた。自宅でいくつかアイディアを詰め込んでから持ち込んでいたんだろうな。スタジオで俺たちがやっていた作業のひとつが、ダンピング / プリンティングと呼ばれていたものだった。要するに、サンプラーなど、7~10個の機材をコンソールに繋いで、2インチテープに落とし込むのさ。それをバックトラックにしてヴォーカリストがレコーディングするんだ。

 

Ethan Ryman

レコーディングセッションが始まると、まず、エンジニアたちが “ダンピング” と呼んでいた作業に取りかかった。シーケンサーやサンプラーを同期させて、全てのトラックを2インチテープに落とし込む作業さ。8トラック程度をダンピングして、1~2バージョンを作っていたね。それから、それをベースにヴォーカルをレコーディングして、ラフミックスを数バージョン作った。だから、俺はトラックで使うビートやサンプルを最初の段階から聴いていたんだ。

 

粗いフレーバーだったね。ラフでアグレッシブだった。カンフー映画や『Underdog』のテーマソングなどのサンプルが使われていた。マジックのような音楽だったよ。あのサウンドを聴いた全員が、凄くクールなことが起きることを感じ取っていたと思う。

 

 

 

“制作の進め方は常に決まっていたわけじゃなかった。初期トラック群にはある種の混乱が確認できる” 

Nolan Moffitte

 

 

 

Nolan Moffitte

Bring Da Ruckus」で、俺はアシスタントとしてクレジットされているが、アシスタントゆえに、トラックのタイトルを知らされていないことが多かった。『Underdog』のテーマソングを使ったトラック(「Wu-Tang Clan Ain’t Nuthing ta F’ Wit」)の制作中も俺はスタジオにいた。RZAがあのサンプルを鳴らした時に「ワオ! ドープだぜ!」って思ったのを覚えているよ。

 

Ethan Ryman

RZAはEnsoniq ASR-10でサンプルとシーケンスを管理していた。このキーボードにはドラムなどのプリセットサウンドも内蔵されていた。RZAは常に問題なくこの機材を使いこなしていたね。随分前から使っているんだろうと思ったが、本人は手に入れたばかりだと言っていた。パッチベイのアウトをEnsoniq ASR-10のインに繋いで、コンソールに立ち上がっているサウンドをいつでもEnsoniq ASR-10に取り込めるようにしていた。

 

RZAがサンプラーとシーケンサーを操作していて、俺はコンソールとテープデッキとオートメーションを操作していた。ナイスコンビだったよ。お互いをリスペクトしているバイブスが常にあった。お互いから学んでいたのさ。RZAは賢かったね。Ensoniq ASR-10のパラアウトをAPIやコンプレッサーに通してからテープに落とし込む時もあったし、直接落とし込む時もあった。

 

俺はこの段階でコンソールのEQを操作するのがあまり好きじゃなかった。俺は “ジェダイ・エンジニア” じゃなかったし、のちのち俺にトラブルをもたらすようなことはやりたくなかった。サウンドの処理はミキシングの段階で行っていた。だから、ダンピングはシンプルだったよ。トラックにつき2~3回で全部のサウンドをテープに落とし込んでいたから、作業はスピーディに進んでいった。

 

まず、RZAのキーボードのサウンドをコンソールに立ち上げて、俺がサウンドの全体像を聴きつつ、RZAに各素材が彼の狙い通りに機能しているかどうかを確認してもらった。あとは、キーボードのステレオアウトもコンソールに立ち上げて、個別のシーケンスパターンとは別に、トラック全体を必要に応じて確認できるようにしておいた。それから、トラックをテープデッキに送り、コンソール上でレベル調整とラフミックスをして、RZAに全て問題ないかどうか確認してもらったあと、RECボタンを押した。

 

この作業を数回繰り返すと、効率良く作業を進められるようになった。RZAと俺は馬が合った。RZAのラフなサウンドと、俺のラフなスキルの相性が良かったんだと思う。いずれにせよ、RZAはハッピーだったよ。Firehouseでのミキシングは、RZAがオートメーション用機材のフェーダーとミュートをプログラムしたあと、俺がテープに落とし込んでいた。Firehouseのメインコンソールにはオートメーション機能がついていなかったから、他の機材でオートメーションを管理していたんだ。Mac Plusなどを使ってね。

 

 

Dennis Mitchell

トラックのダンピングに1日費やしたあと、RZAが聴き直して、素材を足したり、ヴァイナルを持ち込んだりしていた。当時のFirehouseにはターンテーブルが置かれていたんだ。だから、テープを聴いたあとで、ヴァイナルからトラックに合いそうなサンプルを見つけて足したり、余計なサウンドを引いたりしていた。そのあとで、ヴォーカリストを呼んで、ヴォーカルをレコーディングしていたんだ。

 

Ethan Ryman

RZAは大量のヴァイナルをスタジオに持ち込んでいた。サンプルの選び方と使い方に感心したのを覚えているよ。RZAのサンプルの鳴らし方とループの組み方には一般的な手法とは異なる自由さが感じられた。これがあのアルバム全体に感じられたマジックの一部だったんだ。「Bring Da Ruckus」にはブルースのサンプルが使われていた。素晴らしいサンプルだったがサウンドがクリアじゃなかったから、差し替えたのを覚えているよ。アルバムには差し替えたバージョンが収録されている。今はこっちの方が好きだね。

 

Yoram Vazan

私が知らなかった音楽に沢山出会うことができた。イスラエルで過ごしていた少年時代にJames BrownやSly & The Family Stoneは聴けていたが、The Metersのようなリアルなソウルを聴くチャンスはなかった。なので、RZAが持ち込んでいたそういう音楽に私はバイブスを感じていた。RZAはヴァイナルを詰め込んだクレートを持ち込んでは、その中のあらゆる音楽を使っていた。

 

Dennis Mitchell

通常、サンプリングする時はサンプルの最初と最後をカットする。テープに落とし込んだあと、気に入らない部分があればゲート処理する。ヴァイナルのノイズが多すぎる時はEQ処理で消すが、Wu-Tang Clanはそこが違った。あと、サンプリングにはエイリアシング(折り返し雑音)という現象がある。サンプリングってのは、高速レートでサウンドのスナップショットを記録していくことだが、その中で、特定の周波数(ナイキスト周波数:サンプリング周波数の半分)以上の倍音と周波数が折り返されてノイズになる。これはサンプリング周波数が低い安価なサンプラーでは特に起きやすい(サンプリング周波数が低ければ、ナイキスト周波数も下がるので、その分だけノイズが増える)。ナイキスト周波数より高い帯域のサウンドが全て折り返されて、エイリアシングが起きる。

 

Easy Mo Beeが手掛けたCraig Mack「Flava In Ya Ear」はこれが顕著だ。俺に言わせれば、このエイリアシングは1990年代初期のサウンドの特徴で、Wu-Tang Clanの作品でも数多く確認できる。サンプリング周波数が低いサンプラーが自動的に補完しようとして生み出すサウンドなんだが、これがWu-Tang Clanの作品の多くで俺がフィーリングを得られる部分なんだ。素晴らしいサウンドさ。本当に素晴らしいね。

 

Nolan Moffitte

埃っぽくてダーティなサウンドだった。他の作品ほどクリーンじゃないし、丁寧に処理されていない。RZAのサウンドはDr. Dreのサウンドとは完全に異なっていた。でも、それがWu-Tang Clanのサウンドの特徴なんだ。俺たちはこれを守ろうとしたんだ。

 

Ethan Ryman

新しくて尖ったサウンドだった。俺はその魅力を薄めてしまうようなアプローチで作業したくなかった。

 

 

 

第四房:功夫

 

Yoram Vazan

RZAはブルース・リーやカンフー映画への拘りを私に話してくれたが、私は少し不思議に思っていた。カンフー映画はイスラエルで過ごしていた高校時代に私たちがのめり込んでいたものだったのに、それから15年後にヒップホップのプロデューサーがそこから受けた影響を音楽に持ち込もうとしていたからさ!

 

Nolan Moffitte

カンフー映画のサンプルには驚いたよ。ドープだと思った。

 

Ethan Ryman

カンフー映画を使ったスキット(アルバムの会話部分)については、RZAたちが仲間同士で話し合っていた時にレコーディングしたもので、それをアルバムに入れようって話になったんじゃないかと思っていた。俺は『狼 男たちの挽歌・最終章』(英語名 "The Killer")がスタジオで何回も再生されていたのを覚えている。あの “Killer Tape” のスキット(「Wu-Tang: 7th Chamber」前半の会話)はスタジオでリアルに起きたことだったのさ。全員で罰ゲームをやり合っていたよ。基本的に、あの頃はスタジオで共同生活していたんだ。チェスやチンチロリン(Cee-Lo)を良くやっていたよ。

 

Yoram Vazan

カンフー映画の引用には別に驚かなかった。ヒップホップでは、誰もが好きなものをサウンドに持ち込んでいたからさ。好き勝手にサウンドを持ち込んで、そこからループを組んだり、ガンショット、エンジン音、ドアを閉める音、映画のサウンドエフェクトなどのサンプルを抜き出したりしていた。RZAが持ち込んだのが、クラシックなカンフー映画のサウンドトラックだったってだけの話さ。ただのアイディアに過ぎなかった。

 

 

 

 

 

第五房:九鬼

 

Ethan Ryman

スタジオに行くと、マネージャーが笑いながら「お前に伝言だ。知らない男から電話があって “今からOl’ Dirty Bastardが向かうってEthanに伝えておいてくれ” って頼まれたよ」と言われた。ODBが初めて歌入れしたMCだったはずだ。「Shame On A Nigga」だった。ヴォーカルレコーディングにはマイクを2本使った。1本はAKG 414で、もう1本はNeumannで、指向性を切り替えられるラージダイヤフラムのコンデンサーマイクだ。

 

Yoram Vazan

「Protect Ya Neck」のB面に入れたトラック名を忘れてしまった(「After The Laughter Comes Tears」)が、とにかくB面はうちの新人に任せた。Carlos Bessにね。ワイルドでハードコアな、素晴らしいトラックだった。

 

Blaise Dupuy

「Protect Ya Neck」のレコーディングセッションにはパワーがあった。コントロールルーム内の人数は多かったし、全員が自分の意見を持っていた。ちょっと騒々しかったね。Wu-Tangのメンバー間で、誰がどのトラックにフィーチャーされるべきなのか、どのタイミングでどんな展開にするべきなのかについて意見が割れていたのが俺には厄介だった。「Protect Ya Neck」のレコーディング中もそういう意見交換が積極的に行われていたが、すぐにまとまった。

 

Nolan Moffitte

制作の進め方は常に決まっていたわけじゃなかった。初期トラック群にはある種の混乱が確認できる。誰かが誰かのヴァースにいきなり参加しているのが分かると思う。

 

 

Blaise Dupuy

Wu-Tang Clanにはカリスマ性があった。ODBとMethod Manには特にね。彼らのパフォーマンスは、俺がそれまで立ち会った中で最強と呼べるものだったし、ショックを受けたよ。ODBはとにかく強烈だった。人間としても、パフォーマーとしても、あんなキャラクターの持ち主に出会ったことはなかった。

 

Nolan Moffitte

Methはいつもユニークだった。初めて会った瞬間からユニークだということが理解できた。あのかすれ声! あれがMethさ。ディープでハスキーなあの低い声がね。ヴォーカルブースでの彼のパフォーマンスはいつもエナジーに溢れていたよ。

 

Dennis Mitchell

俺はMethのフロウが好きなんだ。俺はリリックやメタファー、詩的な部分はあまり気にしていない。フロウやリズムを聴いているんだ。Methの声とトーン、トラックへの収まり方は最高だ。エンジニアの視点から言えば、俺はMethと気持ちの部分で繋がることができるんだ。Methの声質と帯域は本当に素晴らしいよ。Cardi Bと同じだ。俺には彼女が何を言っているのかさっぱりだが、彼女の声質とリズム感は最高だ。

 

 

 

“ヴォーカルのレコーディングは、全員が数テイクで終えていたと思う。彼らは準備できていた”

Blaise Dupuy

 

 

 

Ethan Ryman

ヴォーカルのレコーディングに関しては、トラックのダイナミクスを失わずに、処理をし過ぎずにテープに落とし込むことを意識した。ミキシングは、全員のパートをラウド&クリアにしつつ、分離感を良くすることを意識した。Wu-Tang Clanの音楽には粗くて生々しいバイブスが詰まっていたから、不必要なものを足さないようにした。ヴォーカルは特に注意したよ。

 

Blaise Dupuy

ヴォーカルのレコーディングは、全員が数テイクで終えていたと思う。彼らは準備できていた。

 

Ethan Ryman

MC全員が本1~2冊分のマテリアルを用意していて、常にお互いのマテリアルを試したり、書き直したりしていた。ちょっとしたフリースタイルバトルもやっていたよ。数人のMCがやってきて、彼らにバトルを挑んだことが少なくとも1回はあったね。顔を出したMCたちは有名じゃなかった。ただ、自分の実力を試したかっただけのように思えた。俺はいつも忙しかったから、全てを見ていたわけじゃないが、そういうシーンを何回か見たよ。Wu-Tang Clanの連中はそういうチャレンジを楽しんでいた。そこに対立や怒りはなかったよ。

 

レコーディング中は全員がスタジオで書きまくっていたね。他のヴォーカルのレコーディングと同じで、1~2テイク録って、それから必要に応じてオーバーダブをしていた。複数のトラックで複数のテイクを録ったあと、必要に応じてそれらをまとめてバウンスしていた。俺は、ヴォーカルのレコーディングは最初の1~2テイクがベストだというのを経験から知っていた。だから、レコーディングを始める前に全て問題ないか確認していたよ。

 

Nolan Moffitte

どのトラックでも、次にどのMCがブースに入るのかが楽しみだった。ひとりがブースに入ると、次に入ったMCがトラックをネクストレベルへ高めていたからさ。

 

Ethan Ryman

ヴォーカルのレコーディングは、彼らの中で機能すると判断されていた順番ややり方がいくつかあったが、その場で変えられることもあった。数回リハーサルしたあと、特定のヴァースやパフォーマンスを削除したり、入れ替えたりしていた。

 

Ethan Ryman

アルバム1枚よりももっと壮大なプランを用意しているように感じていたし、実際、彼らはレコードを何枚も制作する心づもりだった。だから、このアルバムで上手くいかなかったアイディアがあっても、次のアルバムやトラックで使えば良いと考えていたんだ。RZAは臨機応変に作業を進めていたが、常にビッグプランを持っていた。

 

 

Header image:© Bob Berg/Getty Images