二月 23

Key Tracks: Earth, Wind & Fire『That’s the Way of the World』

故Maurice Whiteが率いた伝説のグループの代表作について当時のキーボードプレイヤーが振り返った。

By Chris Williams

 

Earth, Wind & Fireはイリノイ州シカゴの若き才能Maurice Whiteが1969年に結成したバンドが母体となった。オリジナルメンバーはWade Flemons、Don Whitehead、Sherry Scott、Yackov Ben IsraelにWhiteを加えた5人で、Whiteがバンドの将来を考えてシカゴからロサンゼルスに拠点を移すと同時に、Whiteの実弟のVerdine White、Michael Beale、Chester Washington、Leslie Drayton、Alex Thomasの5人が招かれ10人編成となった。そして、占星術を好んでいたWhiteは、自分の占星図に含まれていた3つの要素である地・風・火をバンド名に組み込むことにし、バンド名をEarth, Wind & Fire(以下EWF)に改名した。

 

EWFは1971年に2枚のアルバムをリリースしたが、その後まもなくして一度解散してしまう。しかし、Maurice Whiteは諦めずに新たなメンバーを集め始め、弟のVerdineの他に、Larry Dunn、Ralph Johnson、Ronnie Laws、Roland Bautista、Philip Bailey、Jessica Cleavesの6名の若手ミュージシャンを迎え入れると、Warner Bros. Recordsを離れてColumbia Recordsへ移籍した。そして1972年に『Last Day and Time』、翌年には『Head to the Sky』をリリース。後者は2曲のスマッシュヒットを生みだし、初のプラチナディスクを獲得した。

 

この頃、Whiteはのちに2人で数々のヒットを生み出すことになるPhilip Baileyと作曲における強力なパートナーシップを築き、木管楽器、パーカッション、ストリングが見事にアレンジされた彼らの楽曲、Whiteのテノール、そしてBaileyのファルセットというEWFサウンドの礎を作り上げた。その後、EWFは1974年に再びメンバーチェンジを行い、Andrew Woolfolk、Al McKay、Johnny Graham、そしてMauriceとVerdineの実弟Fred Whiteを迎え入れ、その後数年間はこのメンバーで活動を共にすることになった。また、Maurice Whiteはこの頃にCharles Stepneyもプロデューサー兼アレンジャーとして迎え入れている。こうして新体制となったEWFは同年に前作で披露された素晴らしいアレンジとアンサンブルが維持された『Open Our Eyes』をリリースし、2枚連続でプラチナディスクを獲得した。

 

そしてこの成功が次のアルバムへの足掛かりとなり、1975年3月15日にColombia Recordsから『That’s the Way of the World』がリリースされた。このアルバムは300万枚以上を売り上げてトリプルプラチナを獲得する大ヒットとなり、全米1位を獲得した「Shining Star」、「That’s the Way of the World」、「Reasons」の3曲がヒットした。今回は2016年2月3日に74歳でこの世を去ったMaurice Whiteへの追悼の意味も込めて、キーボードプレイヤー、Larry Dunnにバンドの歴史や名盤『That’s the Way of the World』制作時の様子を振り返ってもらった。

 

 

 

"13歳からバンド活動をしていた私はヒゲを描いて年齢をごまかしていた"

 

 

 

− EWFのメンバーになるまでの経緯を教えてください。

 

コロラド州デンバーで生まれ育った私は13歳で既にバンド活動をしていた。15歳になると21歳以上しか入れないクラブでの演奏を母が認めてくれた。そのクラブは当時のNBAデンバー・ロケッツ(現デンバー・ナゲッツ)のスター選手、Wayne Hightowerが所有していた。15歳だった私は週7日そのクラブで演奏していたんだが、The Whispersのような他のバンドからは「あのガキどもは誰なんだ?」と言われていた。当然、クラブ側は私たちがどこの誰だかは分かっていた。バンドは私が15歳、Philip Baileyをはじめとする他のメンバーが17歳だったので、メンバー全員がヒゲを描いて見た目をごまかしていたが、オーナーは一切気にしていなかった。私たちはJames Brown、Dionne Warwick、Santana、Jimmy Smith、The Moments、The Stylistics、The Temptations、The Supremesなどをカバーしていた。何でも演奏していたよ。

 

メンバーが成長していくと、Friends & Loversという別のバンドを結成した。私は当時16歳だった。中心メンバーはPhilip Bailey、Andrew Woolfolk、Rick Delaney、Steve Sykesと彼の友人Greg、そして私だった。非常にタイトなバンドで、シカゴからEWFの前身を招いた時に前座を務めた。

 

それから1年も経たないうちに、そのEWFの前身バンドは、MauriceとVerdine以外のメンバーが抜けてしまった。そして私のバンドも解散し、Philip Baileyもロサンゼルスへ移ってしまっていた。するとある日、Philipがデンバーへ戻ってきた。当時の私は小さなバーバンド、Sammy Mayfieldでプレイしていて、その日はデンバー唯一の黒人高校Manual High SchoolでWarというバンドの前座を務めていた。そのギグで私はHammond B3で10分ほどのソロを担当し、様々な楽曲を演奏したんだ。

 

そして、私の演奏を聴いたPhilipが公衆電話からMauriceに電話をかけて「メンバーを見つけたよ。まだ若いが俺は一緒に演奏した経験がある。テクニックは抜群だし性格も問題ない。経験が不足しているだけさ」と伝えたんだ。私はPhilipに「経験不足だなんて言わないでくれ」と頼んだよ。私は11歳からクラブに出入りしていたんだからね。

 

その後、ロサンゼルスへ向かうと、Verdineが空港に迎えに来てくれていた。彼らの家に向かう途中、センチュリー・ブルーバードで左折車線を一本見誤って対向車線に入ってしまい、死ぬ思いをしたのを憶えているよ。VerdineとMauriceはハリウッド・ヒルズに住んでいた。Verdineがピアノを用意すると、私は彼ら2人だけが見守るリビングルームで数曲弾いた。自分の実力が分かってもらえるように、Herbie Hancockの「Maiden Voyage」のフレーズも織り交ぜた。あとは皆さんが知っている通りだ。

 

 

 

 

− 『Head to the Sky』、『Open Our Eyes』、『Another Time』で成功を収めた後、『That’s the Way of the World』用の新曲を用意するまでにはどのくらい時間がかかったのでしょう?

 

正確に言えば、私が初めて参加したEWFのアルバムは『Last Days and Time』で、あの頃はRonnie Laws、Jessica Cleaves、Roland Bautistaがまだバンドに残っていた。そのあとで『Head to the Sky』がリリースされたんだ。『That’s the Way of the World』のレコーディングはコロラド州のCaribou Ranchで行われた。レコーディングは3週間で終わった。メインとなる部分をそこでレコーディングしたあと、今度はロサンゼルスへ戻って、オーバーダブやホーン、ストリングを足したんだ。Charles Stepneyがその作業を担当していた。私は「Shining Star」、「Happy Feelin’」、「All About Love」、「Africano」、「See the Light」を共作した。このアルバムをレコーディングした時、私は18歳だった。

 

 

− 今はなき伝説のスタジオ、Caribou Ranchの当時の様子を教えてください。

 

あのスタジオを使うのは2度目だった。まさにウィンター・ワンダーランドで、辺り一面が雪だった。スタジオに到着するとバンドのために山小屋が用意されていて、各部屋には真ちゅう製のベッドが置かれ、高価な熊の毛皮のラグマットが床に敷かれていて、カラーテレビも備わっていた。1974年という時代を考えると凄いことだ。当時私の母はカラーテレビを持っていなかったと思う(笑)。私があとで彼女にプレゼントしたのを憶えているよ。クリエイティブになれるように配慮されている空間だった。食堂では背が高く痩せた白人男性が働いていた。ナイスガイでね。私たちが彼をどんなニックネームで呼ぼうと本人はお構いなしだったから、私たちは彼を「ママ」と呼んでいた。昼夜問わず好きな時間に食堂に出向いて、食べたいものを伝えれば、彼がその場で作ってくれた。彼の料理は美味しかったよ。そこで全員でディナーを食べたあとにスタジオへ戻ってレコーディングを続けたものさ。あれは魔法のような時間だったね。

 

 

− Caribou Ranchでの平均的な1日について教えてください。

 

朝食を一緒に食べて、11時〜12時頃にスタジオへ入った。そのままレコーディングを続けて夕食時に一度休憩を取り、もう一度スタジオへ戻ってレコーディングを続け、夜中の2時〜3時頃に終えて部屋で寝るというリズムだった。レコーディング終わるまでの3週間ほどその生活を続けた。必要なものは何でも揃っていたので、外出する必要は一切なかった。

 

 

 

 

− 楽曲や歌詞のアイディアを最初に持ち込んだのは誰でしたか?

 

Mauriceがメインプロデューサーだったが、Charles Stepneyも大きな役目を担っていた。2人のコンビは素晴らしかった。1曲たりとも同じ曲がなかったよ。「See the Light」は私が楽曲を仕上げて、歌詞の半分も私が手がけた。歌詞の残りはPhilipが仕上げた。Mauriceがプロデュースして、Stepneyがアレンジを担当した。Charles Stepneyがホーンやストリングセクションを加えるたあとの楽曲は、まさに「ワオ!」と言うしかない素晴らしいアレンジだった。

 

「Shining Star」はある朝、みんなで集まっていた時に生まれた楽曲だ。Mauriceがドラムを叩いていて、そこに私が鍵盤を加えると、みんなも加わり始めたんだ。「All About Love」はMauriceと私で書いた。Mauriceが最初に演奏して、私がブリッジに合うコードを弾くと、Mauriceがメロディを仕上げて、Stepneyがアレンジを担当した。愛、誠実さ、優しさ、相手をいたわる気持ちがどの曲にも詰め込まれている。どの曲も素晴らしく、単体で成立するクオリティだ。

 

 

− このアルバムをリリースする前のバンドの状況、そしてリリース後のバンドの人気について教えてください。

 

世間はEWFがリムジンを乗り回してカクテルパーティに参加していると思っていたね。私が参加した頃は、ロサンゼルスからサウスカロライナへ飛行機で向かい、ニューヨークなどの大都市のギグに備えたウォームアップギグを南部で数カ所こなすのが常だった。サウスカロライナのいくつかの大学でギグをこなし、1975年にはサンタナの前座で海外ツアーも経験した。そのツアーから戻ってくると、以前よりも人気が出ていたので、全米の大学でギグをこなした。そのあとはアリーナツアーに出るようになった。

 

キャリア初期はケータリングも用意されていない状態だった。ロサンゼルスからノースカロライナに到着すると、ステーションワゴンを3台借りて移動した。ギグを終えれば次の小さな町へ移動してギグをこなすという毎日で、ワシントンDCやバルチモアの次はフィラデルフィアやニューヨークが待っていた。ノースカロライナの大学でギグを終えると夜の10時を回っていたので、店はすべて閉まっていた。ホテルの自販機でジュースやポテトチップス、チョコレートバーなどが買えれば御の字だった。

 

フィラデルフィアのテンプル大学で初めてギグをした時は、マイクが1本しかなかった。Maurice、Jessica(Cleaves)、Philipがマイクの近くに集まらなければならなかったのを憶えている。その次に訪れた時はもう少し人気が出ていて、Spectrum(訳注:かつてフィラデルフィアに存在した屋内競技場)でプレイした。私たちはGladys Knight & the PipsとThe Four Topsの前座で、Gladysがヘッドライナーだった。あれは素晴らしい体験だった。Gladysと話すチャンスに恵まれて、彼女は状況は以前より良くなっていると教えてくれた。彼女は「昔は控え室なんてなかったのよ。外で待たされたの」と言っていたよ。そして客電が落ち、私たちがステージに上がると2万人の観客が待っていた。でも、私たちは呑まれなかった。心の準備はできていた。

 

 

 

"EWFはメイド・イン・ヘヴンの音楽集団だった"

 

 

 

− このアルバムにおけるCharles Stepneyとの作業はどんな体験でしたか?

 

制作についてはMauriceから多くのことを学んだが、キーボードプレイヤー兼アレンジャーだったCharlesとの仕事も本当に良い経験になった。彼はいつも私の味方だった。私たちが2人で作業をする時は、CharlesがMauriceを呼び寄せて、私について「こいつはあと少しでラジオ用のクオリティの楽曲を仕上げられるようになるぞ」と言っていた。

 

私はしょっちゅうChalesにまとわりついていた。「ねぇ、あれはどうやるの?」と訊ねると、彼は「いいか。俺くらい長くやっていれば、いずれできるようになるんだ」と返してくれた。そして「楽譜を上手に読めないのがちょっとコンプレックスなんだ」と相談すれば、「ひとつ教えてやる。そこに問題を感じているなら、半年間学校へ通って学べばいい。言っておくが、お前みたいに上手く弾けるキーボードプレイヤーはそんなにいないぞ」と言ってくれた。私は「本当に? じゃあ学校へ通って勉強するよ」と返したよ。本当に素晴らしい人物だった。

 

私のサウンドの特徴のひとつになったMinimoogを紹介してくれたのもCharlesだった。Charlesはハイレベルな音楽にMinimoogを初めて導入したミュージシャンのひとりだった。Minimoogを初めて手にした瞬間、人生が変わった。毎晩自室に持ち帰っていた。このシンセにはリバーブなどのエフェクターは備わっておらず、ケースを加えると、自分より重いんじゃないかと感じるほど重かった。当時の私の体重は68kgほどだったが、Minimoogはケースに入れると36kgほどもあった。以前はHammond B3を持ち運んでいたし、力に自信はあったから問題ではなかったがね。Charlesは私にとっての師匠だった。アレンジは彼から学んだ。「何を加えるかよりも何を加えないかを理解する方が重要だ」という彼の言葉はずっと心に刻まれている。真実の言葉だ。音楽には空間を与えることが重要なんだ。

 

 

− このアルバムのもうひとつの素晴らしい特徴が歌詞です。このアルバムがリリースされたのは、Marvin Gayeが『What’s Going On』をリリースしてから4年後、Stevie Wonderの『Innervisions』がリリースされてから2年後のことでしたが、このアルバムは当時の米国の黒人の感情を捉えているように感じられます。歌詞は意図的にその方向性で書かれたのでしょうか? それともレコーディング中に有機的に生まれていったのでしょうか?

 

両方だね。Marvin Gayeのアルバムは私たち全員の意識を変えた。当時、私たちはまだ平等の権利を求めて戦っていた。だから、愛、平和、喜びについての歌詞を書いたんだ。バンドの意識は統一されていて、人道主義について話し合う間柄だった。だから、作曲と作詞は非常に有機的に行われたよ。EWFに参加する前、私が15、16歳だった頃は、クラブで毎晩「What’s Going On」やJames Brownの楽曲を演奏していたよ。

 

私たちはメッセージが込められた、意味のある音楽を作ろうとしていた。それがEWFだった。暗黒の世界に光を当てようとしていたんだ。EWFの音楽の素晴らしさは、そこにメッセージが込められていて、本気でそのメッセージを伝えようとしていたという点にある。私たちの音楽は踊れるし、泣けるし、リラックスもできるし、どんな状況にも合うが、その美しい音楽の中に本質的なメッセージが込められていて、それがこのバンドの特徴だった。

 

 

− 当時のEWFは固定メンバーで数年間一緒に活動していましたが、このアルバムの制作時のバンドの結束力、メンバー同士の関係について教えてください。

 

あれほどのレベルの体験は偉大なる力によって導かれて生み出されるものだと私は信じている。本当に素晴らしいバンドだった。Verdineはリズム感に優れたベースプレイヤーで、Freddie WhiteとMaurice Whiteはパワフルでワイルドなドラマーだった。Mauriceは特にワイルドで、Freddieはグルーヴ力に長けていた。Al McKayはファンキーなギタリストで、Johnny Grahamはブルージーな頼れるギタリストだった。Philipは美しいファルセットを誇っていた。Mauriceは教会育ちの素晴らしいジャズドラマーで、私がそこにポップ感のあるコードを加えたジャズを持ち込んだんだ。Andrew WoolfolkとRalph Johnsonも実に素晴らしかったよ。メイド・イン・ヘヴンの音楽集団だったと思う。

 

 

私は卒業まで残り5ヶ月の段階で学校をドロップアウトして、Philipと演奏するためにカンザスシティへ向かった。母は納得してくれた。私には音楽しかないってことを知っていたからね。バンドメンバーは誰ひとり大学へ通わなかったが、一緒にステーションワゴン3台で全米を旅して演奏した毎日が大学生活だったんだ。誰かの部屋にみんなで集まって、ベッドや椅子や床に座って、Weather ReportやMiles Davisの『Bitches Brew』などを演奏するときもあった。自分の血となり肉となる経験だった。Stevie Wonderには、「Shining Star」を聴いた瞬間に家へ帰って「I Wish」を書いたんだと言ってもらえたよ。このアルバムに成功をもたらしてくれたもうひとりの人物がエンジニアのGeorge Massenburgだった。バンドに華を添えてくれる存在で、アルバムのエンジニアとミックスを担当し、素晴らしくクリーンなサウンドに仕上げてくれた。天才肌だったね。

 

 

− このアルバムで用いられたレコーディングテクニックについて教えてください。

 

まずはベーシックトラックをレコーディングした。優れたサウンドにするためには何でもやったよ。「Shining Star」は3〜4時間で10〜15テイクをレコーディングした。当時はデジタルなんてなかった。すべてテープにレコーディングしたよ。クリックさえ存在しなかった。ベーシックトラックのレコーディングが終わったあとは、オーバーダブだ。リズムセクションのあとに、Al McKayのギターパートをレコーディングした。ブリッジで弾くコードにコーラスかハーモナイザーをかけて、サウンドに広がりを持たせた。

 

次はキーボードのオーバーダブで、Minimoogでシンセパートを足した。ファットなサウンドに仕上げるために、MinimoogでVerdineのベースラインをそっくりなぞる時もあったよ。そのあとで、MauriceとPhilipが数週間かけてヴォーカルをレコーディングすると、数ヶ月かけてMauriceがMassenburgとミックスを行った。楽曲のイントロからブリッジまでが上手く仕上がると、「ブリッジでテープをカットしてくれ」と頼み、次にブリッジからインプロの部分までをもう一度カットして、そのふたつをつなぎ合わせてマスターにしていた。

 

レコーディングテクニックは重要だった。Georgeはベースドラムに最適なマイクを知っていたし、周波数やサウンドについてはまさに天才的で、各トラックの周波数がぶつからないようにするテクニックを持っていた。Georgeがすべて整えたあとで、Mauriceがスタジオに入り、大音量で鳴らしながら「こことここのヴォーカルを切ってくれ。ここはもう少しスネアを強くするか、あそこにベースを入れてくれ。ハイハットはここだ」とGeorgeに色々と指示を出した。彼らはアルバムがリスナーの度肝を抜けるように作業していたんだ(笑)。

 

 

 

Translation & Edit:Tokuto Denda

 

23. Feb. 2016