十月 27

ケベックの電子音楽黎明期:その略史

RBMA MONTREAL特集2:ケベックの電子音楽黎明期を振り返る

By Roger Tellier Craig

 

今日、ケベックは優れた文化的クリエイティビティを育む地域として世界的に高い評価を得ているが、ほんの70年前はそのような豊かな文化性が萌芽する余裕さえなかった。第二次世界大戦終戦直後の1940年代から1950年代のケベックは「暗黒の時代」(Great Darkness)だった。時の首相Maurice Duplessis率いるユニオン・ナショナル党(ケベック保守党)による長期政権がカトリック教会との密接な繋がりをもとに、きわめて保守的な政策を実施。信教および農村的コミュニティの重要性のみが推奨された政策下で、創造的な文化活動が重んじられることは一切なく、当時世界のあらゆる場所で急速な発展を見せつつあった文化的/社会的変化とは対照的に、ケベックの社会はそれらから完全に隔離されてしまった。

 

この「暗黒の時代」において、カトリック教会は強大な権力の下にケベック州内である種の情報統制を行い、出版物にも厳しい監視の目を光らせた。この結果、ケベックはパリやニューヨークなど当時の文化的ハブで起こっていた知的・芸術的変化について知ることはできなかった。

 

このような社会背景にも関わらず、「暗黒の時代」に覆われた社会の水面下には創造的な自由を渇望する孤立したアーティストたちの存在があった。やがて1960年のケベック州選挙で自由党がユニオン・ナショナル党を破り、「静かなる革命」と呼ばれる一連の改革が行われることになるのだが、以降、堰を切ったかのようにエクスペリメンタルな電子音楽シーンの先頭へ躍り出たケベックのストーリーは、そのような抑圧されていたアーティストたちによって生み出されたものだ。以下に、そのようなアーティストたちによる作品とその略史を記そう。

 

 

 

“メインストリームカルチャーは、常にオルタナティブなカルチャーを産み落とす — たとえ、その存在が長きに渡って認識されないままであったとしても”

 

 

 

新たなイデオロギーの種を蒔く:1948年 – 1962年

 

メインストリームカルチャーは、常にオルタナティブなカルチャーを産み落とす — たとえ、その存在が長きに渡って認識されないままであったとしても。1940年のケベックにはカトリック的な超保守主義が深く浸透していたが、1948年にはパリやニューヨークで開催した展覧会を通して知られるようになっていた芸術家グループLes Automatistesが「Refus Global」なるマニフェストを発表した。

 

「Refus Global」は当時のケベック文化に対する痛烈な批判であり、カトリック教会と州政府の政教分離、そして表現の自由と芸術的独立を強く訴えるものだった。画家のPaul-Émile Borduasが率いていたLes Automatistesは、シュールレアリズムに影響された表現形式を問わない芸術家グループであり、そのメンバーにはJean-Paul Riopelle、Marcel Barbeau、Françoise Sullivan、Claude Gauvreauなど、多彩な顔ぶれの芸術家たちが名を連ねていた。そして、予想通りと言うべきか、このマニフェストは当時のケベック社会に大きな波紋を投げかけ、結果としてリーダーのBorduasは教職を追放されることとなった。この騒動後まもなく、Les Automatistesは解散した。

 

その一方で、このマニフェストは当時のケベックにおける重要なミュージシャンたち数人から密かな共感を得ていた。若き作曲家Pierre Mercureも、このマニフェストに記されていたアイディアに大きな衝撃を受けたひとりだった。そして、Mercureはこのマニフェストに署名していた2人のアーティスト — 振付家のFrançoise Riopelleと画家のPierre Gauvreau — とも交友関係を築くと、1949年5月にThéâtre des Compagnonsで発表された3作品で、Riopelleと詩人Claude Gauvreauと共同制作を行うことになった。

 

この共同作業は、以降のMercureの作曲活動に大きな影響を与えた。Mercureはモントリオールとパリの間を頻繁に行き来するようになり、1957年にはパリのGRM(編注:Groupe de Recherches Musicales=フランス音楽研究グループ)でPierre Schaefferに師事し、電子音響を学んだ。その後、MercureはGRMで学んだ電子音響的手法と生演奏を融合した作曲を数多く手がけていくことになり、National Film Board(カナダ国立映画製作庁)でJacques Giraldeauが監督した映画『The Shape of Things』のためにMercureが作曲した同名の楽曲には、その新基軸が明確に示されている。この映画は1964年にモントリオールで開催された彫刻シンポジウムの記録映画だったが、Mercureが手がけたサウンドトラックは、電子音もしくは彫刻制作中に発せられるノイズを基に作られていた。

 

 

 

“「静かなる革命」がケベックに及ぼした影響の大きさは計り知れない”

 

 

 

「『Refus Global』は、多くの人々を遂行的あるいは推論的な実践へ向かわせることになったひとつの変数と呼ぶべきものでした」と語るのは、ケベックのアヴァンギャルド専門のリイシューレーベルTenzierのオーナーを務めるEric Fillionだ。彼はケベックのフリージャズの先駆者Jean Préfontaine(1967年にQuatuor du Jazz Libre du Québecを結成)を例に挙げ、『Refus Global』がもたらした社会的・芸術的ダイナミズムについて説明する。「私自身の解釈では、PréfontaineがLes Automatistesから得たことは、アーティストとしての自発性の重要さと、アートが社会に自由をもたらし、アート自体がポリティカルな声明になりえるという事実への気付きです。Préfontaineは、Quatuor du Jazz Libre du Québecを結成してミュージシャンを名乗るだけでは満足していませんでした。彼が当時演奏していたのはスタンダードジャズだったからです。ですが、『Refus Global』が、Archie Sheppなどを聴いてフリージャズを知ったという彼にその方向へ進む決断をさせたのです」

 

1949年、のちのケベックの抽象音楽の進化に深い影響を与えることになるひとりのヨーロッパ出身の作曲家がモントリオールに辿り着いた。ハンガリー・ブダペスト出身のIstvan Anhaltは、マギル大学で教鞭を執るために住んでいたパリを離れ、この地にやってきたのだ。当時のアヴァンギャルド(前衛)シーンに興味を抱いていた彼の目的は、自分の講義を履修する生徒たちに対して新しい音楽の姿を紹介することだった。当時Anhaltはオタワやパリ、ケルン、コロンビア-プリンストン、そしてBell Labsなど、世界各地の電子音楽スタジオを訪問し、自身でも電子音楽における実験を開始していた。1959年の秋、Anhaltはカナダ国内では史上初となるテープミュージック・コンサートを企画し、Anhalt自身の作品をはじめ、Hugh Le Caine、John BowsherそしてKarlheinz Stockhausenたちの作品を演奏した。

 

目指すものはお互いに異なっていたが、定期的に顔を合わせていたMercureとAnhaltの2人は、コミュニティのようなものを形成した。1961年の夏、Mercureは『La Semaine Internationale de Musique Actuelle de Montréal(モントリオール国際具体音楽ウィーク)』なるコンサートの企画に参加した。このコンサートでは、全5日間の日程で30以上もの新作が発表され、そこにはJohn CageやIstvan Anhalt、György Ligeti、Richard Maxfield、Edgar Varèseといった作曲家の作品も含まれていた。このような前衛的な音楽にほとんど接したことのない観客やプレスからの反応は、歓迎的とは言えなかった。たとえば、ピアニストがピアノの弦を擦り、さらに弦の上に小石ほどの小さな物体をランダムにそっとばら撒くという内容のMaxfieldによる「Piano Concert for David Tudor」は、そのような非歓迎的な感情を激しく刺激したため、当時のLa Presse誌のレビューが記すところの「化石同然の古い感性しか持たないヒステリックな観衆のための10分間のインターミッション(休憩時間)」を入れなければならなかった。

 

しかし、このコンサートはケベックの文化の潮流に変化を与えるきっかけとなった。このコンサートは当時のケベックでアヴァンギャルドを全面に押し出した最初期のイベントのひとつで、ヨーロッパや米国の作曲家による数々の作品を一堂に提示した初のイベントでもあった。この文化的シフトが1960年代の「静かなる革命」と共に広がっていくと、ケベックはユニオン・ナショナル党の支配から遂に解放され、政治と文化の両方で急速な変化を遂げていった。

 

アート全体から見れば、第一人者はLes Automatistesだった。彼らのアイディアが十分に理解されるまでには10年以上の時間がかかることになったが、それで何かをスタートさせていたのは彼らだった。ケベックのコンピューター・ミュージックの第一人者、作曲家Jean Pichéは「Les Automatistesは『静かなる革命』の原動力の一部だった。近年のケベックの知識階級は彼らから発展していった」と記している。

 

 

「静かなる革命」とその影響:1963年 – 1979年

 

「静かなる革命」がケベックに及ぼした影響の大きさは計り知れない。その影響は、アートだけに留まらなかった。Eric Fillionは「『静かなる革命』の最中、そしてその直後では、数多くのアーティストが州政府と密接に協力し、彼らの作品を展示・発表するための空間や資金のための基盤作りに励んでいました」と説明する。

 

ケベック州初の電子音楽スタジオは、1964年にマギル大学内に設立された。同大学で教壇に立っていたIstvan Anhaltによって設立されたマギル大学電子音楽スタジオには、カナダ電子音楽界のパイオニアHugh Le Caineが考案した電子楽器も数多く導入された。また、同時期にベルギーや米国など各地の電子音楽スタジオを歴訪した作曲家Nil Parentは、1969年にケベックへ戻るとラヴァル大学内にケベック人主導としては初となる電子音楽スタジオSMEUL(Studio de Musique Electronique de l'Université Laval/ラヴァル大学電子音楽スタジオ)を設立した。

 

また、1960年代はミュージック・コンクレートが提示したテープ・マニピュレーションやエレクトロニック・シンセシスなどの可能性を新たに再解釈する若い女性作曲家たちが数多く登場した時代でもあった。その先鞭を付けたのが、モントリオール大学音楽科の女子学生Marcelle Deschênesだった。彼女は音楽を学ぶために1962年にモントリオール大学へ入学すると、1968年の夏にはパリへ留学し、GRMでPierre Schaeffer、François Bayle、Guy Reibelらの下で学んだ。

 

Marcelle Deschênes

 

Deschênesに次ぐ女性電子音楽作家の先駆者として挙げられるのが、Micheline Coulombe Saint Marcouxだ。正式なピアノ教育を受けていた彼女は音楽を学ぶために1958年にモントリオールへ移るが、1960年代初頭に作曲家へ転身した。そして1967年に現代音楽のパイオニアとして知られるIannis Xenakisと偶然出会った彼女はパリへ向かいGRMの門を叩くことになった。Saint MarcouxとDeschênesはその後数年間に渡り、GRMで共に学びながら、新たな音楽の形を模索していった。

 

1972年にパリから帰国したDeschênesは、Nil Parentがラヴァル大学内に設立したSMEULで教えることになった。そして1974年には、Parentと組み、2人の生徒Gisèle Ricard、Jean Pichéを加えてGIMELというグループを結成した。Parent、Deschênes、Ricard、Pichéの4人は、Arp 2600やEMS Synthi AKSといったシンセサイザーや、その場でモジュレーターやエフェクトで変調させたアコースティック楽器を用いながらParentの作品をカルテット編成で披露するライブを行った。

 

 

Micheline Coulombe Saint Marcoux

 

「ラヴァル大学には設備が整ったスタジオがありましたし、Parent氏には明確なヴィジョンがありました」とPichéは当時を回想する。「Parent氏はリアルタイムの演奏にこだわりを持っていましたが、最先端だったArpやEMSなどのシンセサイザーがそれを可能にしました。まだ誰もこのような演奏はしていませんでしたし、シンセサイザーを目にした人たちから『この機械はいったい何をするためのものなんだ?』とよく尋ねられたものです。私はこの新しい楽器の可能性に夢中になり、スタジオにこもりきりの毎日を過ごしました。2年目を迎える頃には、私も教える立場になっていました」

 

1970年代初頭のSMEULの講義に出席していた学生のひとりが、Bernard Bonnierだった。1968年頃から既に自作スタジオでミュージック・コンクレート的な実験を行っていた経験を持つBonnierは、ラヴァル大学を卒業するとパリへ渡り、1972年から1976年にかけて、ミュージック・コンクレートの大家Pierre Henryのアシスタントを務めた。その後、ケベックへ戻ったBonnierはGisèle Ricardと共にスタジオAmaryllisを設立し、1984年にはアルバム『Casse-Tête』を自主制作でリリースした。この作品はカルトクラシックとして高く評価されている。このアルバムは、サンプル・ループと生ドラム、エレクトロニクス・シーケンスなどを幻惑的にミックスした怪作で、垣間見えるポップ的なエレメントと実験的手法のせめぎ合いは、遥か後の時代のアヴァン・ロックやテクノにおける実験主義を先取りしていた。

 

 

ケベックの初期電子音楽作品群のレコード化:1980年代以降

 

1980年代になると、レコードの自主リリースが飛躍的に簡単になったため、一部の作曲家は積極的に自身の作品をレコードで発表しはじめるようになった。1982年頃には、Jean Pichéも、自身の初ソロ作で、ほぼすべてをデジタルシンセサイザーだけで制作したアルバムの先駆けとなった『Heliograms』をリリースした。Pichéはオンタリオに拠点を構えるクラシック専門レーベルMelbourneに協力の下、『Heliograms』をリリースしたが、このアルバムは同レーベルの最後の1枚になった。

 

1984年、Bonnierは『Casse-Tête』を自主レーベル(レーベル名はスタジオ名と同じくAmaryllis)からリリースすることを遂に決意し、長年しまい込んでいた彼の作品は日の目を見ることになったが、そのような運に恵まれなかったアーティストもいた。たとえば、1975年から1983年にかけてモントリオールで活動していたアーティストBernard Gagnonは2012年まで自分の作品が公の場に出るのを待たなければならなかった。このアルバムは、Eric FillionのリイシューレーベルTenzierからリリースされた(Fillionは、Gagnonの博士号研究員時代の論文の研究中に偶然この作品の存在を知った)。

 

 

2012年にTenzierからリリースされたGagnonのアンソロジー作品『Musique Électronique (1975-1983)』には、Gagnonが1975年から1983年にかけてマギル大学の電子音楽スタジオで行った実験の軌跡が7曲分収録されている。元々はサイケデリック・ロックやフリージャズを愛好するリスナー兼ミュージシャンだったGagnonは、Olivier MessiaenやPierre Boulez、Stockhausenなどの作品に出会ったことがきっかけとなり、1970年代初めにはミュージック・コンクレート影響下の作曲活動をスタートさせた。大学の聴講生でもあったGagnonは、その立場を活用してしばしばスタジオに籠もっては、Hugh Le Caineのエキセントリックな発明楽器や16モジュールのMoogシンセサイザー、Arp 2600、Synclavierなどのスタジオ機材の可能性を深く探っていった。

 

電子音楽に心血を注いでいたGagnonは、1982年に「Gwendoline Descendue!」で国営ラジオ局CBCが主催した若手作曲家コンペで大賞を受賞した。尚、この賞は、モントリオールで長期に渡り開催されているElektra Festivalの創立者として知られる、当時はまだ若手の作曲家Alain Thibaultとの同時受賞となった。

 

Bernard Gagnon

 

PichéやGagnonのアルバム作品を別にすると、1980年代当時にリリースされた電子音楽作品の多くは国営企業による非営利プロジェクトで、その作品群は、触れられることがなかったケベックの電子音楽シーンを伝える最初期のヴァイナルリリースとして機能することになった。「当時の電子音楽作品のヴァイナルリリースの大半は、カナダ国営ラジオ局のRadio-Canada Internationale傘下のCBC Internationalが主導していました」とFillionは説明する。National Film Board(カナダ国立映画製作庁)と同じく、CBC Internationalも、国内外のオーディエンスにカナダのイメージを発信することを狙っていた。

 

Fillionは、ケベックから発信される新たなサウンドをフィーチャーしたCBC Internationalによるシリーズ展開は妥協に悩まされていたとしている。Fillionは「ただひとつの音楽的試みだけに焦点を絞ることは、彼らの理念にそぐわなかったのです。当時のケベック州政府は『カナダの文化は多様性を反映したものであるべき』という考えを推し進めていましたからね。ただし、このような前提を強く主張していたのは一部の英国系カナダ人のエリート知識階級で、彼らは『これは受け入れられる/受け入れられない』という独自の偏向性を持っていました」と説明する。このような状況下でリリースされたケベック産のアヴァンギャルド作品群は、確かにカナダの文化的多様性を外部に向けて提示する一助になるのかもしれなかったが、他のケベック文化と同じく、英国系カナダ人にとっては異質で理解できないものだった。そこで、選択肢は他にもあるということで、CBC Internationalはよりトラディショナルなクラシック/ジャズ/フォーク作品群へとそのフォーカスを移行していった。

 

カナダ国立音楽著作権管理協会SOCANもまた、CAPAC(The Composers, Authors and Publishers Association of Canada)の7インチシリーズ『Musical Portraits』を通じて、ケベックの初期電子音楽を偶然な形でサポートすることになった団体だった。『Musical Portraits』はラジオのプロモーション用として制作されたものだったが、このシリーズにはそれまでレコード化されることがなかったMarcelle Deschênes、Bernard Bonnier、Gisèle Ricard、Yves Daoust、Philippe Ménard、Nil Parent、Alain Thibaultなど、ケベックの電子音楽作家の楽曲も収録されていた。しかし、このシリーズもまたCBCやNFBのそれと同じ運命を辿ることになった。

 

しかし、Fillionをはじめとする現代のケベックのアヴァンギャルドシーンで活動する世代は、これらの作品が大学主導か国営企業主導かどうかは問わず、とにかくこの世に残っているという事実を喜んでいる。そして、このような作品群はFillionのTenzierやEric MattsonのOralなどのインディペンデント・レーベルから再発されており、時代がようやくケベックの初期アヴァンギャルドシーンに追いついた今、世界中から熱い視線が注がれている。

 

ケベックではこのような初期電子音楽実験が数多く行われていた。「こうしたマスターテープは最後には捨てられる運命にありました」とFillionは語る。「もしそうなれば、この音楽シーンはおろか、ケベックの社会全体にとって甚大な損失になっていたはずです。なぜなら、このような音楽作品群は、その時代を別の角度から物語ってくれる存在だからです」