八月 15

ジャマイカンビーフ:Duke Reid vs. Coxsone Dodd

激しいビーフを繰り広げたジャマイカ人アーティストはBeenie ManとBounty Killerだけではない。ジャマイカの音楽業界ではサウンドシステム同士のテリトリー争いと共に、早くからキングストンのダウンタウンのストリートで激しいバトルが繰り広げられてきた。1950年代にはArthur “Duke” Reid“Sir” Coxsone Doddがお互いの人気に傷をつけようと、腕の立つストリートギャングたちを雇ったため、観客動員数の増加やサウンドクラッシュでの勝利が高くつく時もあった。今回はDavid KatzがDukeとSirの奇妙なライバル関係(及び友情)を探り、実際に起きた(または噂された)暴力がいかにジャマイカの音楽の形成に関与していたのかを探っていく。

By David Katz 

 

 

Steel Pulseが言う通り、ジャマイカでは「2匹の雄牛は1つの囲いに入れられない」。しかし、1950年代後半、2人のビッグアーティストがサウンドシステムシーンの絶対的な支配者として君臨した。その2人とはDuke ReidとSir Coxsoneで、彼らのライバル関係と友情はスカ、ロックステディ、レゲエの数々の名作に大きな影響を及ぼした。

 

Arthur ReidはそのTrojan Sound Systemで永遠に語り継がれる存在だ。しかし、Reidは音楽業界に進むまではキングストンのダウンタウンで警察官として働き、巡査部長にまで昇進していた。そしてその10年間に及んだ警察官生活は地元との密接なコネクションを築き上げ、同時に銃火器に対する愛情を育むことになった(音楽室に誇らしげに銃のコレクションを飾っていた)。自身をガンマンと考えていてReidは胸にガンベルト、両手にピストルという姿でダンスパーティーに出掛けていた。尚、それらに加え肩にライフルをかけて現れることもあった。

 


Duke Reidが「King of Sounds and Blues」の称号を獲得できたのは、妨害行為や脅迫に依るところが大きかった。

 Reidと妻Lucilleが経営していたキングストン西部のBond Streetにあった 酒屋は、付近のスラムBack-O-Wallの犯罪者たちが頻繁に出入りをしており、ReidはWoppi KingやDapper Danなど、彼を恐れていたギャングリーダーたちを自分の側近として扱っていた。Tom the Great Sebastianはジャマイカで初めて人気を獲得したサウンドシステムと言及されることが多いが、彼らをシーンから追放したのは、Reidの取り巻きたちだった。 Duke Reidが3年連続でSuccess Clubの「King of Sounds and Blues」の称号を獲得できたのは、彼の取り巻きたちの妨害行為や脅迫に依るところが大きかった。

 

 

一方、Duke Reidの永遠のライバルだったCoxsone Doddは、ReidのTrojan Sound Systemのゲストセレクターとしてキャリアをスタートさせ、1953年に初めて季節労働者として農場で働くために渡米した際に購入したアメリカ産のフレッシュなリズム&ブルーズのレコードをプレイしていた。DoddはReidよりも16歳ほど若かったが、Doddの両親がReidと懇意にしていたため、幼い頃からReidとは既知の間柄だった。

 

ラフで激しいサウンドシステムシーンの中で、当初Coxsone Doddは自身のサウンドシステムDownbeatへの集客に苦労した。その理由のひとつは一般客がDuke Reidの取り巻きたちによる攻撃に無力だった点にあった。しかし、Coxsoneは Reidの近所に住んでいたストリートボクサーPrince Busterを懐刀として抱えていた。BusterはReidの取り巻きによってシーンから消されたTom the Great Sebastianの忠実なファンだったため、Coxsoneの側へ身を寄せたいと思っていたのだ。

 

 

 

1957年後半にForrester’s Hallで開催されたダンスパーティーでは、ReidのTrojanがSir CoxsoneのDownbeatとクラッシュしたが、この時にBusterはDuke Reidのシステムの針を壊した他、元ギャング仲間からの奇襲をかわすためにナイフを振り回し、Coxsone率いる新生クルーがBack-O-Wallが誇る不良たちの攻撃に恐れないことを示した。

 

Prince BusterはDuke Reidのシステムの針を壊した他、元ギャング仲間からの奇襲をかわすためにナイフを振り回した。

妨害行為と暴力は常にセットだった訳ではなかった。BusterはDuke ReidのTrojanや他のサウンドシステムのダンスパーティーに潜入し、どのレコードがプレイされていたかをチェックすることで、相手の優位性を失わせようという行動も取っていた。そしてBusterが自身のサウンドシステムを立ち上げるためにCoxsoneの元を去った後、同じ役割を担ったのがLee “Scratch” Perryだった。Duke Reidの事務所で彼に詩を盗まれたことを持ち出して言い争いになり、Reidからいきなりノックアウトパンチを食らって彼の元を去っていたPerryをDodd側が迎え入れたのだ。

 

エクスクルーシヴな楽曲はサウンドシステムのバトルにおいてカギであり、ReidとDoddは自分たちの優位性を保つために惜しむこと無く努力した。実際、Doddは1961年9月にDownbeatのクルーのひとりがエクスクルーシヴなダブプレートを盗んだことを発見し、警察に突き出している。

 

 

この一連の流れの中で、年を追うごとにDoddとReidの間で友情が芽生えていったという点は非常に興味深い。1960年代前半、DoddはDukeのディレクションの元、不朽の名作であるDon Drummondのスカのインスト「Schooling the Duke」や、Lee Perryの「Prince and Duke」、「Me Sir」などのヴォーカルトラックなど、 Prince BusterとReidの一時的な協力体制を面白おかしくいじる数々の作品が発表された。

しかし、1960年代中頃になると、Dukeが危機的状況にあることが発覚した。 CoxsoneがThe SkatalitesThe Wailersと共に音楽性をスカへ移したことで、Dukeのセールスが縮小していたのだ。しかし、Reidは何をすべきかを理解し、懇意にしていた家族の息子であるSir Coxsoneに連絡を取ると、楽曲の交換を申し出た。そしてDoddはReidに「Eastern Standard Time」(Doddのアルバム『Best of Don Drummond』に収録)を提供させる代わりに、Don Drummondの「Green Island」を提供した他、Reidの復活を願ってStudio Oneに所属するアーティスト6人をReidのスタジオに送り込んだ。

Don Drummondのガールフレンドが殺された悲劇の後にThe Skatalitesが解散に追い込まれると、Reidの予想外の形で本人の方へ流れが傾いていった。The SkatalitesのバンドリーダーTommy McCookが、Reidが新たに建てたTreasure Isle Studioの専属アレンジャーになると、このスタジオはロックステディムーブメントの中心地となり、Reidは当時を代表するプロデューサーになった。

 

Treasure Isle

 

The Melodians、The Sensations、The ParagonsThe Techniquesによるヒット曲でCoxsoneに完勝したReidは、更にJustin HindsAlton Ellisによる大量のヒット曲も生み出した。この現実を甘んじて受け容れることができなかったDoddは、チャンスが訪れたと判断するや否やEllisをStudio Oneに連れ戻し、彼がTreasure Isleで制作した「Breaking Up」などのヒット曲の数々を再録した。

 

次にロックステディがレゲエに進化すると、Sir Coxsoneはトップの座に返り咲いた。しかし、それはレゲエがダンスホールに取って代わられるまでの話で、ダンスホールが台頭すると今度はReidが再び勢いを取り戻し、U-Royがロックステディのリズムに乘せて流れるように披露したU-Royのトーストでディージェイブームを先導し、ラジオチャート1位3曲とU-Royの重要作『Version Galore』を生み出した。しかし、Reidに遅れを取りたくなかったDoddも、Dennis Alcaponeのアルバム『Forever Version』をリリースしてReidに対抗した(尚、Alcaponeはその後Reid専属アーティストとなった)。

 

 

今改めて振り返ってみると、DukeとSirの長年のライバル関係はジャマイカの音楽全体のクリエイティブな方向転換において、大きな影響を与えていたことが理解できる。そして、長年に渡る家族付き合いに端を発するその深い友情は、どういう訳かその強度を弱めることがなかった。

 

この「世間的なライバル関係と個人的な友情」は、ジャマイカの音楽とは切っても切れない関係のように思える。例えばPrince BusterとDerrick Morganがリリースしたお互いをディスるスカの作品群はファンを巻き込んで大きな騒ぎとなり、結局大統領が介入して公開調停式が設けられるまでになったが、プライベートでは2人の友人関係はずっと続いていた。

 

一方、レゲエ時代では、I-RoyPrince JazzboがThe Beatle対The Rolling Stonesのような舌戦を繰り返したが、これはプロデューサーBunny Leeがカナダのレーベルの指示の下で売り上げ増加を目的として仕組んだもので、2人の個人的な関係とは全く関係がない騒動だった。また近年ではBeenie ManBounty Killerが延々とビーフを繰り返してきたが、2人の間に友情は一切存在せず、公の場で交わされた和解も長くは続かなかった。また、MavadoVybz Kartelの間で展開されたかの有名な「Gaza対Gully」の抗争はレゲエシーンで最も過激なビーフとして記憶されており、(Vybs Kartelが刑務所内にいるにも関わらず)未だに終わりが見えていない。

  

 

では、Duke ReidとSir Coxsoneはその後どうなったのかと言うと、お互いに対するリスペクトが非常に大きかったため、Duke Reidが臨終の床にSir Coxsoneを呼び寄せてビジネスの詳細を確認し合ったと言われている。食うか食われるかのジャマイカの音楽シーンにおいて、Coxsoneにとってそれは最高の賛辞だったのかも知れない。