十月 16

DBS: Drum & Bass Sessions

ベース・ミュージックのルーツから先端へと導くパーティー

By Kentaro Takaoka

 

隆起する音楽シーンと呼応しながらパーティーは育まれ、回数を重ねていく。では数々行われたパーティーの中で国内最長は? 東京では「DBS」や「セッションズ」の愛称で親しまれる「Drum & Bass Sessions(以下、DBS)」が18年続く最長のパーティーだ。"来日アーティストの緊張感ある公演"と"賑々しい夜遊び感"をバランスよく保った雰囲気を作り続け、多様なスタイルのベース・ミュージックを実体験で紹介する場が「DBS」だろう。ベース・ミュージックとは、ジャングル、ドラム&ベース、UKガラージ、ダブステップ、グライムなどの低音の鳴らし方に主眼を置いたジャンルの総称であり、時代とともにジャンルが追加されながら脈々と続く。

 

現在「DBS」は、代官山Unitにて定期的に開催される。筆者が前回訪れたのは、ブリストル・ダブステップの重鎮Pinchが来日した夜(2014年6月)。この日のために搬入されたJah-Lightによる巨大なサウンドシステムと、長年「DBS」の現場を共にするPAの組み合わせは格別であった。胸元に来るズシッとくる重低音、長時間フロアにいても耳が疲れない音響のクオリティは都内ではなかなか体験できない。Pinchの新レーベルCold Recordingをイメージしたひんやりとしたライティングが施されたフロアでは、ダブステップから徐々に変貌していく彼のDJプレイを待ち望んでいた人々がリワインドで歓声を上げる。PinchのプレイからGoth-TradによるBPM85で繰り広げられる新機軸のライヴに引き継がれ、アーティストは新しいスタイルをチャレンジし、そのチャレンジに期待する人々が集う場となった。

 

さてこの記事では、その半生を音楽体験の現場に身を置く「DBS」主催者である神波京平にスポットライトを当ててみたい。1958年大阪生まれの神波京平はグラム・ロック、パンク・ロックの影響を受けて音楽生活に入るようになり、それからレゲエやワールドミュージックに心酔していく。大阪の民族音楽専門レコード店Rangoonで働きながらアジアや各国を旅する。80年代中盤から90年代初頭は、ワールドミュージックは世界的に注目された時代。インターネットもなく海外のイベントの情報を入手することすら困難だった時代に、現地の熱狂を細部まで伝えるため海外へ足を運んだ。1985年のイギリスでのWOMADフェスティバル開催を機に取材、ライターを始める。WOMAD出演者、ジンバブエのショナ人の伝統音楽にエレクトリックな創造を加えたミュージシャンThomas Mapfumoのインタビューに成功し、『ミュージック・マガジン』(1985年12月号)に掲載された。他にも西アフリカ・マリのシンガーソングライターSalif Keïtaの国内初紹介のために現地へと取材、セネガルのポピュラー音楽の大御所であるYoussou N'Dourの紹介、ジャマイカのダブの鬼才Lee "Scratch" Perryの初来日時のイベントレポートなど、音だけでなく人種問題や社会情勢を踏まえた記事を『宝島』、『LATINA』などの媒体に多数執筆した。

 

 

そして1994年に大きな転機が訪れる。バングラやラガなどのイギリスのマイノリティ・ミュージックの取材で向かったロンドンで、ジャングル/ドラム&ベースに開眼。「当時のロンドンでのジャングルは嵐のような盛り上がりで、ラガ・ジャングルの代表格のM Beatやウエアハウスのアンダーグラウンドなジャングル・パーティーを体験した時の衝撃は忘れられないものだった」と本人は語る。その頃の取材ノートにはこう記されていた。「ロンドンでジャングルを生で聴きたいと思っていたら偶然に『Jungle Mania』というタイトルと住所だけが記載されている白黒コピーのフライヤーを入手したので行ってみた。場所はサウス・ロンドン、ブリクストンの近くのヴォクスホールにある倉庫だった。出演していたDJやMCは当時わからなかったが、そのエネルギッシュなサウンド、そして土地柄なのか、大半の黒人の若い男女が激しくダンスする姿、天井パイプから水滴が滴る、凄まじい熱気に圧倒された。それはまったく新しい音楽のカルチャーショックだった」。その熱気を持ち込もうと奮闘し『remix』、『ele-king』などの多岐に亘るクラブ・ミュージック専門の音楽誌に、沸騰するシーンの潮流を捉えた記事を定期的に寄稿。その集大成が1996年に刊行された『Junglist Handbook』(autobahn inc.)となる。ジャングル/ドラム&ベースの進化に欠かせないアーティストのインタビューと名盤の解説が並び、当時のシーンの全貌が俯瞰できる一冊となった。また、日本版としてリリースされたジャングル/ドラム&ベースのアーティストのアルバムを手に取れば、そのライナーノーツの多くが神波京平の執筆した原稿という事実も忘れてはならない。当時の国内のレコード店では、特にCisco Techno、Disc Shop Zero、Hot Waxなどでドラム&ベースの品揃えが充実。その店頭のフライヤー置き場には、神波京平監修/編集によるドラム&ベース専門のフリーマガジン『Future』が定期的に刊行され、いち早く情報が入手できた。

 

ただ、執筆活動だけではイギリスで感じた低音の鳴りがなかなか伝わらない。ライター業と平行しながら、1995年よりプロモーション活動を始め、西麻布Yellowの協力でM-Beat、Kenny Kenを迎えてジャングルの紹介を開始。96年1月は『remix』編集長の小泉雅史の尽力で西麻布YellowでLTJ Bukem。当時週末のクラブはレギュラーで固定されていたので当時は新宿にあったLiquidroomの週末に4 Hero、Fabio Grooveriderを迎えて「remix night」を開催した。神波単独でオーガナイズしたのは青山BlueでのKemistry & Storm(96年6月)となる。そこからパーティーを続けていきたいと四苦八苦している時にコンサート・プロモーターHighlife Internationalに興味を持ってもらい、1996年11月より新宿Liquidroomで「Drum & Bass Sessions」として、MetalheadzのDoc Scott、Ed Rush、Randallを招いての初開催が行われた(※Highlifeは99年に解散、以降神波が継続している)。パーティー名の由来は、ストレートに"Drum & Bass"というジャンル名と、Goldieがロンドンで行っていたパーティー「Metalheadz Sunday Session」のタイトルから借り、毎回色々なアーティストがその名の通りセッションしているので「Drum & Bass Sessions」と名付けられた。

 

日本でドラム&ベースというジャンルを定期的に体験できる場を作り、ラガ・ジャングル、サイバー系,ブリストル系、ジャジー系、ジャンプアップなどの多様なスタイルのアーティストが招かれフロアを沸かせた。当時のLiquidroomの来日DJのパーティーは、フロアの熱気で天井から汗が滴り落ちるほど。追体験したければ、新宿Liquidroomで行われた「DBS」でのライヴ録音となるミックスCD、LTJ Bukem Featuring MC Conrad『Progression Sessions - Japan Live 2002』(Good Looking Records、2002年)を手に取るべきだろう。近年では「DBS」での共演を期に知り合ったPhotekとPinchは、のちに共作EP「Acid Reign / M25FM 」(Photek Productions, 2012年)をリリースするなど親睦を深める場ともなっている。「DBS」だけでなく、日本最大のフェスFuji Rock Festivalに、ベース・ミュージックのビッグ・アーティストの招聘を行い、Roni size、Krust、DJ Freshなどの熱演を、フェスに集まる他ジャンルのリスナーの耳に届けた。

 

パーティー名に「Drum & Bass」と付いているが、扱っているジャンルはドラム&ベースだけに因われない。ロンドンのルーツ・パイオニアJah Shaka、パンクとレゲエの橋渡しをしたDon Lettsも定期的に招いている。ルーツを踏まえながら進化していくジャンルもいち早く紹介した。クラックハウスを提唱しプレイスタイルを変えたDJ Zincはもちろんのこと、UKガラージのZed Bias(2003年6月)、グライムDJのPlastician(2004年12月)、グライムのDJ Slimzeeと一緒にMCのWiley(2005年5月)、ダブステップのMala(2007年3月)を招聘。Malaの初来日時にはDoc Scott、Goth-Tradという組み合わせで、本場UKでの潮流を読み解きながら、日本で定着していたドラム&ベースと織り交ぜてダブステップを紹介した。また、書籍『ダブステップ・ディスクガイド』(国書刊行会)での原稿「DUBSTEP HISTORY」で、その変化の歴史を紐解くことができる。ちなみに、2005年には一筋縄ではいかないWileyの出演交渉のためにロンドンへ向かい、ダブステップ発祥のパーティー「FWD>>」やベース・ミュージックの総本山といえるラジオ局Rince FMのスタジオにまで足を運び、神波京平はWiley本人と直談判を行った。またイギリスだけでなく、現在は世界最大級のフェスに成長したUltra Music Festivalに2004年の時点でマイアミにまで取材で向かっている。

 

 

ここまで長続きしているのは地道なプロモーション活動があってのこと。「DBS」の告知ポスターは、東京で一番マニアックなレンタルCDショップJanisにまで貼られている。「DBS」のフライヤーを各店舗で見かけるのは今や見慣れたの風景となった。フライヤーの裏面に記載されているアーティストのバイオグラフィーは、神波京平によるライターとしての普及活動を反映させた綿密な経歴となっている。では、何が彼を18年間も突き動かして来たのか? 神波自身はこう語る。「1982年に初めてジャマイカに行ってサウンドシステムやダブを体感してから30年以上、重低音に魅せられ、それは自分のライフスタイルの一部であり、DNAになっていると言っても過言ではない。殊に頻繁に通っていた英国ではJah Shakaのサウンドシステムを主幹に、ジャングル/ドラム&ベース、ダブステップ等の枝葉が広がり常にエキサイティングな音楽状況がある。自分は触媒として素晴らしい音楽文化を日本に紹介できればという思いで続けてきた。」

 

そういった身体に刻み込まれる原体験を元に活動を続けた彼から現在の日本におけるベース・ミュージック・シーンはどう見えているのか。「1997年にJah Shakaを初招聘した時、彼の存在は日本でまだ少数の人が知るだけだった。というか、当時日本でのレゲエはジャマイカ一辺倒だったように思われる(勿論、UB40、Janet Kay、Maxi Priest、Aswad、LKJ等は知られていたが)。そこでその時はブリストルのMore Rockersも一緒に招き、ルーツレゲエ、ダブ、ジャングルのリスナーを結集できればと思った。その後もJah Shakaのプロモートを日本各地で続けてきたが、各地に自分達のサウンドシステムを所有するクルーが増え、地元に根差したパーティーも数多く行なわれ、確実に裾野が広がっていると思う」というように、べース・ミュージックはサウンドシステム・カルチャーと一体ということも忘れてはならない。では最後に今後の「DBS」の目標、ヴィジョンを聞かせてもらったので締めくくらせてもらう。「これからも音楽を楽しめる限り、良い音楽を信じ、お互いにリスペクトできるアーティスト達との交流を密にし、良いヴァイブ&アトモスフィアーを共有できる場を提供していければ幸いだ。」

 

Photos: Courtesy of Kyohei Kamba (DBS)