二月 10

Don Drummond: ジャマイカが生んだ 悲劇の天才トロンボーン奏者

By David Katz

天才トロンボーン奏者Don Drummondがいなければ、今のレゲエは存在していなかっただろう。The Skatalitesにおいて最も革新的な音楽性を持ったメンバーだったDrummondはレゲエ、そしてダンスホールの基礎となったジャンル「スカ」の創出に関わった最重要人物のひとりとして活動。当時のビッグアーティストとも次々と共演し、Bob Marley and the Wailersのようなバンドにも大きな影響を与えている(代表曲『Simmer Down』のアレンジに大きく関わり、曲の持つインパクトを変えた)。



1960年代初期において、Drummondの秀逸なトロンボーンは頭ひとつ抜け出ていたと言ってしまって良いだろう。しかし、本人は精神障害を患っていた人物としても知られており、長期に渡りジャマイカ唯一の精神病院、Belluvue Hospitalに入院していた。ちなみにその苛立ちが音楽に注ぎ込まれた結果、『Burning Torch』や『Green Island』のような堅苦しい雰囲気の楽曲が生まれている。Drummondは口数が少なく、悩みを常に抱えていた人物で、自己閉鎖的なその性格が、彼をジャマイカの音楽における「謎」のひとつにしている。

Drummondは父親のいない家庭で少年時代を過ごし、メイドとして働く母親の元で育った。しかし、9歳の頃に学校で授業をさぼり始めると、カトリック系の慈善施設であるAlpha Boys Schoolに送られる。この「不良」を預かる施設は非常に厳しく、悪さをしたと見なされた生徒たちは頻繁に殴られたり、棚の中に閉じ込められたりしていた。Drummondはこの施設で園芸、タイル製作、洋服の仕立てなど様々な職業訓練を受けたが、結局音楽以外にのめり込むことはできなかった。「俺たちはみんなと違って毎日学校へ通っていた訳じゃなかった。半日学校、半日音楽って感じだったよ。トロンボーンのことで彼が俺に教えてくれたことは、今でもよく覚えているね」学校でDrummondの後輩的な存在だったRico Rodriguezは当時をこう振り返っている。

Drummondの同級生で、後にThe Skatalitesでも一緒に活動したLester Sterlingは、「彼の音楽の才能は素晴らしかったよ。施設では彼より2年前から吹いていた先輩たちよりも上手かった」とその才能を認めている。学校でのDrummondはトランペット、ユーフォニウム、フレンチホルンなど様々な楽器にチャレンジしていたが、バンドリーダーReuben Delgadoが彼の才能を見出しトロンボーンへ導くと、メキメキと才能を伸ばし、1950年、学校を卒業する6週間前にEric Deans Orchestraへ加入した。


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Eric Deans Orchestraは当時のジャマイカで最も人気のあったビッグバンドで、Drummondはそこでかなりの活躍をしたが、最終的にDeansのガールフレンドにのめり込まれてしまい、それが理由で解雇された。その後のDrummondは、Eric Deans同様にハイレベルな演奏が特徴なSonny Bradshawのバンドや、学校の卒業生で結成されるTony Brown’s Orchestraなど複数のバンドで活動。更にはオリジナル楽曲を手にオールスターバンドやカルテットのリーダーとして活動し、1955年7月には正式に「ジャマイカ最高のトロンボーン奏者」と評価され、1956年にはSarah Vaughanのバックを務め、1959年にはDave Brubeckと共演を果たした。

しかし、周囲のプレッシャーに晒されたことが原因となり、DrummondはBellevue Hospitalに長期入院してしまう。1960年代に入った当時、ジャマイカのサウンドシステムのオーナーたちが、自分たちのサウンドシステム専用の楽曲として地元のリズム&ブルースのアーティストたちのレコーディングを開始し、ジャマイカの音楽業界が生まれていった。そしてFederal Recordsに集まっていたRoland Alphonso(サックス)、Lester Sterling(サックス)、Johnny “Dizzy” Moore(トランペット)、Lloyd Knibb(ドラム)、Lloyd Brevett(ベース)、Jah Jerry Haines(ギター)、Jackie Mittoo(ピアノ)が、後にStudio Oneを設立するClement “Sir Coxsone” Doddのハウスバンドとして活動を開始し、The Skatalitesの原型が生まれたのもこの頃である。

Doddは当時を次のように振り返っている。「Don Drummondは世界レベルだったし、彼のソロを聴くのは私にとっては喜びだった。彼の演奏は柔らかく、強引に鳴り響くようなものではなかった。正確で一流なソロプレイヤーだった。だから彼と一緒の仕事は楽しかった。彼のことは一緒に仕事をする前から顔見知りだったが、彼が退院後に私の元へやってきた。彼は私が有数のサウンドシステムのオーナーでレーベルを手掛けていて、若手を中心にレコーディングを始めたということを聞きつけたのさ。私は彼が最高のプレイヤーだということを知っていたので、何の問題もなく1961年に彼と契約した」


 

Drummondは退院後1作目として、スイング感のあるR&B、『That Man Is Black』をリリースすると、続いてOwen Grayの代表的なスカ『On the Beach』に参加して、Drummondの代表曲『Don Cosmic』をリリース。これはDoddとのパートナーシップ時代の初期代表曲となった。この曲はメランコリーな雰囲気が強調され、トロンボーンは泣いているように鳴り、ラストの不協和音のようなひと吹きは、彼の内面の苦痛を露わにしている。そしてこの楽曲の通り、DrummondはまたすぐにBellevue Hospitalに再入院し、1962年5月まで表舞台から消えることになった。Doddは「私がレコーディングを始めてから、1年半ほど一緒に仕事をしたが、彼は再入院してしまった。過激な行動を取るようになっていたので、母親が彼を入院させたんだ」と説明する。

歌手Clancy EcclesもかつてジャーナリストSteve Barrowに対し、Drummondの不安定な感情について語っている。「Federalでレコーディングしていた時、外で土を掘り返している人たちがいたんだが、Donはそこへ向かうと、土の塊を持って帰ってきて、オバルチン(麦芽飲料)の中に入れたんだ。ちなみにDonは決して温かい食べ物を口にしなかった。フルーツなどの冷たい食べ物ばかりだった。ある日、RolandとJohnnyが彼の飲み物を見ると、そこには土やら何やらが全部混ぜたものが入っていた。そしてDonは『人間は原子力で生きなければならない。俺たちは自分たちの中に原子を持たなければならない』と言って、その土を食べたらしい。彼の常軌の逸し方は特別だった。狂っていたというのとは違うと思う。他にも話がある。ポート・アントニオで演奏している時に、MCが『ではDon Drummondです!』と紹介すると、彼はスーツでステージに上がって、そのままズボンを下げて観客に向かって小便をかけたんだ。本当に変わっていたよ。そして絶対に靴を履かなかった。フェルト帽をかぶって一見格好良かったが、靴は履かなかったんだ。アメリカのジャズミュージシャンのようだったよ。俺たちとは明らかに違っていた」



精神病院で過ごす日々が長かったDrummondだが、スカシーンにおける評価は揺らがず、Studio Oneで『Schooling the Duke』、『Jet Stream』、『Reload』などのスリリングなインスト曲をレコーディングすると、Justin YapのTop Deckにも『Marcus Junior』、『The Reburial』、『Confucius』などの感情豊かな楽曲を提供し、Duke Reidにも名曲『Eastern Standard Time』と『Occupation』を提供している。そして1964年8月にDoddがThe Skatalitesの前身となるスカグループの結成を提唱すると、DrummondとDoddの力でスカはジャマイカ国外でも人気を獲得することになった。しかし、Drummondはその数か月後に再び精神に異常をきたし、演奏に集中できなくなっていく。Marcia Griffithsは当時のDrummondについて、「Studio Oneに行くと、Don DrummondがThe Skatalitesと一緒に演奏していた。でも彼の演奏はフラフラだった」と振り返っている。

そして絶望的な愛が彼を破滅に導いてしまう。Drummondはレバノン難民のダンサーで、Margaritaという名前で活動するAnita Mahfoodと恋仲になった。実力者でありながら家族としては機能していない複雑な一家に育ったMahfoodは当時迫害されていたラスタファリ運動の支持者で、Drummondのアーティスト性を高く評価していた。しかし薬漬けのDrummondはMahfoodの全裸に近いダンスを認めなかったため、2人の関係は常に不安定だった。

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1965年元旦の朝、Don DrummondがMargaritaを殺害したというニュースがジャマイカ全土を駆け巡った。この事件によって世間から「狂人」として扱われ、冷たい目で見られたDrummondは、その後Bellevue Hospitalに送られて隔離され、1969年5月に37歳でこの世を去るまでそこから出ることはなかった。死因はうっ血性心不全と発表されたが、陰謀によって殺されたという音楽関係者もおり、ドラマーHugh Malcolmに至っては、Drummondは殺害されたということをアピールするために、Drummondの葬儀の邪魔をするという行為に出ている。結果的にDrummondがMargaritaを殺害したことでThe Skatalitesは解散に追いやられ、スカの時代は終わりを告げた。Drummondは最終的に貧民街の墓地に墓標なしで埋められている。これは非常に優れた才能を持ったミュージシャンとしては最も不名誉な最後と言えるだろう。

Heather Augustynが最近発表した伝記本のサブタイトルが示すように、Don Drummondは天才であると同時に悲劇の人であり、それゆえに彼の残した音楽はユニークなのだろう。

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Don Drummondの生涯についての伝記本『Don Drummond: The Genius and Tragedy of the World’s Greatest Trombonist』を発表したHeather Augustynに本の内容についてメールで質問した。

Dorrumondを題材にしようと思ったきっかけは何だったのでしょうか?

彼の音楽が好きだったのがきっかけです。彼のマイナーコードのトロンボーンがLloyd Knibbのソウルフルでアップビートなリズムの上で、うめくように鳴るスタイルが好きなのです。彼がアーティストとして世に出たきっかけは彼の作曲能力ですが、1996年にLloyd Brevettから彼の人生についての話を初めて聞いた時、作家として彼に興味を持つようになりました。どうして彼がそうなったのかという点を皆さんと同じように知りたいと思ったのです。何故そのような奇行を行い、何が素晴らしいアーティストとしての彼を悲劇に追い込んだのか、それを私は知りたかったのです。つまり彼に対する敬意と興味からこの本を書こうと思ったのです。

一番驚いた事実について教えてください。

MargaritaことAnita Mahfoodの人生には驚かされました。誰も彼女については語りませんが、Donと同様に素晴らしい人物でした。彼女自身も人生に対する情熱に溢れたアーティストでした。そのような彼女の人生を紐解き、ビッグクラブでラスタ系音楽が受け入れられるようになったのは、彼女の存在が非常に大きかったという事実を知ることは非常に魅力的な作業でした。彼女の不屈の精神には私たち全員が感謝すべきです。彼女がいなければ今のレゲエがどうなっていたのか分かりません。もうひとつの驚きは、DonがBellevue Hospitalで受けていた治療や薬です。あのような粗野な治療を受けていた彼にとって、死は不可避だったと思います。

どのような取材を行ったのでしょうか?

私はジャーナリストですし、新聞社で働いているので、インタビューが中心でした。素材を集めるために何人にもインタビューしました。彼と一緒に演奏していたミュージシャン、殺人で起訴されていた時に弁護人だったP.J. Patterson元大統領、法医学専門家、殺人後入院していたBellevue Hospitalに住んでいた当時の医務部長の娘、現在のBellevue Hospitalに努める医療関係者、Margaritaの兄と娘など、沢山の人たちにインタビューをしました。その後でジャマイカの新聞Gleanerのアーカイブを精査しました。ここにはかなりの資料が残されていましたね。またキングストンを2度訪れ、彼の住んでいた場所や警察署、裁判所、生まれた病院、葬儀場、墓地も訪れましたし、Alpha Boys Schoolと国立公文書館でも詳しく資料を調べました。可能な限り細かく調査を進めました。彼に対する愛情ゆえでした。

執筆を通じてDrummondに対するイメージが変わりましたか?

意外にも変わりませんでした。彼の苦しみを知れたことに感謝していますが、彼本人と彼の音楽に対する敬意は今も変わりません。40年前の出来事ですし、彼は難しい人物でしたので、私が取材を始めた時と変わらず、今でも彼にまつわる謎は残されています。以前よりははっきりとしてきましたが、私は今でも彼を影のようなぼんやりとした存在に感じています。尊敬と軽蔑が同時に存在する気持ちは辛いものです。アーティストであり破壊者であった彼に対する私の感情はむしろ以前より複雑になっているのかも知れませんね。