四月 01

Detroit to NYC: New Music SeminarとUnderground Resistance

デトロイトテクノ・ハウスのパイオニアたちが毎年ニューヨークへ出向いていた頃を振り返える。

Jeff Mills、Terrence Parker、Mike Banks、Mke “Agent X” Clark、Bill “Billy Love” Beaver、Norm Talley、Robert Hoodが全員で1台のバンに乗り込み、ニューヨークで開催されていたNew Music Seminarへ向かっている様子を想像してもらいたい。Mike Banksが運転を担当していたそのバンは初めてUnderground Resistanceを一般公開する予定になっていた。そしてあの伝説のクラブLimelightでパーティーを楽しむ全員の姿や、ウェストコーストのヒップホップクルーDe Lench Mobと出会った時の彼らの様子も想像してもらいたい。これらは実際に起きたことだ。1980年代後半から1990年代前半にかけて、デトロイト出身のテクノのパイオニアたちは毎年New Music Seminarへ出向き、急成長を遂げていたデトロイトサウンドを広めようとしていた。

 

「New Music SeminarはWinter Music Conferenceの先駆け的存在だった」Underground Resistanceのメンバーで、長年デトロイトでDJとして活動してきたMike “Agent X” Clarkは説明する。「俺は80年代初期から通っていた。DJのコンテストに良く出ていたからさ」Clarkがそこで目にしたのはデトロイトとはまったく違う光景だった。「最初の数回に行ったんだ。DJたちがターンテーブルをプレイしていた」その光景にヒントを得た彼は、デトロイトの仲間を参加させたいと思い、仲が良かったMike Banksに相談した。Banksは丁度Underground Resistanceの立ち上げの最終段階に入っているところだった。

 

1980年代後半になるまで、Underground Resistanceはただのアイディアでしかなかった。Jeff Millsと共にUnderground Resistanceを立ち上げたことで知られるBanksだが、元々はMike and the Mechanicsと呼ばれていたロックバンドで活動しており、それが徐々にMOTHことMembers of the Houseというグループへと変容していった。UR同様、MOTHはメンバーが自由に入れ替わる複数のバンドが音楽をリリースしていた包括的な存在だった。しかし、URとは異なり、MOTHにはシンガーが所属していたため、非常にソウルフルなR&Bサウンドをハウスやテクノと組み合わせることもあった。MOTHのシンガーのひとり、Bill Beaverが説明する。「俺はMOTHの第2世代だが、Motownスタイルのゴスペルをテクノに持ち込んだ。ライブでそれを披露していたのさ。俺たちはテクノ版The Temptationsのような存在だったね」

 

MOTHはあらゆる意味でURの基礎を作り上げることになったが、サウンド自体は大きく異なっていた。MOTHが気楽なパーティーサウンドだったのに対し、URはハードで好戦的だった。1980年代後半、BanksとMillsは既にURのコンセプトを固めていたが、まだそれを公にはしていなかった。そしてClarkがBanksにニューヨーク行きの話をしに行くと、BanksはURをデビューさせるには最適のタイミングだと考えた。

 

「New Music Seminarの話はMike Banksから聞いたんだ」Beaverが振り返る。「俺たちはBanksの家でレコード制作をしていた。小さなMotownのような環境だったのさ。そしてある日Banksが『ニューヨークへ行くぞ!』と言い、それから数週間後に彼は全員をバンに乗せ、ニューヨークへ向かった。12、13人は乗っていたね! 俺はニューヨークまでずっとバンのドアの縁に座っていた。ツアーバンじゃなくて、普通のバンだったからな」

 

ClarkはNew Music Seminarへ初めて全員でニューヨークを訪れた年が1990年だったのか、1991年だったのか、1992年だったのかは思い出せないが、とにかく90年代初頭だったと振り返る。「Banksと俺たちは、Terrence Parker、Norm Talley、Bill Beaver、Jeff Mills、Scott Weatherspoon、Raphael Merriweathers Jr. たちに集合をかけて、ニューヨークへ向かったんだ」

 

そしてClarkはその当時を思い出してしばらく笑うと次のように続けた。「馬鹿デカいバンで向かったんだ。全員でガソリン代を出し合ってさ。Mike(Banks)が運転していた。カナダ経由で行くか、国内のルートで行くかを話し合ったりしたよ。そしてマンハッタンに着く直前にTerrence Parkerのところに嫁から電話がかかってきたんだ。子供が生まれたってね。みんなで祝ったよ」

 

New Music Seminarは1980年から1995年まで開催された。絶頂時にはNirvana、My Bloody Valentine、R.E.M.、Smashing Pumpkins、Run-D.M.C.などがライブを披露し、1994年には『Definitely Maybe』リリース直前のタイミングでOasisの全米デビューライブも披露された。New Music Seminarは前途有望なアーティストを発掘する場所であり、レーベルスタッフやA&Rが大挙していた。

 

そこでの露出こそがデトロイトチームが望んでいたことだった。「2度目に行った時はアルバムのプロモーションをした」Clarkが振り返る。「それにYolanda Reynoldsをフィーチャーした 『Living For the Nite』もあった。この時にRobert Hoodのキャリアもスタートしたんだ。奴は昔ラッパーだったからRob Noiseと呼んでいた。とにかくURのすべての作品を売り出そうとしていたんだ」

 

 

この新たに結成されたデトロイトチームは地元デトロイトである程度の注目を集めていたが、「Underground Resistance」という名前が初めて幅広い層に知られたのはこのNew Music Seminarだった。Bill Beaverによると、最初の数年は、Banksが作った黒地に白文字のURのロゴTシャツを全員が着ていたようだ。

 

BeaverはニューヨークでそのTシャツが注目を集めたため、「Underground Resistance」とは一体何なのかとひっきりなしに訊ねられたと振り返る。「俺たちはURのTシャツを着て、『よし、やるぞ!』という感じだった。Tシャツの反響は大きかった。でも、俺たちはURが何なのかを説明するつもりはなかったのさ。分かる奴には分かるって感じにしておいた。だから俺たちは常に謎めいた存在だったんだ。自分たちの正体を明かさず、レコードは白盤だった。ニューヨークに大きなインパクトを与えたよ」

 

 

Quinton McRae、Mike Banks、Jay Steinhour (Basement Boys)、Eddie “Flashin” Fowlkes、Robert Hood(左から) / Mike Banksの顔は本人の希望により加工 / 写真提供:Bill Beaver

 

そのURに特に興味を持ったのが、ウェストコーストのヒップホップグループ、De Lench Mobだった。Clarkが振り返る。「Ice CubeやEazy-Eたちさ。髪型をジェリーカールにしたカリフォルニアの連中さ。俺たちは小さなブースを構えて作品を売っていると、奴らがやってきて、ブースを眺めながら、「このTシャツは何だ? お前ら一体何者なんだよ?」と訊いてきた。言っておきたいのは、当時の俺たちはとにかく好戦的だったってことだ。テクノのPublic Enemyみたいなものだった。でも、奴らはそうやってふっかければ俺たちが怯えるだろうと思っていたのさ」

 

「そして奴らのひとりが何か偉そうなことをMike Banksに言った。それでBanksがカチンときで、『なぁ、これは売り物なんだよ。気に入らなければとっととそこに置いて、他へ行ってくれ』と言ったのさ。それで奴らがカリフォルニアから来ただの何だの言ってきたから、俺たちは『こっちはデトロイト出身だぜ!』と返した。すると奴らは、『あぁ、お前らがデトロイトの連中か! 話は聞いてるぜ! クールなことやってるよな』と言ってきたんだ」

 

またClarkはその晩、3人のスターと話をしている時に、Da Lench Mobのメンバーが他のグループとバルコニーでもめていた様子を目撃した時のことも振り返った。「ちょっとした揉め事が起きたんだ。深い意味は何もなかったけれど、あらゆる雑誌に掲載されたね。ホテルのバルコニーでの話なんだ。Da Lench Mobが片側からやってきて、他のグループが逆側からやってくると、いきなり揉み合いになった。でもすぐにお互い引き下がったよ。それが目の前で起きた時、俺はBarry White、Vanessa Williams、Sinbadと話していたのさ」

 

「当時のNew Music Seminarはガチだった。セレブも沢山来ていたし、ニューウェーブやインダストリアルまであらゆる音楽があったが、テクノはなかった。俺たちはテクノをプッシュしようとしていたんだ」こう説明するClarkだが、それでも最終的にはJazzy Jay、MC Hammer、Ice-Tなどのヒップホップ系とつるむことが多かったとした。

 

一方、BeaverはKraze、Russell Simmons、Houdini、John Truelove、そして当時売り出し中だったCrystal Watersと「Gypsy Woman (She’s Homeless)」をレコーディングしたばかりのThe Basement Boysと会った時のことを振り返る。1991年にPalladiumで開催されたNew Music Seminar主催のパーティーでヘッドライナーを務めたCrystal Watersは、New Music Seminarが夜間に開催していたイベント「New Music Nights」でデビューを果たしたアーティストのひとりだった。

 

 

Crystal Waters

 

そのNew Music Nightsが開催された会場でデトロイトチームの記憶に一番強く残っているのはLimelightのようだ。ニューヨークのナイトライフシーンの有名人Peter Gatienがオーナーを務めていた、教会を改装したこのLimelightについてBeaverは、「あそこは凄かったね。サウンドシステムは完ぺきだったし。あそこが当時の旅行のハイライトだった」

 

1990年代前半、Jeff MillsがNew Music Nightsのプログラムの一環としてLimelightでUnderground Resistance名義でプレイする機会があった。「当時の客はみんなフェイスペイントをしていた」レコードのリリースの仕方を学ぶためにニューヨークへ同行していたNorm Talleyが振り返る。「あれが当時のクラブカルチャーだった。あれがレイブカルチャーになっていったんだ」

 

しかし、Millsはあやうくプレイせずに出番を終えそうになってしまった。「ある男がJeff Millsを押しのけていたんだ」Beaverが振り返る。「そいつは『Jeff、お前はあと回しだ。スーパースターDJがお前の代わりにプレイする』と言っていた。だがJeffの持ち時間だった。だから俺たちの仲間で、用心棒をしていたBig Whiterがその男をバルコニーから投げ落とそうとした。最終的にはその男を追い出して、Jeffがプレイした。Jeffはブースに戻ってすぐ自分の仕事をしたのさ」

 

「結局その晩、JeffとWhiteは仕事のオファーをもらった。だから俺たちと一緒にデトロイトには戻らなかった」Clarkが続ける。この夜がきっかけとなりMillsのLimelightでのレジデントがスタートし、彼のキャリアを一段上へと押し上げることになった。1992年にも彼はLimelightで開催されたNew Music Seminarのアフターパーティーでプレイしたが、この時は彼が責任者になっていた。

 

 

Limelightにて:Kevin Saunderson、Ann Saunderson、Jeff Miss、Norm Talley、Derwin Hall,、Art Payne、Mike Clark、Lenny Burtonなど / 写真提供:Bill Beaver

 

Jeff Millsのニューヨークでのレジデント獲得以外にも、New Music Seminarはデトロイトハウス/テクノの発展において非常に大きな役割を果たした。 全米各地の業界人にUnderground Resistanceを聴くチャンスを与え、Norm Talleyのような若手DJたちに音楽業界やプロモーションの基本などを学ぶチャンスを与えた。そしてニューヨークで培われた音楽業界とのコネクションは、Underground Resistanceという名前を世界的な存在にする大きな役目を担った。デトロイトテクノ/ハウスシーンの遠足のような出来事が、ダンスミュージックの歴史における重要人物としてみなされている数多くのDJたちにとっての布石になったのだ。

 

(写真上:Robert Hood & Robert O’Dell)