六月 05

1990年代のデトロイトのエレクトロニック・ミュージック・シーン

世界最大のテクノイベントのひとつ、Detroit Electronic Music Festival(現Movement Electronic Music Festival)の誕生に繋がった1990年代のデトロイトにおけるパーティー、プロモーター、そして当時の雰囲気を振り返る。

By Joshua Glazer

 

Detroit Electronic Music Festivalが2000年に初開催された時、デトロイト市は100万人以上が集まったという公式発表を行った。この数字についてはその後何回にも渡り議論が行われてきたが、実際の数字がどうだったにせよ、開催時に現地にいた人たちが、真っ昼間からHart Plazaに集まり、約20年前にこの都市で生まれたテクノサウンドを聴いて踊る人たちの多さに驚いたことに変わりはない。

 

その中で最も驚いた人物は、デトロイトを拠点にするテクノDJで、ダンスミュージック専門の レコードショップRecord Timeの店員でもあり、1994年から地元のパーティーシーンに関わってきたDerek Plaslaikoだった。当日ヘッドライナーを務めたRichie Hawtinのセット中、「デトロイト! デトロイト!」と連呼する大観衆を見た彼は、私に「こいつら今までどこにいたんだ?」と訊ねた。


DEMFは、過去10年間に渡って小さなパーティーの寄せ集めだったシーンを立派なシーンへと成長させたローカルたちの努力の集大成のように思えた。

その疑問は当然と言えた。なぜなら、1990年代後半のエレクトロニック・ミュージックの人気は確かに凄かったが、当時のデトロイトのローカルイベントに集まっていた人数はDEMFに集まった人数の一部にも満たなかったからだ。しかし、この大観衆がどこにいたのかはさておき、DEMFは、過去10年間に渡って小さなパーティーの寄せ集めだったシーンを立派なシーンへと成長させた ローカルたちの努力の集大成のように思えた。1992年頃から1999年頃まで、エレクトロニック・ミュージックが世界的な人気を獲得していく中、デトロイトのダンスミュージックファンとアーティストはひとつにまとまり、テクノのオリジネイターであるDerrick May、Juan Atkins、Kevin Saundersonが生み出したフォーマットを用いながら、自分たちの街のサウンドとスタイルをリファインし続けていたのだ。

 

この時代を代表するビッグネームは当然ながら前述のRichie Hawtinであり、90年代にデトロイトで開催されていた彼のパーティーが生み出した数々のストーリーは様々なメディアで報じられているが、実際は彼も現在も続いているこのテクノフェスティバルの土台を作り出してきたこの時代の数多のプロモーターやパーティーの一部にしか過ぎなかった。

 

EXAT / Credit: Adriel Thornton

 

当時、毎週月曜日になると、シーンに関わる誰もがCass CorridorにあるコーヒーショップZootsで開催されていたアンビエント/エクスペリメンタル系イベントEXAT(Experimental Audio Transmissionsの略)に顔を出していた。ここでは90年代中頃のデトロイトのレイブコミュニティの核をなしていた層が前週末の活動から解き放たれてリラックスしながら、翌週末の予定などの情報交換が行われていた。

 

「あのイベントは、毎週パーティーで見かけるのに、現場の音がうるさすぎて中々話せなかったような人に改めて会える場所だった。あそこではコーヒーやビールをポーチで飲むだけだったからね」デトロイトのウェストサイドで育ったプロモーターAdriel Thorntonが振り返る。Thorntonは、典型的な「アーバン」な音楽ではなく、奇天烈なユーロディスコを聴いてダンスするという、1980年代にアフリカ系アメリカ人が中心となって生み出された「プログレッシブ」シーンに参加していた従兄弟からもらったテープを通じ、幼い頃からテクノに触れていた。ちなみに、デトロイトテクノの第一世代を生み出したのが、この「プログレッシブ」シーンだ。

 

「俺たちは集まってその『プログレッシブ』な音楽について話をしていた。テクノとかハウスとは呼ばれなかった。ただ『プログレッシブ』、または『プログレッシブシーン』と言われていた」Thorntonがクラブに入れる年齢になった1990年代初頭になると、プログレッシブシーンはほぼ無いに等しい状況だったが、The Alleyのような場所で続いていた。ここは高校生ながらも世界初のテクノクラブとして有名なMusic Instituteのサウンドシステムの構築に携わったCarlos Oxholmが経営するアフターアワー用の小さなクラブだった。

 

1515 / Broadway Credit: Adriel Thornton

 

こうしてThorntonはThe Alleyで開催されるイベントのフライヤーを配り始めたが、そこに残り続けたわけではなかった。地元のアーティストCamillo Pardoが所有するBankle Buildingや、Music Instituteが元々開催されていた1515 Broadwayなどの他のダウンタウンのヴェニューが、よりラフなイベントを打ち出し始めたからだ。またダウンタウンから車で30分ほどの距離にあるポンティアックにあったナイトクラブIndustryでは、毎週金曜にテクノパーティーが開催されるようになった。そしてそこに頻繁に通っていたJon SantosとAlan Boglが、IndustryのマネージャーだったSteven Reaume、Marke Bieschkeと組み、Voomというアンダーグラウンドなパーティーをスタートさせた。Industryの雰囲気は1990年代初頭のニューヨークのクラブキッズが打ち出していた享楽的なそれに似ていたが、Voomは違っていた。それよりも生々しく、非商業的なパーティーだった。

 

「『デトロイトへ行く』のは、非常に勇気がいることだったから、『デトロイトへ行った』奴はバッドアスだと思われた」 - Adriel Thornton

その後、他のプロモーターチームが多数生まれ、 なんとなしにローテーションが形成されると、Tribe 9(Thornton)、Cheshire(Jason Huvaere)、Detor(Detroit-Toronto)、Elephanthaus(Tim Baker/Twonz)、Motor City Macks(Alan Bogel/Johnny Saco)、Hardware(Danny Majorの経営する古い金物屋で開催されていた)などが毎週開催されるようになっていった。

 

各パーティーは毎週様々なロケーションで開催されたが、その中で最も高い頻度で使われたロケーションのひとつがPackard Plantで、これは近年デトロイトの衰退を象徴する存在として認識されている自動車工場跡地だ。Thorntonが説明する。「デトロイト近郊のキッズたちは、アンダーグラウンドなウェアハウスパーティーに興味を持つようになっていた。彼らにとって『デトロイトへ行く』のは、非常に勇気がいることだったから、『デトロイトへ行った』奴はバッドアスだと思われた」1990年代後半当時、Packardは現在ほど老朽化していなかったものの、都市部のラフスポットとして知られており、そこで一晩過ごせば、何日間にも渡り鼻の穴の中が真っ黒になった。

 

Gary Chandler at the Packard Plant / Credit: Brian Gillespie

 

「俺たちが拘っていたのはグッドミュージックとトップDJだけさ」ベトナム系アメリカ人Datと組んでパーティーPoor Boyを開催していたポーランド系アイルランド人Brian Gillespieが言う。「黒人のクラブDJたちが全員DJ GodfatherとGary ChandlerのPackard Plantでのバトルについて知っていたのは愉快だったね。GaryなんてPackardに1500人以上集まっているなんて信じられなくて、自分がそこにいることに驚いていたし」

 

約1年前には数百人程度の集客しかなかったシーンにとって、1500人以上の有料入場者という数字は大きなものだった。そしてこのようなシーンの急成長は、それまでゆっくりとコミュニティを育て上げてきた人たちにとっては悩みの種となり、後にMovement Festivalのオーガナイズを担当することになるJason HuvaereやJason ClarkやプロモーターDean Major、またUnderground ResistanceのDJ Buzz Goreeなど、当時のレイブシーンに関わっていた多くの人たちが住んでいた1217 Griswoldにシーンを代表する人たちが集まってディスカッションが行われた。

 

「1217はスクワットハウス兼アーティストのコミュニティ兼プロモーターの学び舎のような場所だった」(Goree)

 

「あの建物の中の半数はただ小さなパーティーを続けたいと思っていて、残り半数はもっと大きなパーティーを仕掛けたいと思っていた」(Thornton)

 

「警察がらみの問題が起きずに1カ月が過ぎることはなかった」 - Derek Plaslaiko

その「大きいほうが良い」というアイディアを最大サイズで実行していた人物は、1996年秋からSyst3mというパーティーをスタートさせたMajorと、Majorより少し若く、 Analog Systemsというパーティーを展開したGabe Szakalだろう。当時の両者のライバル関係は有名で、Majorは自身のイベントのひとつを「Fuck Analog, Go Digital」と名付けた他、MajorはAnalog Systemsのパーティーのフライヤーに似せたデザインのフライヤーでSyst3mのパーティー情報が載っているフライヤーを配ったとも言われている。

 

Fuck Analog, Go Digital

 

しかし、大規模なパーティーはシーン外から不必要な注目を集めるようになり、1996年から1997年頃になると、レイブは全米の警察から監視されるようになっていった。デトロイトは取り締まりを強化し、パーティーの中止や違反行為の摘発、またレイバーたちに対する暴力的な行動さえ取るようになっていった。「警察がらみの問題が起きずに1カ月が過ぎることはなかった」Plaslaikoは当時を振り返っている。

 

そして地元のFOX系テレビ局が1998年にレイブとドラッグの特集を放映すると、デトロイトの警察は非合法のパーティーに対しゼロ・トレランス方針を打ち出し始め、シーンに対するプレッシャーは更に大きくなった。そしてアンダーグラウンドなレイブの開催が非常にリスキーになっていく中、ハムトラムクのMotorに代表される新しいクラブは非合法のパーティーの代替案として、合法のパーティーを打ち出していくようになった(尚、1999年から2002年まで筆者はMotorのプロモーターとして働いていた)。

 


「海外のDJに対してはあまり魅力を感じていなかった。しかも俺たちが既に持っている音楽をプレイするなんて尚更だった」 - Adriel Thornton

アルコールライセンス、午前2時での営業終了、エントランスポリシーなど、ある意味Motorはレイブシーンの正反対とも言える存在となったが、実際はThorntonがほぼ毎晩エントランスに立っていたため、レイブシーンのベテランたちは問題なく入ることができた。「実はMotorがオープンした頃、自分たちのパーティーもクラブでの開催に戻そうとしていた。でも言っておきたいのは、クラブが俺たちのカルチャーを吸収しようとしていた訳では無かったということだ。クラブがきちんと存在してくれるのであれば、俺たちはそこに加わるべきだと思ったんだ」Thorntonが説明する。また 、Plaslaikoが「Alien WorkshopやQ-wear、KikwearのTシャツを着た奴が沢山いた」と言うように、Motorのドレスコードはクラシックなスケーターブランドも容認していたが、派手なトランス系の衣装のレイバーたちは、全面的に入場が禁止されていた訳ではなかったにせよ、 ゲストDJによっては入場が規制された。

 

当時、アメリカ国内の大半のクラブは、毎週末ゲストを迎えることで経営を成立させ始めており、それはMotorも同じだった。デトロイトではシカゴのTerry MullanやGreen VelvetやトロントのMuratなどがこぞってプレイしていた。しかし、実際のスターは、国際的な評価を得ている・得ていないに関わらず、地元デトロイト出身のDJだった。「ほぼすべてのパーティーのラインアップの一番上に名前を連ねていたのは、Eric Haupt、James Covert、Twonz、Acid Pimpたちだった。奴らの名前が載っていなければ、そのパーティーは疑問視されたんだ」Plaslaikoが振り返る。

 

Thorntonも続ける。「俺たちは甘やかされていたんだ。世界的に有名な雑誌はどれも俺らの身内のDJたちを載せていたからね。海外のDJに対してはあまり魅力を感じていなかった。しかも俺たちが既に持っている音楽をプレイするなんて尚更だった」

 

Brian Gillespie / Credit: Adriel Thornton

 

結果的にMotorの登場によってデトロイトのDJたちがプレイする機会が増え、 インターナショナルな評価を得ていたデトロイトのスターDJたちは全員がここでプレイすることになり、Carl CraigRobert HoodClaude YoungStacey Pullenはレジデントとして毎月プレイしていた。また地元のシーンが支持され、Gillespieは火曜日にバックルームでファンク、ヒップホップ、トリップホップ、ソウルをプレイし、毎週開催していたパーティーFamily Funktionを通じて有名になっていくと、DJ Godfatherと組み、ゲットーテックやベースミュージック、エレクトロをBankle期へ繋がる2人のDJ、ParisやBilleebobと共にプレイした。

 

その後、Thorntonは火曜日のパーティーをFamilyというタイトルのゲイパーティーに変更した(客はミックス)。レジデントはPlaslaikoとJason Kendigが務めたFamilyは、EXATとは異なる完全なダンスパーティーだったが、依然としてダンスミュージックコミュニティのソーシャルライフにおける中心的な役割を果たし、21世紀に入ると同時に、かつてのプロモーターやアーティスト、ファンが集い、DEMFの母体が生まれていった。デトロイトのレイブシーンは、フェスティバルのような大規模なものが生まれるなど全く予想できないような規模だった。しかし、上記のようなコーヒーショップでのミーティングやアンダーグラウンドなウェアハウスパーティー、そしてクラブパーティーなど、90年代の様々なイベントを体感してきた全ての人たちを一同に集め、年1回の週末開催という形にまとめれば、DEMFのような巨大なパーティーが生まれることは想像に難くない。