十月 17

David Sylvianと日本

元Japanのフロントマン の半生における日本という国の重要性

by Todd Hutlock

 

音楽業界でのキャリアが予想外の展開を見せることは多々あるが、ポップアイドルからアヴァンギャルドなアーティストへと転身したDavid Sylvianのそれに匹敵するのは、Scott Walkerくらいだろう。2人とも、批評家よりもティーンエイジャーの女の子たちに人気を獲得するところからスタートしたが、やがてポップ・チャートに背を向けて自身の才能を見つめ直し、残りの人生をオーディエンスよりも自分を満足させる音楽を追求することに費やしていった。

 

Sylvianの生き方は、彼をかなり遠く離れたところまで突き進ませていったが、それは常に「Japan」と関係してきた。バンドのみならず、国そのものとも。彼のキャリアを通した日本との関係は、常にユニークで変化に富んでおり、公共の目にさらされ続けたその30年のキャリアにおける彼のイメージとキャラクターも同様だった。華やかなブロンドのグラム・ロッカーから、優美な陶器の人形を経由し、最後には音楽に意味を見出そうとするシンプルなアーティストの姿に辿り着く。

 

1958年にイングランドのケント州ベックナムにDavid Alan Battとして生まれたSylvianは、1974年にパーカショニストの弟Stevenと、元々はバスーンの名手で、バスーンを不良に盗まれたことからベースへ転向したAnthony Michaelides(後のMick Karn)と共に音楽のキャリアをスタートさせた。3人は髪を染め、メイクアップを施し、様々な影響を取り入れながら独学でグラム・ロックバンドとして活動を開始する。1年後には、学校の同窓生でエレクトロニクスに詳しいRichard Barbieriと『MelodyMaker』誌の募集広告で見つけたギタリストRob Deanが加入した。そしてNew York Dollsから強い影響を受けていたBatt兄弟は、それぞれ苗字をSylvianとJansenに変え(なお、これはNew York DollsのSylvain SylvainとDavid Johansenに由来するものではないという説もあるが、その判断は読者に任せることにしよう)、Hansaとレコード契約を結んだ。

 

Japanというバンド名は、初ライブに向かうために乗っていたバスの中に、偶然落ちていた旅行パンフレットから取られたものだと言われている。Sylvianはこのバンド名が嫌いだったと明言しており、同時にバンド時代の自分は、本当の自分を隠すために偽りのマスクを着けていたとしている。「私は変装していた。Japanは自分を隠すためのマスクだった。」1999年『Mojo』誌のインタビューで、Sylvie Simmonsに対してこう答えている。「Japanは自分を表現するためのものではなかった。バンド初期のそのマスクは非常に分厚く、Japanの活動を通じてそれを徐々に外していったと言ってもいいだろう。マスクは決して前向きなものではなく、生き残るための手段だった。自分の人生を送っていた訳ではなかった。音楽自体もマスクを着けていた。Japan時代の私は、自分がどう感じているかについて一切語っていない。マスクを着けて自分を隠しながら、私はなんとかして自分自身に戻ろうとしていた。マスクを着けることが、唯一の生き残る手段だと思っていた。」

 

1978年にHansaからリリースされた最初の2枚のアルバム、『Adolescent Sex』と『Obscure Alternatives』は、共に良曲も駄曲も収録したギター中心のグラム風ポップだった。優れた楽曲が数曲収録され、Karnの見事なベース・プレイも輝きを放っている反面、その収録曲の大半は自分探しをするバンドの姿でしかなく、先のSylvianのコメントにも納得がいく。デビュー当時、彼らは母国イングランドでは全く相手にされなかったため、マネージャーのSimon Napier-Bellは人気を集めようとありとあらゆる策を講じ、3ヶ月後にようやく日本での人気を獲得することに成功した。日本では国内盤のデビュー・アルバムがリリースされる3カ月前の段階で既に30,000人以上を擁するファンクラブが生まれることになった。

 

 

SylvianはJapan初期から既にアジア的なものに魅了されており、「Communist China」, 「Stateline」などの初期楽曲群を聴くと、それは意識的、もしくは無意識的にアジアのオーディエンスの好みに合わせて作ったのか?そのアジアのオーディエンスは、自分たちとの関連性を見出してJapanを好んだのか?それともこれらの楽曲はJapanという名前を意識して作ったのか?と、「ニワトリが先か、卵が先か」に近い疑問を頭に浮かばせる。

 

2枚のアルバムリリース後にUS側のレーベルから契約を切られたJapanは、一度目の音楽的方向転換をする(なお、これ以降数度に渡り変更することになる)。バンドはエレクトロニック・ミュージックを取り入れ、Giorgio Moroderと組んだディスコ風のシングル「Life in Tokyo」をリリース。曲名により日本でのヒットは確実だったが他の国では全く売れなかった。続いてリリースされたダンス・ミュージック的要素を盛り込んだアルバム『Quiet Life』も、複数の批評家から評価を得たものの、UKチャートの上位に食い込むことはなかった(最高位72位)。

 

 

しかし、『Quiet Life』からは、Sylvianがバンドのアーティスティックな方向性の舵を取る比重が大きくなっていった。Japanは独自性を見極め、モダンで豪華に響く、美しいエレクトロニック・サウンドで音楽性を進化させた。ビジュアルもスタイリッシュなスーツ、細いネクタイ、手の込んだヘアスタイルへと変化した。しかし、Hansaは鳴かず飛ばずの状態だった彼らについに見切りをつけ、バンドはVirginへ移籍。そして1980年、有名な「世界で最も美しい男」という銘打ったプレス・キャンペーンと共に、初のトップ50入りを果たしたアルバム『Gentleman Take Polaroids』をリリースした。また、「ニューロマンティック」という括りに入れられたことも彼らには幸いした。Duran DuranがSylvianからの影響に触れ、彼のスタイルを真似し、プロデュースを依頼した。本人はこれを断ったが。

 

今作は、Sylvianの長年の友人で、後に数々の共作を発表することになる坂本龍一との、初のコラボレーション曲が収録されているという点でも大きな意味を持つ。2人は東京で、坂本がSylvianにインタビューを行うという日本の雑誌の企画を通じて出会った。2012年の『Guardian』紙のインタビューで、SylvianはRichard Vineに対し、「リュウイチには雑誌の企画のインタビューで出会い、仲良くなった。対談自体は酷いもので、どちらもあまり話さなかったが、マイクのスイッチを切った後に親しくなった」と話している。そのコラボレーション曲「Taking Islands in Africa」には独特の浮遊感と繊細さが備わっており、これがJapanの音楽的特徴のひとつとなっていく。

 

この頃、Japanは急速に日本以外でも知名度を高めていく。1981年になるとHansa時代の楽曲の再発やリミックスがチャートに食い込むようになり、Virginからの新規リリースと並行していたため、Japanのアイデンティティは新旧が入り混じる複雑なものになっていった。同時期にギターのRob Deanが、使い古された「音楽性の違い」を理由に脱退したが、バンドの音楽性の変遷を考えると、これはあながち嘘ではなかった可能性もある。こうして1981年にリリースされた5枚目のアルバム『Tin Drum』は初期作品群に表れていたバンドの特徴が結集し、バンドが遂にその潜在力を発揮した傑作となった。

 

 

この作品では以前に増してあからさまにアジアを意識しており、毛沢東の写真が張られた壁の前で、Sylvianが箸で茶碗の飯を食べる様子を写した『Tin Drum』のアートワークのみならず、内容にもそれが表れていた。収録曲「Visions of China」、「Cantonese boy」、「Canton」などは、モダンなエレクトロニクスとKarnのフレットレス・ベースを軸とするバンド独自のサウンドに、アジアの伝統的な要素とメロディーを効果的に融合している。非常にユニークで、忘れ難い作品となった。

 

このアルバムはゴールド・ディスクに認定され、英国のチャート史でも異例のエントリーとなった、バンドにとって唯一のトップ5ヒットを生み出した。そのシングル「Ghosts」は、ノンビートでミニマルなアンビエントに近い楽曲で、Sylvianが過去への嘆きをドラマティックに歌っている。これがその後のSylvianの音楽的試金石となり、2000年にリリースされたソロ作品集『Everything and Nothing』でヴォーカルを再録したヴァージョンが収録されるなど、Japan時代の作品で彼が唯一繰り返し立ち返る曲でもある。Sylvianは「Ghosts」の歌詞について、自分の感情を初めて盛り込んだと繰り返し語っている。

 

Stockhausenの影響を受けた「Ghosts」がチャートを駆け上がると同時に、リリースから数年経っていた失敗作とされていた過去の作品からもヒットが生まれるようになり、結果的にUKと極東でのツアーも大成功に終わったが、Japanには内部分裂という道しか残されていなかった。バンドの解散理由については、関係者全員が「関係ない」とし発言しているものの、バンド内には複雑な人間関係のもつれ、特にSylvian、Karn、そして日本人のフォトグラファー藤井ユカの三角関係があったと言われている。Simon Napier-Bellは、「藤井は当時Karnと暮らしていたが、 ある日Karnが目覚めると、藤井は向かいの家でSylvianと寝ていた」と述べている。

 

これはタブロイド紙を賑わせるのに十分な出来事だったが、既にバンドは解散する運命にあったのかもしれない。1999年にSylvianはSimmonsに、「『Ghosts』は私の道を切り開いてくれたが、Richard以外のバンド・メンバーはこの曲に興味を示さなかった」と話している。「SteveとMickはアップテンポな曲を作りたいと言っていた。私は『自分は先へ進む準備が出来ている。Mickは既にソロ作品に取り掛かっているし、もう止めた方がいいんじゃないか?』と思ったんだ。Japanが負担になってきた。ニュー・アルバムを制作しなければならいというプレッシャーが常にあった。また、私はツアーが嫌いだったが、バンド・メンバーはツアーを好んだ。だから私はすべてを手放して、どうなるのか様子を見てみよう思ったんだ。実際、私は音楽活動から完全に退く覚悟もできていた。」

 

 

こうして1982年にJapanは解散し、David Sylvianのキャリアは第2章に突入した。しかし、ポップスターになりたくないポップスターに何が出来ただろうか?Sylvianはある程度長い時間をかけて次の活動の準備を進めていく中で、坂本龍一に連絡を取ったことは驚くにあたらない。坂本龍一が在籍していたYellow Magic Orchestraは、Japanがエレクトロニック・ミュージックを取り入れる際に大きな影響を与えており、坂本龍一の感性は、Sylvianの新しい方向性に合っていた。発表されたシングル「Bamboo Houses」は『Tin Drum』の方向性が伺える、アジア的なメロディーにモダンなエレクトロニック・ミュージックを融合したものだったが、一方で、翌年にリリースされた、David Bowie出演映画『戦場のメリークリスマス』のサウンドトラックに収録された、オーケストラを用いた壮大な楽曲「Forbidden Colours」は、伝統的な美しさを湛えていた。この2曲は共にSylvianと坂本の相性の良さが伺えるもので、お互いの強力な友情と普遍的な感覚が生かされ両国でヒットを記録した。

 

その後、Sylvianのソロ・キャリアは、元ポップスターというステータスを拒否するかのように、意識的にアヴァンギャルドな方向に向かっていく。その過程においてもヒットは生まれ、1984年にリリースされた初のソロ・アルバム『Brilliant Trees』のファーストシングル「Red Guitar」はUKのチャートでトップ20に食い込み、アルバム自体も4位を記録した。しかし、Holger CzukayやJon Hassellらがゲスト参加していたこのアルバムはその後の方向性を指し示しており、彼のソロ・キャリアはここから自身の音楽的アイデンティティや充足を追求するためのものとなり、その答えを見つけるために世界中を探し回ることになった。こうしてJapan時代に着けていたマスクは外され、Sylvianも再びそれを着けるつもりはなかった。

 

Sylvianは断続的に過去の試金石に立ち返り、例えば坂本龍一とのコラボレーションも、『Brilliant Trees』から1987年の『Secrets of the Beehive』、1999年の『Dead Bees on a Cake』、そして2003年の連名シングル「World Citizen」EPまで続いたが、彼はより日本及び極東に傾倒し、ある種の精神的な支えを求めるようになっていった。Sylvianは、Russell Millsとの共作『Ember Glance』(東京、1990年)、Robert Frippとの共作『Redemption – Approaching Silence』(新宿、1994年)、『When Loud Weather Buffeted Naoshima』(直島)など、長年に渡り日本国内で数多くのアート・インスタレーションの展示も行っている他、自らが撮影した写真展も数多く開催している。あらゆる「スターダム」に居心地の悪さを感じるSylvianにとって、日本は自分が自分に戻れる場所だったのだ。

 

 

 『Dead Bees on a Cake』や『Gone To Earth』のような、チャート向きとは言えないアルバムをリリースしてきたSylvianは、2003年に自主レーベルSamadhi Soundを設立してからというもの、更に遠い地平へと向かっていく。2003年にリリースした『Blemish』は、アヴァンギャルド・シーンの著名なギタリストDerek Baileyと、エレクトロニクスの天才Christian Fenneszをゲストに迎え、Ingrid Chavezとの夫婦生活が崩壊していく中で制作された、贅肉を削ぎ落したかのようにシャープで極端に実験的なアルバムとなっている。荒涼としていて痛々しい、神経に触れるような楽曲が詰まった『Blemish』は、音で表現した心の傷であり、無視し難い作品だ。また、2009年にリリースした『Manafon』は3年間に渡ってウィーン、東京、ロンドンで行われた即興演奏をレコーディングしたもので、各都市で異なるミュージシャンが起用された。

 

なお、『Blemish』と『Manafon』は共に後にリミックス・アルバムがリリースされたが、これらには池田亮司、半野喜弘、浅野達彦、藤倉大といった日本のエクスペリメンタル・アーティストも多数起用された。SylvianはJapanというポップ・バンドからは数十年前に去ったものの、日本という国には音楽的なインスピレーションやコラボレーションのパートナーを求め続けている。

 

Sylvianは日本のカルチャーから受けた影響について、自身のウェブサイトdavidsylvian.comの中のテキスト「A Solitary Life」の中で次のように説明している。「日本のカルチャーは私の中に完全に浸透し、同化してしまっているので、どれだけ自分に影響を与えたのかを程度で表現するのは難しい。禅道、そして禅ほどではないにせよ神道からも少なからず影響を受けており、これらが私個人の進化を導き出してくれた。(日本の)ポップカルチャーの美しい技術と変化し続ける人々。個人に内在する男性らしさと女性らしさを等しく受け入れられるところ。そして長年に渡って培ってきた、日本人アーティスト、ミュージシャン、作曲家たちとの友情も私の心の中では大きな部分を占めている。自国では見つけられなかった同世代のコミュニティーを、日本では見つけることが出来た。」

 

 

そのきっかけとなったのが、「Ghosts」だったようだ。大きな転機となったこの曲を通じ、彼は欧米の同年代の仲間たちの多く —特にJapanのメンバーたち— は、自分と異なる感覚を持っていることに気づくことになった。これ以降、彼は自分の作品からポップソングの表層的な要素を排除していった。これは日本語で「良い変化」を意味する、「改善」という言葉を想起させる。あるプロセスの不要な部分を削ぎ落とし、効率を向上させるための連続的な改良を意味する。Sylvianは『BOMB Magazine』誌で、Keith Roweに次のように語っている。「80年代初頭から、私はポップソングのフォーマットの解体に興味を持っており、その構造を維持しながら、支柱を外そうとしていた。私の活動は常にひとつの問いに立ち返る。それは『親しみのあるかたち、それが判別出来る範囲で、どこまで枠組みを取り外すことが出来るのか?』というものだ。」

 

彼の試みはやがて、完全なる無音へと導くのだろうか?Sylvianがそこに意味を見い出せばそうなるだろう。その可能性は残されている。