七月 23

D1 Recordings:ダブリン発のテクノレーベル

テクノが根付いている都市としてのダブリンの認知度は低い。この都市のエレクトリックミュージックの歴史は、黄ばんだファンジンや、とうの昔に期限切れになったドメイン名の中に埋もれている。時折、細かく分かれたシーンが生まれるものの、その大半は国内でも国外でも認識されていない。夜間の公共交通機関が充実しておらず、アルコールのライセンス法の問題や利益重視のヴェニュー、そして非常に保守的なメディアなどがこの状況を継続させており、その結果、何十年にも渡り、若いアーティストたちがロンドン、ベルリン、ニューヨークへと流出し続けている。

By Ian Maleney

 

その中で例外的存在と言えるのがD1 Recordingsだ。D1は10年以上に渡り、アイルランド国内のアンダーグラウンドなエレクトロニックミュージックシーンの中で最もアクティブな活動をしたレーベルだった。D1は1994年から70枚以上のリリース、数百回のパーティーの開催、数店舗の経営、そしてダブリン史上最も冒険的なエレクトロニックミュージックフェスティバルの9度のオーガナイズなどを通じ、ありとあらゆる音楽系アーティストたちを惹きつけてきた。

 

それでも、今日ダブリン北部のアパートのキッチンテーブルに座っているD1の創設者Eamonn Doyleは現実的で、「D1を知っている人がどの程度いるのかわからない。ダンスミュージック好きの20代の若者は知らないと思う。俺たちの音楽を聴いたことがないだろうね」と評価する。

 

私とDoyleが話しているその部屋は、かつてDoyleが住んでいた147 Parnell Streetの駐車場だったスペースに建てられたアパートの最上階にある。D1 Recordingsはその147 Parnell Streetから1994年にスタートしたが、この建物との関係はそれよりも古い。「俺の両親は15歳位の頃、あの建物で出会った。そして父親があそこを買ったんだ。あの一画は寂れていて、建物が放置されていたからね。そして俺が90年代初頭に移り住んだ。当時あの通りには俺以外はもうひとりしか住んでいなかったよ」

 

147 Parnell Street

 

147 Parnell Streetのその建物は地上4階、地下1階で地上1階部分は店舗用になっていた。Doyleはその最上階に住み、1993年に周囲に助けられながら、Doyleと友人はコメディアンBrendan Graceのマネージャーからアイリッシュカントリー&ウェスタンのレコーディングスタジオの機材を貰い受けた。そしてその機材を地下に置き、Marc Carolan(現在Museや他のスタジアムロックバンドのエンジニアを務めている)が1日50ポンドでティーンたちの演奏をハーフインチテープに録音していった。尚、その中のいくつかは、Doyleが友人たちと共に立ち上げたインディーレーベルDead Elvisからリリースされている。

 

その後、ダブリンのクラブ黎明期において重要な位置づけにあったクラブのひとつ、Temple of SoundでのBilly ScurryのDJプレイを通じてハウスとテクノ出会ったDoyleは、地下のスタジオをエレクトリックミュージック用として使用することを思いつき、更にはテクノレーベルを立ち上げるという考えに至った。Doyleが当時を振り返る。「シーンに何が起きているか理解する前に立ち上げた。自分が何を好きなのかを理解する前にとりあえずスタートさせたんだ」

 

1994年6月、Doyleは地元のプロデューサー/DJのRob Rowlandと出会い、Rowlandはその後シンセとドラムマシンと共に147に移り住んだ。そしてスタジオでひと夏を過ごしたRowlandは、D1のファーストリリースとなる “Glocomm EP” を仕上げると、次々と作品を完成させ、D1の1枚目と2枚目を本人名義でリリースし、3枚目はDoyleの両親が経営する店で見つけたアーケードゲームから取られた別名義Bomb Jackとしてリリースした。そしてこの3枚に続いてリリースされたのがDonnacha Costelloの作品だった。

 

Donnacha Costello

 

CostelloはD1との出会いを次のように説明する。「1996年5月に俺のアパートに誰かがファッション誌を置いていった。そこにダブリンのテクノレーベルD1について書かれていたコラムが掲載されていた。俺はその1週間後にカセットに自分のトラックを詰め込んでD1の建物に向かい、それをEamonnとRobに聴かせた。その翌週に機材をD1のスタジオに持ち込んで、一緒に制作を始めたんだ」

 

またこの頃になると、DoyleはD1の名を冠したパーティーのオーガナイズをスタートさせた。このパーティーは毎週土曜日に開催され、結果的に10年以上続くことになった。Costelloが振り返る。「D1のパーティーには毎週遊びに行っていた。大人数のグループも来ていて、『クラブ』という言葉がぴったりだった。昔ながらの社交クラブにテクノとハウスを加えたようなものだった」

 

「客は音楽を聴きにクラブに来ていた。彼らはどんな音楽がプレイされるのかある程度分かっていたし、誰がプレイしているかは別に気にしていなかった」−Eamonn Doyle

このパーティーはSir John Rogerson QuayのヴェニューFunnelで1999年まで続き、その後10年以上に渡ってダブリン市内の各クラブを点々としたが、比較的小さ目のクラブで質の高いテクノを提供するというコンセプトは維持された。元々Underground Resistanceに影響を受けていた彼らは、Funnelの内部にカモフラージュネットを張り、天井を低くして暗い空間に変えていた。「ネットやカモフラージュが張り巡らされたクラブで、全身黒ずくめだった。写真撮影なんてなかったよ」パーティーを通じてD1と関係を築くようになったLerosaことLeopolda Rosaが振り返る。「本格的なミリタリー感があったね。したたる汗と激しいダンスのパーティーだった」

 

また、DoyleはグラスゴーのRubadubが立ち上げたClub 69の「当日オープンするまでゲストを明かさない」というポリシーを流用した。「客は音楽を聴きにクラブに来ていた。そして彼らは5、6人のレジデントがいて、新しいトラックをプレイしてくれることも知っていた。彼らはどんな音楽がプレイされるのかある程度分かっていたし、誰がプレイしているかは別に気にしていなかった」

 

パーティーではDoyle、Costello、Rowland、Scott Loganなどがレジデントとしてプレイしていたが、Carl CraigやLaurent Garnierなどインターナショナルなアーティストたちも時折プレイしており、 1999年にSwitchに場所を移してからは特にその機会が増えた。1996年にMark Broomが初のゲストとして迎えられ、後に彼はレーベルの10枚目をリリースも担当した(尚、RowlandやCostelloが関わっていない初の作品でもある)。その後も多くのDJがやってきては、プレイ後に数日ダブリンに留まり、スタジオで共同制作を行った。尚、Broomに関してはレコーディングをするためだけにロンドンからやってくることもあった。

 

D1 Studio, 1994

 

こうして、スタジオ、レーベル、クラブという3つの要素が絡み合うことで、D1には大きなエナジーが生まれていったが、Doyleは更に147にレコードショップの開くことを決め、最終的にはディストリビューターもスタートさせることにした。そしてDoyleはアドバイスを求めるためにUnderground ResistanceのMike Banksに電話を入れ、 彼に直接会うためにデトロイトへ向かった。

 

「音楽に対する考え方を直接的に理解できたのは大きかった。彼らは本当にアンダーグラウンドで、政治的な考えも持っていた。だが、それは『政治』ではなく、音楽における政治だった。俺たちはそこに共感したし、そこが気に入ったんだ」その後、開店と同時にクラシックなデトロイトのレコードがダブリンに初めて入荷された。「半年間は上手く行った」DoyleはParnell Streetに開いた1号店について振り返る。「みんながデトロイト系のバックカタログを掘り尽くすまではね」

 

やがて21世紀になると、Doyleは自分のフォーカスをシフトさせ始めた。まず、Decoy、Americhord、Devid Donohueなど、RowlandとCostelloに続く新しいアーティストたちのリリースを重ね、成熟しつつあったレーベルのサウンドの中心を第2世代へと移行させていった。そして何よりも大きかった変化は、Doyleが2001年にスタートさせたDEAF(Dublin Electronic Arts Festival)に大量の時間を割くようになっていったことだった。

 

DEAFは元々クラブミュージックにフォーカスしたイベントとしてスタートしたが、すぐにテクノの枠を越えた幅広い音楽を扱うようになっていく。2004年にはCoilがラストライブをCity Hallでプレイした他、レーベルが事実上活動休止中だったその1年後には、VillageでGalaxy2Galaxyがプレイし、Sugar ClubではCrash EnsembleがAlvin Lucierと共演を果たした。簡単に言ってしまえば、DEAFはアイルランド国内で開催されていた数々の特徴のないビッグフェスティバルの中で、冒険的な存在として注目されていたのだ。DEAFはこの方向性を保ち続け、 2009年に不景気を理由に芸術文化振興会からの財政的支援とスポンサー料がカットされるまで集客数を増やしながら、高みを目指し続けていった。その2009年に開催された最後のフェスティバルは過去最大規模となり、約1週間の日程でDavid Toop、Goldie、Aux 88、そしてアイルランドのエレクトロニックミュージックのほぼすべてのアーティストが出演する120以上のイベントが開催された。

 

 

この頃になると、D1の形態は大きく変わっていた。レコードショップは閉店し、ディストリビューターとしての活動も終わっていた。2005年、Doyleは他のディストリビューターからの売り上げ回収の失敗による経済的打撃に対抗しようと、1年間に渡ってデジタルリリースを試みたが、 この方向転換の直前にリリースされた最後のアナログレコードがLerosaのデビュー作 “Maike EP” だった。「僕のレコードがリリースされて、彼らのディストリビューターとしての活動が終わった。大きな何かが終わるような感じだった。Eamonnは興味を失っていたように思えた。彼は写真とフェスティバルにのめり込んでいた。レーベルを前に進めようという気持ちがあるようには思えなかった」

しかし、デジタルへの移行は長くは続かなかった。 「1、2枚リリースした後、面白くないと感じたんだ。なぜなら音楽はフィジカルなフォーマットと強く 結びついていた。レコードショップでレコードを買う、それをクラブでプレイするというフィジカルフォーマットの社会性を通じて面白いことが沢山起こっていた。だからデジタルへの移行で、俺が面白いと思っていた部分がすべて無くなってしまったように思えたんだ」Doyleが説明する。

 

Eamonn Doyle, D1 Record Shop, 1999

 

その後、レーベルはアナログでのリリースを復活させたが、リリースペースは不定期になり、音楽性もダンスフロアからは離れていった。2010年頃には、レコードショップが閉店し、パーティーも終わり、フェスティバルも休止しており、D1のダブリンにおける存在感は完全に消えていたため、散発的にリリースされた幅広い音楽性のリリース群ではかつての勢いを取り戻すことは不可能だった。

 

しかし、数年間の休止状態を終えた今、Doyleはレーベルが以前より活発になっていると感じていると言う。昨年DoyleはD1の活動の一環として自身の写真集『i』を発表しており、レーベルの正式な再始動も計画している。Doyleはレーベルの初期を特徴付けた「意図的なアンダーグラウンド感」に立ち返りたいと考えており、今後は少数のアナログレコードをレーベルで直販する予定だ。

 

「レコードを作りたいなら作ればいい。店を始めたいなら始めればいい。レーベルを始めたいなら作ればいい。ギグのプロモーションがしたいならやればいい」−Donnacha Costello

Rob Rowlandが147 Parnell Streetの地下に機材を運び込んでから20年を振り返れば、このレーベルがアイルランド産インディーテクノレーベルとしてしての可能性を追求し、成長していった姿に魅力を感じずにはいられないだろう。決して商業的な方向に傾かなかった彼らの熱意は人々に影響を与え続けた。彼らが登場するまで、アーティスト、プロデューサー、DJたちに必要なすべてを提供する家内工業のような中心的存在はダブリンのエレクトロニックミュージックにはなかった。彼らが今のダブリンに存在するレーベル、ショップ、クラブに与えた影響は計り知れない。

「俺たちがD1を始めた理由は、やっている奴がいなかったからさ。誰もレーベルをやっていなかった。俺たちが欲しいレコードを売っているレコードショップもなかったし、ディストリビューターもいなかった」Doyleは説明する。

 

Costelloが付け加える。「不可能なことなんて何もない – これが当時重要だった感覚のひとつだった。レコードを作りたいなら作ればいい。店を始めたいなら始めればいい。レーベルを始めたいなら作ればいい。ギグのプロモーションがしたいならやればいい。やりたいと思ったことは何でもやる - それが快感だった」

 

Doyleがまとめる。「D1は15年ほど続いた俺たちの人生だった。俺たちが語り合ったこと、やってきたことだった。俺たちにとってD1はすべてだったのさ」