三月 23

『ワイルド・スタイル』という時代

ヒップホップ黎明期を取り上げた伝説の映画を手掛けたCharlie Ahearnが、当時のニューヨークを振り返った2001年の貴重なロングインタビュー

By Bill Brewster

 

1983年3月18日、低予算で製作されたヒップホップ映画『ワイルド・スタイル』がホームビデオとしてリリースされた。そして、ニューヨークで生まれつつあったヒップホップシーンを初めて取り上げた作品として知られるこの映画は、すぐにブレイクダンサー、MC、DJ、そしてグラフィティアーティストを目指す世界中の若者の間で “マスト” として扱われることになった。

 

この映画を監督したアーティストのCharlie Ahearnは、1970年台後半からシーンを記録し始めていた。今回紹介するDJhistory.comのBill Brewsterとのインタビューの中で明かされているように、Ahearnはニューヨークのダウンタウン(マンハッタン南部)のアートシーンの最初期メンバーのひとりであり、当時の彼は定期的にブロンクスに向かい、このエリア内のクラブに顔を出しながら、そこで自分が手がけた8mm映画や写真を展示していた。

 

そして、1981年に入ると、Ahearnはニューヨークのアートシーンとヒップホップシーンを結びつける重要な役割を担ったFab Five Freddy、そして黎明期ヒップホップシーンに携わっていた様々なダンサーやアーティストの助けを借りて『ワイルド・スタイル』の撮影をスタートさせた。2001年にマンハッタンで収録された今回のインタビューでは、Ahernがパンクファンのアーティストからヒップホップのドキュメンタリー作家になるまでの経緯やヒップホップシーンのダウンタウンとの関係、『ワイルド・スタイル』の撮影秘話などについて語っている。

 

 

当時のグラフィティ、ラップ、ブレイクダンスはお互いに強く結びついていたというイメージがありますが、実際にそうだったのでしょうか?

 

その質問に対しての明確な回答はない。過去20年間、みんなが「そうだ」と言ってきたおかげで、今は「結びついていた」ということになっているが、別に構わない。カルチャーというのはそうやって生まれていくものだからね。カルチャーは自分たちで定義していくものだ。そういう意味では、「結びついていた」カルチャーは20年という長い時間存在しているということになるが、重要なのは、今はそれらがひとつのカルチャーとして扱われているということだ。当時はどの雑誌を読んでも「ヒップホップと呼ばれているカルチャーが存在する」などという文章を見つけることはできなかった。私はそういう雑誌を読んで「なるほど… じゃあ現地へ向かって撮影しよう」と思ったわけじゃない。それはあり得なかった。

 

では、どうやってシーンとの関わりを持ったのでしょう? クラブが好きだったからでしょうか? それともレコードを集めていたのでしょうか?

 

当時は誰も彼もがクラブに出入りしていた。1970年代の話だ。私はニューヨーク州の北部で育ち、1973年にニューヨークへ向かって、アートグループに参加したんだ。私はニューヨークのアートコミュニティのメンバーだったのさ。1970年代中頃のアートシーンには、アートギャラリーから飛び出して活動しようというムーブメントがあった。それで多くのアーティストがCBGBやMudd Clubをはじめとする、ダウンタウンの色々なクラブに出入りしていたんだ。

 

色々なクラブとは?

 

たとえば、The River Clubだ。その他にも小さなクラブがいくつも存在していた。アーティストたちはクラブでスライドや8mm映画を上映していたのさ。当時の私は、映像作家というよりはアーティストとして考えられていた。まぁ、実際は両方こなしていたがね。私もアーティストとしてクラブでスライドや8mm映画を上映していたのさ。

 

どのようなクラブだったのでしょう? ダンスクラブだったのでしょうか?

 

Studio 54には一度も行かなかった。私の中ではあそこは完全に違うクラブという位置づけだった。ディスコ的なクラブには一切興味がなかったんだ。当時の活動は、パンクシーンとアートシーンとクラブシーンが絡み合っているような内容だった。

 

GalleryやThe Loftのようなアンダーグラウンドなディスコクラブはどうでしょう?

 

どちらも行かなかった。Paradise Garageはのちに通うようになったが、通っていた理由はKeith Haringを知っていたからだ。上半身裸で踊るために通っていたわけじゃなかった。あそこは私のシーンじゃなかった。Keithがパーティをやる時に顔を出していただけさ。踊りたくて行くことはなかったね。夜明けまでクラブ遊びをすることに興味がなかった。

 

ヒップホップとの出会いは?

 

私はアーティストグループのCo Labに参加していたんだが、1980年にタイムズスクウェアにあったマッサージパーラーの跡地で大掛かりな展示をすることになった。Times Square Showというタイトルで、3部屋で映像を上映していたんだが、売春婦が出入りするエリアだった。壁にはアート作品が展示されていて、毎晩スライドショーやダンスなどのイベントが催されていた。建物全体を使った色々なイベントが用意されていたんだ。この展示の前、私は映像作家として3年間活動し、“外側” に活動拠点を得ようとしていたんだ。当時のアーティストは “外側” を探索しようとしていた。言い換えれば、アートギャラリーから離れようとしていたのさ。

 

私が興味を持っていた “外側” がゲットーだった。ブラックとプエルトリカンのカルチャーの中に活動拠点を作り、そこで映像作品のプロジェクトを進めたいと思っていたんだ。このカルチャーに興味を持っていたのは私だけじゃなかった。他にもそういう活動をしていたアーティストたちがいた。たとえば、私には双子の兄(John Ahearn)がいるんだが、彼はサウスブロンクスに20年住んでいる。

 

 

 

“1977年と1978年の2年間を通じて新作映画を展開する方法を試行錯誤していた。Andy WarholとThe Factoryのような形で展開したいと思っていた”

 

 

 

私はその頃、カンフー映画『The Deadly Art of Survival』を製作した。この映画にはブラックとプエルトリカンのキッズに出演していて、ヒップホップの要素も沢山詰まっていた。音楽的な意味のヒップホップがね。私は1977年と1978年の2年間を通じてその新作映画を展開する方法を試行錯誤した。Andy WarholとThe Factoryのように、ギャラリーとは完全に違う場所を使って展開したいと思っていた。それで『The Deadly Art of Survival』を1979年に完成させたあと、それを上映するために −

 

ブロンクスへ向かったんですね?

 

いや、最初はロウアーイーストサイドに通っていたんだ。それが最終的にブロンクスになった。ブラックとプエルトリカンのキッズをパフォーマーとして引き連れてね。8mmの映写機を持ち込んで『The Deadly Art of Survival』を上映し、キッズがそこでライブパフォーマンスをした。フィルムはオリジナルの1本しかなかったので、それを色々な場所に持ち込んでは上映していたんだ。現地でパンフレットを配りながらね。そういうプロジェクトだった。

 

グラフィティのムーブメントが起きていることは知っていた。当時はヒップホップなんて言葉は存在していなかった。決まった名称はなかった。連中はシンプルにMCパーティと呼んでいた。ロウアーイーストサイドでは、壁に沢山の絵が描かれていたんだが、その全てを手がけていたのがLee Quinoñesだった。私は彼のことを心から尊敬していたので、何か一緒にやりたいと思っていたんだが、彼を捕まえるのは難しかった。アンダーグラウンドなピカソのような存在だった。12歳~14歳くらいのあらゆるキッズが彼をアーティストとしてリスペクトしていたのには感服したよ。アートギャラリーの連中は彼の存在すら知らなかったが、ストリートレベルでは誰もが知っていた。そこに興味を持ったんだ。

 

1980年の夏、私が自分のカンフー映画を上映している場所にFab Five Freddyがやってきた。彼には「お前のことをずっと探してたぜ。てっきりブラックと思ってたけどな」と言われたよ。彼は私と組んで映画を作りたいと思っていたんだ。そして、そのまま話を続けているうちに私がLee Quinoñesに興味を持っていることを知った彼は「Leeのことなら知ってるぜ。一緒に活動しているし、仲が良いんだ。明日連れてきてやるよ」と言ってきた。それで私は「Leeを連れてきてくれるなら50ドル払う。壁に大きな作品を書いてくれ」と頼んだ。それで翌日になると、Leeが本当にやってきたのさ。それでみんなで話をして、一緒に映画を作ることになった。1980年6月の話だ。

 

7月になる頃には、Fredと私はジャムに出向くようになっていた。最初に向かったジャムは、ノースブロンクスのThe Valleyというエリアで行われていた。そこは真っ暗闇の公園だった。夜中の1時に公園の中央から爆音の音楽が聴こえた。私たちはDJを中心に集まっている人影に向かっていった。すると、コンクリートのオーバル型の小さな広場でパフォーマンスが行われていた。大観衆が集まっていた。それで私はDJの方へ近づこうとしたんだ。

 

すると、ある男にじっと見られた。あとで話をして分かったんだが、ジョイントを持っていたから、私を警官だと思って焦っていたらしい。男は「何しに来たんだ?」と言ってきた。それで私が「映画のプロデューサーだ。ラップシーンをテーマにした映画を作りたいんだ」と説明すると、男が私の手を掴んでステージに上げたんだ。それがBusy Beeだった。彼は『ワイルド・スタイル』には全編を通じて出演している。Busy Beeは私の肩に手を回すと、「こいつはCharlie Ahearnだ。映画プロデューサーで、ラップシーンをテーマにした映画を俺たちと作るんだ」と紹介したんだ。

 

あっという間の出来事だった。当時の連中は全員がそんな感じだった。ハングリーだったのさ。当時のヒップホップに関わっていた全員がその場にいた。だから私がステージを降りると次々と紹介された。当時のアンダーグラウンドはそういう感じだったんだ。あっという間に取り囲まれて、みんなから参加したいと言われた。いちいちマネージャーを通す必要はなかった。全員がその場に集まっていたからね。

 

その時のDJは?

 

公園でDJをしていたのはBreakoutとBaronだ。Funky 4(のちのFunky 4 +1)もいた。写真を撮ったから良く覚えている。Grand Wizard TheodoreとDJ Charlie Chaseもいたと思うが、はっきりとは覚えていない。あの日は基本的にMCの連中と話していたからね。この日以来、私は毎週末2~3軒のクラブを回るようになったんだ。

 

どこに通っていたのでしょう?

 

ブロンクスのあらゆるクラブだ。一番良く通っていたのはJerome Avenueと180th Streetの交差点付近にあったEcstasy Garageだった。Jerome Avenueの西側だ。チープなクラブだったから私は気に入っていた。安かったから、客の大半はティーンエイジャーで、スニーカーを履いてOlde Englishを飲んでいた。このクラブでメインDJを担当していたのがGrand Wizard TheodoreとDJ AJだった。言わせてもらうが、あそこの音楽のクオリティは世界最高だったよ。出入りし始めた頃の私は、エントランス2ドルでニューヨークのベストミュージックが楽しめる極上の空間だと感じていた。このクラブの存在を当時は誰も知らなかった。もちろん、ローカルの連中は全員知っていたがね。

 

彼らは自分たちが何を生み出しているのか理解していたのでしょうか? 外部の人間が「凄い」と評価することで自分たちの実力に気づくという展開は良くありますよね。

 

私もただただ「凄い!」と思っていた。だから店内にいる全員の写真を撮影した。そのあとで、スライドのプロジェクターを持ち込んで、DJブースの裏に布を貼り、前の週に撮影した写真を映したのさ。あれが私のキャリアの礎になったんだ。あれが仕事を持ってきてくれたんだ。そして、実力をアピールしたい連中が私のところへ来るようになった。私が撮影して次の週にプロジェクターで映し出せば人気者になれたんだ。

 

ホワイトはあなただけでしたか?

 

私しかいなかったが、ホワイトかどうかは問題じゃなかった。

 

 

 

“ヒップホップシーンは外側の連中には知られていなかった。私が始めるまで一切記録されていなかった”

 

 

 

ですが、米国はそういう問題が根強い国ですよね。

 

ホワイトというのは、文化的差異を大まかにまとめる時に使う言葉だ。たとえば、Mudd Clubへ行けば、Jean-Michel Basquiatがフロアで行き場をなくしていた。あそこは私に言わせれば “ホワイト” だ。私が言いたいのは、ヒップホップは外側の連中には一切知られていなかったということだ。その外側を “ホワイト” と呼びたければ、そう呼べばいい。当時、あのシーンを撮影した人は誰もいなかった。私が撮影した写真しか残っていない。世間は他にもないか20年探し回っているがね。私が始めるまで、あのシーンは一切記録されていなかった。もちろん、私が出入りする何年も前からシーンは存在していた。だから、私が何かを「新発見した」わけじゃない。連中はずっと続けていたんだ。私はそのシーンの大ファンだっただけさ。

 

私はアートシーンにいたので、エクスペリメンタル・ミュージックがアートシーンの中でリスペクトされていることは知っていたが、私の中では、ヒップホップこそハイレベルなエクスペリメンタル・ミュージックだった。彼らは音楽の天才軍団という位置づけだった。Grand Wizard Theodoreのカッティングはまるでジャズのようなハイカルチャーだった。実験性を極めている存在があるとすれば、このシーンがそれだった。私は本気でのめり込んだよ。

 

当時プレイされていたトラックを覚えていますか? トラック名をいくつか挙げてください。

 

「Rocket in the Pocket」はお気に入りのひとつだった。Theodoreは “Rocket in the Pocket” のフレーズをカッティングしたあと、唸るドローンベースを入れ込んできた。それで危険なムードを生み出していた。私たちはそういうフィーリングを欲していた。その場に自分がいることを、そこに漂うフィーリングと共に味わいたかった。危険な場所にいるってことを感じたかったんだ。クラブの中は怪しかった。なぜから、誰もがトガっていたからさ。私は音楽でそのムードを表現するDJプレイが好きだった。みんながみんな、 “Be-Bop Hip-Hop” な感じで楽しんでいたわけじゃない。連中はちゃんと理解していた。音楽を通じて自分たちを表現していた。ミックスすることでアンダーグラウンドらしい、ワルくて怪しいフィーリングを強調していたんだ。

 

 

 

あとは、New York Community Choirが “Women are producin’, Men are workin’, Some are stealin’” と歌っているトラックも好きだった。このトラックがプレイされると鳥肌が立ったものさ。「Heartbeat」も良くプレイされていて、MCがラップを重ねていた。もちろん、他にも「Apache」を含めて色々なトラックがプレイされていた。DJたちはどのトラックでもカッティングをしていた。

 

私はTheodoreのプレイが特に気に入っていて、まるでカーネギーホールにいるような気持ちで何時間も聴き入っていた。最高に幸せだったよ。MCのラップを聴くのも好きだったが、私が好んでいたのはDJプレイだった。

 

Theodoreを気に入っていた理由は?

 

もちろん、他のDJも良かったが、Theodoreの選曲と組み合わせはビートに調和していた。ビートに唸るドローンベースを重ねるのは今やDJの常套テクニックになっている。Charlie Chase、Tony Tone、Cold Crush Brothersもよく聴いていた。ハウスDJのMean Geneも好きだった。

 

Ecstasy Garageでプレイを聴いていたんですよね?

 

そうだ。あとはT-Connectionにもよく通っていた。とはいえ、あれから20年以上が経っていて頭の中の情報が色々と変化しているから、確かなことは言えない。たとえば、Kool Hercのスライドが1枚あるが、そのスライドに書かれている私のメモは「Kool Hurt」になっている。当時は自分が知りたかった情報を違う形で吹き込んでくる連中がいたし、私も映画撮影を通じて多くの関係者にインタビューしたから、情報が錯綜していたということは理解しておく必要がある。インタビューに5年間を費やし、その作業を通じて、たとえば、63 Park(編注:ジャムが頻繁に行われていたブロンクス内の校庭)など、新しい情報を数多く集めていった。実際に彼らと話をしなければこのような情報は得られない。だから、DJが何をプレイしていたのかも常にチェックしようとしていたが、中々教えてくれなかったので難しかった。

 

特定のトラックに関する正しい情報を得るために対価を支払った時もあったのでは?

 

もちろん、そういう時もあった。情報収集に関しては、世間が興味を持ち出し始めた頃がなんとも面白いシチュエーションだったことを覚えているよ。1981年、1982年頃になると、メディアが突然興味を持つようになったんだ。『ワイルド・スタイル』のオフィスへ行けば、Fredが別部屋でインタビューを受けている声がいつも聞こえていた。彼は全てを知っていたからね。

 

『ワイルド・スタイル』の撮影を始めたのはいつですか?

 

1981年の秋に撮影したんだが、クラブのシーンは撮り直すことになった。なぜなら、私たちはTony Toneのサウンドシステムを使っていたんだが − 彼はナイスガイなんだが − そのCold Crushと呼ばれていたサウンドシステムは、過度に調整されていて最悪のサウンドだった。だから、プロ仕様のサウンドシステムを借りて撮り直した。音楽が入っている全てのシーンをね。だが、逆に良かったと思っている。おかげで映画のクオリティが高まったからね。広場のシーンも2回撮影した。1回目の撮影ではステージにThe Furious Fiveがステージに上っていた。

 

 

 

Grandmaster Flashとの出会いはどのように? 最初はどこで出会ったのでしょう?

 

Grandmaster Flashは私とは完全に違うルートで活動していた。私はシーンの最下層にいて、Ecstasy GarageやT-Connectionのようなクラブに出入りしていた。ストリートレベルの活動に興味を持っていたんだ。だが、当時のGrandmaster Flashはすでにレコード会社と契約していて、ツアーに出始めていた。私が出入りしているようなクラブでは活動していなかったんだ。彼がプレイしていたDisco Feverには数回顔を出したが、あそこのバイブスはもっとヘヴィだった。セレブがいて、コカインも派手に回っていた。

 

純粋さに欠けていたと。

 

欠けていたね。Ecstasy Garageは自分のホームだと感じることができた。

 

ローカルな感覚があったわけですね?

 

あそこは完全にローカルなクラブだった。私はあそこに毎晩集まっていた、まだ誰も存在を知らない15歳の天才たちに惹かれていたんだ。最近のDJに話を聞けば、誰もがGrandmaster Flashをシーン最高のDJのひとりとして名前を挙げるだろう。私も彼を尊敬しているし、私のお気に入りのDJだ。選曲は素晴らしいし、カッティングもクリエイティブでエクスペリメンタルだ。「The Adventures of Grandmaster Flash On The Wheels Of Steel」は、彼のDJプレイを表現している好例だろう。DJでもああいうブレイクを頻繁に披露していた。だが、彼の姿を見かけることはほとんどなかった。The Furious Fiveが彼と一緒にツアーに出た時、私は「君たちもスターになっちまったんだな」と思った。一方で、私には私のスターがいた。The Cold Crush BrothersやThe Fantastic Fiveなどは、連中のアパートへ行って一緒の時間を過ごせる仲だった。だが、The Furious Fiveは −

 

 

 

ネクストレベルの存在になっていたんですね。

 

そうだ。仲は良かったが、一緒にいて居心地が悪かった。結果的に、私が一緒にいた連中が正式なレコード契約を得ることはなかったが、私に言わせれば、『ワイルド・スタイル』が彼らにとっての正式な作品だ。当時の彼らのサウンドがどうだったのか、そのサウンドがいかに素晴らしかったのかは映画の中に残されている。当時の私はその重要性に気付いていなかったから、当時の音源はほとんど残っていない。もちろん、Enjoy RecordsからGrandmaster Flash & The Furious Fiveがリリースした「Superrappin’」は気に入っているよ。最高の作品だ。

 

 

 

“当時DJは終わりを迎えていた。MCがレコード会社から大金をもらって作品をリリースするようになっていたが、レコード会社はDJとは契約さえしたがらなかった”

 

 

 

ですが、そのような作品はヒップホップのDJプレイを再現したものですよね。バックはDJプレイではなく、バンドの演奏になっています。

 

その通り。まず言っておきたいのは、当時はもうDJがいなかったということだ。ひとりもいなかったんだ。こういう話をするのは気が進まないが − 今の私は当時知らなかった余計なことを知っているからね − 真面目な話、当時DJは終わりを迎えていた。MCがレコード会社から大金をもらって作品をリリースするようになっていたが、レコード会社はDJとは契約さえしたがらなかった。線を引いて時代を区切るのなら、それは1980年になる。私がシーンに関わり始めたのはこの年からだが、オールドスクールは最後を迎えていた。Enjoy RecordsやSugar Hill Recordsが加わるようになってからはMCがスターになり、DJは重要な存在ではなくなった。これは間違いない事実だ。「ヒップホップとは何か?」 − 私に言わせれば、その答えはDJの音楽、ダンスフロアで踊るための音楽だ。MCはダンスフロアを盛り上げるための存在だった。

 

MCの台頭は必然だったと思いますか?

 

第2次世界対戦が必然だったと思うかい? それと同じで私には分からないね! 音楽業界の仕組みが一因になったとは思う。私たちは資本主義社会に生きている。私たちは自分の好きなように生きられるが、その生活はパッケージして売られている商品によって支えられている。ダンスは売り物にならない。グラフィティも売り物にならない。DJプレイも売り物にならない。なぜなら、どれもライブパフォーマンスでパッケージ化できないからだ。そういう意味では、MCの台頭は必然だったんだろう。だが、オールドスクール全体がファッションとして復活したのは必然だったのかな? 私には分からない。

 

『ワイルド・スタイル』はゲリラ方式で撮影したのでしょうか? ドキュメンタリー映画的なアプローチが随所に見られますよね。

 

私はポップな作品にしたかったんだ。ドキュメンタリーとして記録すべきだということは分かっていたが、ドキュメンタリー映画にするのは嫌だったので、ヒップホップシーンを取り上げながらポップな作品にするにはどうすれば良いのかということを考えた。当時、私はBruce Leeの作品が一番好きだった。42nd Street(編注:42丁目。劇場街の中央を通る大通り)へ行くたびにカンフー映画を観ていたんだ。だから、私は自分の好きなことをベースに撮影しようと思った。それで歴史的考察は取り入れなかった。その瞬間に起きていることを漫画みたいに表現しようと思ったのさ。

 

世間の反応はどうでしたか?

 

1981年に撮影して、1982年に完成したあと、1983年から1984年にかけて世の中に出回ったんだ。1984年頃、オールドスクールはほぼ終わっていた。Run DMCが台頭し始めた頃で、ある意味、撮影当時の輝きは失われていた。キッズはフレッシュなものを求めていた。歴史の授業なんて求めていなかった。世間は今その瞬間に起きていることを欲しがるものだが、『ワイルド・スタイル』は撮影から2年も経って世に出た。しかも、私たちは1970年代の雰囲気を打ち出そうとしていた。ファットなビートや地下鉄のグラフィティなどをね。

 

ヒップホップ映画が儲かり始めたのはいつですか?

 

『ビート・ストリート』からだ。あの映画は1982年に企画が立ち上がり、1983年に撮影して、1984年に公開された。スピーディだった。私たちはこの映画のライバルという位置づけだった。私が『ワイルド・スタイル』をもう少し早く公開していたら、世間はどう扱って良いか分からなかっただろうね。この映画はどこにも属していなかった。むしろ、ドキュメンタリーの部類に近かった。だが、私はタイムズスクウェア周辺で1ヶ月上映して、あらゆる興行収入記録を更新したいと思っていた。

 

『ワイルド・スタイル』で収益は得られましたか?

 

1998年になるまで元が取れなかった。

 

アートシーンが当時のシーンに関わり始めてからのアップタウン(ニューヨーク市北部:ヒップホップではブロンクス周辺を指す)とダウンタウンの関係はどうだったのでしょう? たとえば、Africa Bambaataaはパンクやニューウェーブシーン、特にThe Roxy(ダウンタウンのクラブ)周辺のシーンに影響を受けたようですが。

 

Africa BambaataaはThe Roxyを初めて訪れた時にかなり驚いていた。なぜなら、彼がThe Cosmic Forceとリリースした「Zulu Nation Throwdown」をプレイするとフロアがクレイジーに盛り上がったからさ。ブロンクスではそういう反応はなかった。だから、彼は自分を好意的に受け入れてくれたThe Roxy周辺のニューウェーブシーンが気に入ったんだろう。だが、真実を言えば、ニューウェーブシーンは色々なタイプのアーティストを受け入れていた。単純にヒップホップシーンのアーティストがプレイするチャンスが少なかったからフレッシュだったんだ。

 

 

 

Africa Bambaataaは非常に賢い人物だった。まず言っておきたいのは、彼はロックの大ファンだったということだ。彼は常にロックビートをプレイしていた。一般的なロックビートじゃないがね。彼はユニバーサルな存在で、ユニバーサルなカルチャーを好んでいた。だから彼が「お前はホワイトだから理解できない」などと言うことはなかった。彼はあらゆる音楽を受け入れていた。自分が何かを感じられる音楽は全て “グッドミュージック” として扱っていた。だから、Mudd Clubの連中も声を掛けたんだろう。その後、彼はKraftwerkの「Trans-Europe Express」をサンプリングした「Planet Rock」をリリースしたが、あのトラックは思い切りホワイトなサウンドだった。究極のホワイトトラックで、ホワイト以上にホワイトだったが、あのトラックは彼のキャリア最大のヒットになった。それで彼はあの方向に進むことにしたんだろう。だが、Debbie Harry(Blondie)がその時にThe Roxyにいたという事実は、Africa Bambaataaのプレイ同様に素晴らしかった。あの2人が同じ場所にいるというのは実にマジカルだった。

 

それは何年の話ですか?

 

おそらく1981年だろう。「Rapture」がリリースされ、ラジオでDebbieが「Flash is fast, Flash is cool」とラップしているのを聴いて、誰もが「Flashって誰だ?」、「Fab Five Freddyって誰だ?」と言い始めた直後だったと思う。「Rapture」はナンバーワンヒットだったので、どこでもプレイされていた。

 

当時は、Club Negrilのようなクラブへ行けばDavid Byrne(Talking Heads)がBボーイと話していた。あらゆるタイプの人間が出入りしていた。女装家もいれば、フロアの隅でマリファナを吸っているブロンクス出身の奴もいた。全てが自然でエキサイティングだった。私はそういうClub Negrilが好きだった。あそこを嫌いだった人はいないはずだ。

 

Club Negrilはあらゆるファンタジーが現実になる場所だった。あそこでは誰もがあらゆるものを融合したいと思っていたからだ。Club Negrilがのちに名前を変えてThe Roxyになったわけだが、当時のClub Negrilはプライベートパーティのリビングルームにいるような感覚だった。非常に小さなクラブで、私はそこでスライドショーを行っていた。Club Negrilに行く時はほぼ必ずスライドショーを行っていたはずだ。自分をあの場所の一部のように感じていた。知っての通り、あのクラブはKool Lady BlueとMichael Holmanが経営していたわけだが、私も関係者の気分だった。常に映画の撮影中のようなエキサイティングな雰囲気があった。誰もが「次は何が起きるんだ?」と期待していたんだ。

 

Club Negrilはブラックとホワイト、ロックとR&Bなど、異なる要素を融合しようとしていたのでしょうか?

 

そうだ。当時はホワイトがブロンクスのクラブやFashion Modaに出向くようになっていた。彼らはパンクシーンと呼ばれていたが、実際はクラブシーン、もしくはアートシーンだった。ブロンクスの連中が外へ向かおうとしていると、突然ブロンクスに人が流れ込んでくるようになったというわけさ。グラフィティシーンに参加するクイーンズ(ブロンクスの東南に位置するエリア)出身の奴や、「あの子のパンツの中に手を突っ込んでいい?」と言ってくる失礼な奴、または「あそこのロックスターとコカインをキメてくるぜ!」と豪語する奴がいきなり出てくるようになった。もちろん、私たちがブロンクスへ行くのと同じくらい、ブロンクスの連中もダウンタウンへ行くのを楽しんでいた。オープンな時代だったんだ。

 

The Roxyがその動きの直接的なきっかけだったわけではないが、あのクラブにそういう良さがあったことは確かだ。The Roxyは、Club Negrilのようなリビングルームの雰囲気はなく、飛行場のハンガーのような雰囲気だったが、1,000人の異なる連中が一緒に楽しんでいた。その様子を見て、世界は変わったと一瞬思うわけだ。あのクラブはゲイ、ブラック、パンクスが入り混じっていた。誰もが − 少なくとも私は − その様子を正しいと感じていた。あそこでは誰もがお互いをリスペクトしていた。ホワイトが他のカルチャーとそのアイディアをリスペクトしていた。ブロンクスのキッズは、それまでこの手の場所に出向くことはなかった。恐れていたんだ。私がRodney Cを初めてクラブへ連れて行った時も、彼はあとで私にレザージャケットを着ている連中が怖かったと言ってきた。パンクスに殴られると思っていたんだ。だから私は言ったんだ。「冗談言うなよ。あいつらはゲイだぞ!」とね。言い換えれば、みんな分かっていなかったんだ。だが、そういう時代は続かなかった。

 

何年続いたのでしょう?

 

2年だけだ。1985年が終わる頃にはその雰囲気はなくなっていた。グラフィティは “恥” として扱われるようになっていた。ブレイクダンサーも同じだった。ディスコは元のゲイクラブへと戻っていった。ホワイトのパンクスも元の場所へ戻っていった。ブラックのMCはブラックのためだけにパフォーマンスをするようになり、危険な存在に扱われて会場からパフォーマンスを拒否される時もあった。別にノスタルジックになるつもりはないが、1985年までにほとんどが終わっていた。少なくとも当時のあの勢いはなくなっていた。

 

The Roxy時代で記憶に強く残っていることは?

 

あそこには小さなVIPラウンジがあって、そこに出入りできるかどうかというのがひとつの価値になっていた。私はVIPラウンジに出入りできたが、それを鼻にかけるつもりはなかったから少し奇妙な気分だった。実際、私はフロアで過ごす時間の方が長かった。VIPラウンジへ行けばイタリア出身の有名なアーティストFrancesco Clementeがいて、彼はFav Five Freddyと仲が良かった。2人はVIPラウンジの中でも特に有名なグループに属していた。そしてもちろん、VIPラウンジに入るための争いが常に存在していた。

 

店の外には人が列を作って待っていたが、Studio 54とは違い、ちゃんと店内に入れた。店内のフロアではブレイクダンサーの輪が8つほど出来上がっていた。中は暑く、何でも手に入れることができた。ホワイトの男性がブラックの女性を持ち帰り、プエルトリカンの男性がブロンドの女性を持ち帰っていた。様々な人種が出入りしていて、全員がそれをエキサイティングに感じていた。あそこではTrouble Funkがプレイしていたのを覚えているが、Africa BambaataaがいつもワシントンDCの音楽、ゴーゴーをプレイしていたことも覚えている。私はあの音楽が好きだった。

 

The Roxyで目立っていたDJは? DS.T(Grand Mixer DXT)はどうでしたか?

 

彼もプレイしていたよ。私たちが日本を訪れた時、別の仕事で彼も日本に来ていて、空港で会ったんだ。当時の彼は「Rockit」に参加した直後で、人気が急速に高まっている頃だった。彼は元々DJで、有り難いことに『ワイルド・スタイル』ではChicの楽曲をカッティングしてくれている。でも、顔は映さないでくれと頼まれたんだ。

 

なぜですか?

 

彼は面白い男なんだ。理由はよく分からない。実際、『ワイルド・スタイル』の最後で素晴らしい盛り上がりを生み出してくれているのがDS.Tだということを知っている人は少ない。彼はTheodoreやFlashと同レベルだった。ジャズミュージシャンのようなハイレベルなアーティストで、自分の内面を見つめられる人物だった。

 

 

※このインタビューは2001年にマンハッタンで収録されたものです。

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