十一月 04

Capital Frequencies:90年代パリのアンダーグラウンドラジオ

RBMA PARIS 特集 PART6:90年代のパリを多種多様な音楽で彩ったアンダーグラウンドラジオの歴史

By Etienne Menu

 

かつての音楽は、今ほど良くなかった。沢山の曲をひたすら試聴し、常に新しいアーティストを自ら発掘し、その都度メモに書き記しては仲間と情報交換をする。良い音楽に巡り会うためには、現代では考えられないほどの面倒な作業を重ねなければならなかったのだが、「昔は良かった」と逆の意見を持っている人が多いのは残念だ。しかし、それは自分が今享受しているものを軽視しているがゆえの言い逃れにすぎない。つまり、「昔は決して良くなかった」という意見は、状況が現在進行形で良くなってきたことを意味する。

 

2015年の現代に生きる音楽愛好家たちにとって、そのような「現在進行形」の状態は過去10年から15年に渡りずっと続いている。知っての通り、インターネットのおかげでいまでは誰もがあらゆる情報に対してアクセスできる環境が開かれている。現代ではミュージシャンの層もぐっと厚くなり、より自立して活動している。更には、現行のシーンだけでなく、過去から蓄積された膨大な音楽のアーカイブともより簡単に繋がれる。これはレアなヴァイナルが幅を利かせた時代への反動であり、ごく限られた一部の人々だけがより濃密な音楽体験を独占できたスノッブな状況を無意味化するものだ。おそらくファンタジーやサプライズに満ちているという点では、こうしたかつて見られた閉鎖的で独占的な音楽体験の方がより豊かだったのかもしれないが、それがより優れた、より美しい音楽体験だったわけではない。

 

 

 

"90年代後半に入る頃になると、パリ市内でラジオのチューナー・ダイヤルをひとたび回せば、目眩がするほどおびただしい数のアンダーグラウンドラジオが聴けた"

 

 

 

しかし、「過去」が「現在進行形の今」と完全に違ったわけではない。また、インターネット登場以前に多くの音楽ファンが新しい音楽に触れることを可能にした、ある重要なファクターを無視することもできないだろう。それはすなわち、アンダーグラウンドラジオの存在だ。この放送形態は市井のアマチュアたちのコミュニティから発生し、もちろん誰もが無料で聴取できた。当時世界中のあらゆる場所で盛り上がりを見せたこのムーブメントだったが、フランス国内でも各地域にひとつかそれ以上の数のアンダーグラウンドラジオが存在していた。ボルドーではSauvagine、トゥールではRadio Béton、サヴォワではEllébore、マルセイユではGrenouille、東部県域およびスイスではCouleur 3といった具合に、ここでは到底すべてをリストアップしきれないほど数多くのアンダーグラウンドラジオ局がフランス国内に乱立していた。

 

90年代後半に入る頃になると、パリ市内でラジオのチューナー・ダイヤルをひとたび回せば、目眩がするほどおびただしい数のアンダーグラウンドラジオが聴けた。とりわけ夜の早い時間帯や週末ともなれば、様々な周波数が飛び交い混沌とした様相を呈していた。周波数98.2のFGはもともとゲイコミュニティに特化した局として生まれたが、徐々に対象とするオーディエンスの層を広げていった。毎日放送されていた「The Happy Hour」という番組では、フランスをはじめ海外からもエレクトロニック・ミュージックのアーティストたちを招き、新旧問わずあらゆる音楽を流していた。

 

DJ Deep & Julien Pabion @ Radio Nova

 

多彩なゲストDJが招かれて毎夜プレイしながら、その間を繋ぐレギュラーDJ陣も一定のクオリティの高さを保っていたFGの放送内容は、現代の無力化したFMラジオ局の惨状からは想像もできないほどの充実ぶりだった。平日やランチタイムにはDJ Deep、DJ Gregory、Alex from Tokyoといった面々がディープハウスを届け、日曜の午後の微睡みにはSven LoveとGreg Gauthierがガラージをプレイし、その後夜にかけてはHometownやRangerz CrewがシカゴハウスとUKガラージを2時間たっぷりプレイした。またその一方ではPatrick Vidalがバレアリック・ビーツをプレイし、今をときめく億万長者Bob Sinclairがディスコ&ハウス・ショーを展開していた。

 

また、周波数88.2のGénérationsでは、当時隆盛していたフレンチラップ・シーンに特化した「Original Bombattak」というプログラムを毎日放送していた。この番組にはTimeBomb、113、Mafia Trece、Fonky Family、ATK、La Brigade、Busta Flexをはじめとしたフランスのヒップホップ・アーティストが数多く出演した。Lorent、Bronco、FabをはじめとしたレギュラーDJ陣はそれぞれ毎週の帯番組を持ち、80年代~90年代のR&Bからジャズファンク、Fondle’emやProject Blowedといった米国産の当時最先端のアンダーグラウンド・ヒップホップをプレイした。

 

他のアンダーグラウンドラジオ局はよりロック中心の放送内容でありながら、権威的な背景を排除してリスナーの知識欲を刺激するような番組群を展開していた。なかでも、Aligre FMは、月曜の「Songs of Praise」ではノイズロック~フリーロックといったアウトサイダー的なロックを、水曜の「Planète Claire」ではFrance InterのBernard Lenoir(訳注:フランスの公共ラジオ局の大御所プレゼンター)などがまずオンエアしないはずのインディーロックを、そして金曜の「Helter Skelter」ではポストロックやネオサイケから、WarpやMegoといったレーベルのエレクトロニック・ミュージックまで… といった具合に刺激的な番組を週3回も放送していた。また、周波数106.3のFPPというラジオ局は多彩なラップの選曲が売りだったが、なかでもロック、ハウスからヒップホップまであらゆるジャンルを横断した折衷ぶりで今でも筆者の心に深く刻まれている、ある番組があった。それは「Mondial Twist」という番組で、当時の私は自分以外にこの番組を聴いている数奇者などいないはずだと思い込んでいた。

 

そして、Radio Novaについても触れておかねばなるまい。あらゆるジャンルを詰め込んだ番組編成をポリシーとするこの局は、ある午後の時間帯だけをとってみてもサルサからテクノ、レゲエからニューウェーブまで瞬く間に多様なジャンルを横断していた。その多彩さに負けず劣らず、レギュラーDJ陣や招かれるゲストDJ陣も実に幅広く、同じハウストラックがプレイされてもFGとNovaではそれぞれ聴こえ方がまったく違うほどだった。ヒップホップにおいてもそれは全く同様で、NovaでDJ Gilb'rが、GénérationsでDj Fabがそれぞれ同じ曲をプレイしてもまったく違うものに聴こえたものだ。かといって、別にNovaがFGやGénérationsと比べて優れているという話ではない。おそらく、ただ単にそれぞれの局で起こる固有の「ハプニング性」が異なっていたということだろう。曲ごとの説明もそこそこに、ローラーコースターのごとく目まぐるしくジャンルが切り替わっていくNovaよりも、FGやGénérationsで2時間たっぷりとハウスなりヒップホップなりを楽しんで、番組の最後に紹介される選曲リストを入念にチェックするほうがしっくりくるというリスナーもいたはずだ。それでも、やはり週末はNovamixをかけっぱなしにして過ごすというリスナーも多かったと思う。

 

こうした濃密な音楽的環境の中、リスナーたちは空のカセットテープを用意して、常に「録音待機」の状態でラジオに耳を傾けていた。こうしてせっせと録音されたミックステープをウォークマンに突っ込み、友人同士で貸し借りしながら誰もが未知のフレッシュな音楽を楽しんだ。音楽業界にダウンロードとMP3プレイヤーが登場する以前は、こうした手段を通して新しい音楽に出会うのが当たり前だった。思えば、ロウファイでのどかな時代だったものだ(もちろん、今でもこうしたアナログな方法を続けている人々も残っているだろうが)。こうしたラジオでは1曲すべてが丸々オンエアされることは稀で、大抵の場合は曲名やアーティスト名をアナウンスする声がかぶってきたものだ。ジングルやCMも頻繁に入り、リスナーは次にオンエアされる曲がいまいちなのかそうでないのかを瞬時に判断しながら録音を待機していた。

 

受信状況の善し悪しやカセットテープのくたびれ具合などによって、こうして録音されたテープは大抵の場合玉石混交のつぎはぎのような内容になった。とはいえ、「これはすごい!」と思った曲がオンエアされたとしても、それがもう一度オンエアされる保障はどこにもなかったので、録音状態の善し悪しに関わらずこうしたミックステープの存在は価値あるものだった。ラジオから流れる様々な曲に対して必死に耳を傾けながら録音したテープは、さっき自分の見た夢の内容を必死に思い出すためのツールのような存在だった。ときには、貴重なトラックの録音を間違って上書きしたり紛失したりすることもあった。そうすると、再びラジオの前で録音ポーズボタンに指を置きながらそのトラックがオンエアされるタイミングをひたすら待つしかなかった。

 

未来の歴史家たちは、これらのミックステープの存在をインターネット以前の時代における人々の音楽的情熱が鮮やかに刻まれた遺物として扱い、そこに込められた視点、労力、判断の移り変わり、嗜好の進化などを読み取るはずだ。筆者自身もこうしたテープをあらためて聴き返すと、現在の自分の音楽的嗜好の範囲の広さがこうしたアンダーグラウンドFMによって培われたものであることを実感する。20年も昔のパリでは、フランス産のラップやディープハウス、そこに混ざったほんの少しのラテンファンクやポストロックなど多様なジャンルがすでに当然のように並列で並んでいた。

 

「僕がこれを言うとみんな信じてくれないんだけど、当時のラジオでは本当にあらゆる音楽が聴けたんだ!」― こう語るのは、NovaでのDJと番組ディレクターを1987年から1997年までの10年間務めたLoïc Duryだ。自らの活き活きとした回想に興奮してソファーの上で時折身を弾ませながら、彼はさらに話を続ける。「みんなが色んな音楽を聴きたいと欲していたから、僕らは色んな音楽をまとめて提示した。ただそれだけのシンプルな話さ。たまにレコードの行方が分からなくなってしまうこともあったけれど、誰かに『もう一度あの曲をオンエアしてほしい』ってリクエストされない限り、それっきりだったね」

 

50代に差し掛かった今でも依然としてハンサムで颯爽としたこの男は、透徹した青い瞳でそう語る。彼の人生についてのすべてを書くとすれば、もう1本長い記事ができあがってしまうだろう。手短かに言うと、彼はマリファナの取引で下手を打って1983年にベルギーで収監された経験を持ち、収監から48時間後に釈放されてフランスへ移住した。子供も生まれたことで安定した収入を得る必要に迫られた彼は職探しに奔走したが、前科持ちという身の上もあって職探しは難航した。

 

Jeff, Loïc Dury, DJ Shoom, Aldo, Gilb-R

 

ある夜、パリ郊外のオー・ド・セーヌ県にあった仮住まいで、LoïcはRadio Novaが新たなスタッフを募集していることを知った。彼は家を飛び出し、一番近い公衆電話を見つけてすぐにNovaへ電話をかけたが、あいにくその募集職はすでに埋まっていると素気ない返答。すっかり打ちのめされて思わず電話口で悪態をぶちまけた彼は、なぜか応対した担当者から気に入られ、とりあえずオフィスに遊びに来てみないかと誘われる。そこでLoïcは、Novaを支えるキーパーソンのひとりだったJean-Yves Lafesseと、後にMalka Familyというバンドを結成するファンクマニアの集団Saint-Paul Jewsの面々に出会った。多様な音楽ジャンルに精通した知識を持つLoïcは、彼らからフランスの雑誌『Actuel』の後援のもとでパーティをオーガナイズしないかと持ちかけられる。『Actuel』誌を所有するJean-François Bizotは、Radio Novaの立ち上げを仕掛けた人物だった。

 

Loïcはそのオファーを受けることにし、こうしてこの若い父親はバスチーユ地区にほど近いフォーブール・サンタントワーヌ通り沿いにオフィスを構えるRadio Novaとそのニュースペーパーの事務所を両方まとめて手伝うようになり、オーナーのBizotとも友情に近い関係を育み始めたのだが、1987年のある日、それまで番組ディレクターを務めていたJean-Pierre Lentinという男が何の前触れもなく突然失踪すると、その後しばらく数週間ほどは番組制作もままならない状態になり、過去に放送した番組を繰り返し放送するはめになってしまった。そして、このような状況に、リスナーからも苦情が寄せられるようになっていた。

 

そんなある日、Loïcは主を失った番組ディレクター席に乗り込み、そこから彼の好みのレコードをごっそり抜き出すと、Marc H’limi(注1) に直談判して彼の選曲した番組を新たに設けるよう訴えた。こうしてLoïcは自分の番組を持つことになり、数ヶ月も経たないうちに、リスナーは3倍にも増加した。「おかしな話に聞こえるかもしれないけれど、それまでのNovaの選曲は基本的に2つのスタイルを行き来するだけだった。つまり、アフリカ音楽か、Prefab Sproutのようなインディーロックのどちらかしかなかったんだ」とLoïcは回想する。「そんな中、僕はファンクやジャズ、それにニュースクール・ヒップホップ、黎明期のハウスやテクノを持ち込んだんだ。80年代後半はNovaにとってものすごく濃密な時間だった。それから90年代中盤になるとNovamixをはじめとした新機軸がスタートして、Novaの名前は爆発的に広まっていったんだ」

 

注1):現在もNovaで番組ディレクターを務める人物。当時は放送用にレコードをテープに録音する作業の責任者だった

 

NovamixはレギュラーDJとゲストDJが分け隔てなくプレイする番組で、元々は「La Grosse Boule」という毎夜放送していた帯番組の後に放送されていた。「La Grosse Boule」を担当していた2人のホスト、Edouard BaerとAriel Wizmanはかなり自由な感覚の持ち主だった。Novamixのピークタイムでは、David Blot(注2)が毎日のようにMasters At Workのトラックをプレイするのが半ばお約束のようになっていた。

 

注2)現在は「Nova Club」のプレゼンターを務める。当時は自ら集めたお薦めのパーティ情報をリスナーに提供するコーナーを担当していた

 

Novamixにおける「レギュラーDJ」という位置づけは結果的に柔軟なものになっていった。というのも、LoïcとGilbert(そう、のちのDJ Gilb’rだ)が毎週ゲストを見つけられるとは限らなかったからだ。「Rough Tradeから大量のハッピーハードコアのレコードを買い付けてきて、架空の英国人DJを仕立て上げたこともあったよ」とLoïcは回想する。「Ariel、Gilbertそれに僕の3人はあらゆるジャンルのレコードを大量に持ってきていたので、いくらでも架空のDJをでっち上げられたのさ!」

 

Ariel Wizman, Gilbert Cohen, Edouard Baer

 

1995年、Novamixは週末の枠にも進出する。そのヒントになったのは、DJのMarc Moulinが働いていたベルギーのラジオ局Radio 21の「ラジオ局の中にもうひとつラジオ局を作る」というアイディアで、Novamixも金曜から日曜の夜まで新鮮でエクスクルーシブな、しかもローテーション無しの番組を展開することにした。そして彼らはこの週末の膨大な時間枠をDee Nasty、Laurent Garnier、Cut Killer、Gilles Peterson、伝説的セレクターのLord Zeljko、DJ Clyde (NTM)、Dimitri From Paris、Ivan Smagghe、Ludovic NavarreことSt Germain、DJ Deepといった数々の著名DJ陣、そして言うまでもないがLoïcとGilbertの2人によって埋めることにしたのだ。

 

Black Thought & Rahzel @ Nova office

 

やがて、フランス国外からも番組のゲストDJが招かれるようになっていった。多数のUKのジャングルDJ(1994年から97年にかけて、Gilbertはジャングルにのめりこんでいた)をはじめ、アメリカからも多数のヒップホップDJがツアーでパリを訪れるたびに出演し、当時シカゴで勃興しつつあったシカゴハウス第2世代のDJたち ― Gemini、Derrick Carter、DJ Sneakなど ― もこぞってプレイした。これはDaft Punkがそのファーストアルバム『Homework』でブレイクを果たす前夜のことだった。

 

Radio Novaにラジオのチューニングを合わせることは、めくるめく音楽体験をパリジャンたちの週末に付け加えた。溢れんばかりにフレッシュな音楽の向こう側には、スタジオの熱気やそこで交わされる内輪ネタのジョーク、マリファナの煙、そして活き活きとしたサブカルチャーのスピリットをも感じ取られた。ときには、スタジオに観客を招待して収録が行われることもあった。「たしか、80年代後半に初めてDee Nastyが番組に登場したときは、200人近い人がスタジオに詰めかけていたね」とLoïcは回想する。「でも、みんな素晴らしいクラウドだったよ。Thomas BangalterはDaft Punkとして成功する前からちょくちょくスタジオに来ていて、ブレイク後も、以前と変わらずスタジオに来ていたね。Daft Punkの2人はシカゴのDance Maniaのレコードはすべてのシングルを記憶していた。彼らにとってDance Maniaは一番影響を受けたレーベルのひとつだからね。Feadzもよくスタジオで見かけたよ。当時、彼はまだ14歳かそこらのキッズだったんじゃないかな。お姉ちゃんにくっついて遊びにきていたんだ!」

 

 

Crazy B (Alliance Ethnik) @ Radio Nova

 

とはいえ、フランス国外からのDJやアクトの招聘は、簡単なことばかりではなかった。Loïcは当時人気を博していた米国のヒップホップグループ、House of Painを招いた時を回想する。「彼らが『Jump Around』をヒットさせていた頃さ。僕らは彼らを駅まで迎えにいったんだけど、そこに現れた彼らは、『こりゃ明らかに不機嫌そうだな』って雰囲気を放ってたんだ。幸い、彼らの大ファンのAlliance EthnikのK-Melというラッパーが、彼らの話し相手になってくれていた。そしてK-Melは僕らが思わず引いてしまうほどの熱心さで、House of Painと一緒にフリースタイルをやりたいと訴えていた。最初、House of Painの連中はきっぱりと断ってK-Melのことを相手にもしていなかったんだけど、僕らがAlliance Ethnikの記事や、彼らが表紙になった雑誌を見せて説明すると、連中も『OK、じゃあこいつとフリースタイルをやってやってもいいぜ』という感じで態度が軟化した。それで、インストのトラックをかけていざフリースタイルを始めようとなった時、興奮したK-Melが思わずHouse of Painの連中より先にマイクを取ってラップしはじめたのさ。そこまではまだ良かったんだけど、ラップしはじめたK-Melは緊張のせいかアマチュア並の下手なラップで、ろくにアドリブもできないという体たらくでね。あれはみっともなかったな。そこからのHouse of Painは容赦なかった。K-Melを捕まえて、思いっきりコケにしたんだ。K-Melがしどろもどろでラップしているところへ割り込んで、ビートに乗せてひたすら辛辣なラップをまくしたてた。K-Melが決して優れたラッパーじゃないことはみんな分かってはいたけど、この日の出来事は彼を完膚なきまでに叩きのめしてしまった」

 

 

Gilbertもまた、当時の慌ただしい日々を懐かしみながらこう語る。「自慢するわけじゃないけど、いまだに『当時Novamixが自分の音楽的嗜好の大部分を形成した』って言ってくれるリスナーやミュージシャンなど多くの人々といまだに出会うんだ。ある時期のNovaは世界で一番のラジオ局だったのはもちろん、どんなイベントにも負けない活気があったと思ってる。あんなプログラムを展開していたラジオ局は、後にも先にもないからね。当時Novaを聴いてくれていた人たちはフランス以外にも世界中にいる。Loïcと僕は当時大忙しだったね。3つの異なるコンソールでミックスして、TVでミックスを流すこともあった。他には比べようもない混沌がそこにはあったのさ」

 

Loïcは1995年頃に初めてモデムが導入された時のエピソードを語る。彼らはNYPD(ニューヨーク市消防局)の無線通信を傍受して、そこに扇動的でクレイジーな会話をミックスして放送した。「オクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件(1995年4月19日)が起きた時の警察無線からは、警官たちが誰も彼も狼狽して心ここにあらずっていう雰囲気がありありと伝わってきた」と回想するのはGilbertだ。「そんな無線の音声を、プレイしているレコードにミックスして放送したんだ。あれほど自由な感覚を感じたのは、後にも先にもなかったね」

 

 

 

"ラジオはあくまでも快適に聴いてもらいたいと思っていた。僕が自宅ではアヴァンギャルドなものを聴くのが好きでも、それをラジオでオンエアするかと言えばまた別の話なのさ"

― Loïc Dury

 

 

 

同僚ホストや専門家(Bintou SimporéやRémy Kolpa Kopoul)のアドバイスを交えながら、LoïcとGilbertの2人を中心に展開された熱のこもった自由闊達なミーティングにより、番組のプレイリストや局全体のプログラムには入念な準備がなされていたが、最終決定権はLoïcに委ねられていた。「たとえば、たまにBintouやRémyがワールドミュージックやサルサのレコードを持ってくると、僕は『こっちのほうが良いんじゃない?』と言ってまた別のレコードを提案する。そんな裏表のないやりとりが常に展開されていた。僕はすべての音楽をとてもシリアスに、且つ正確に届けたいと考えていたんだ。スイスのCouleur 3がやっていたようなプログラム編成には影響を受けたしね。朝は爽やかに、午後はグルーヴィに、そして夜はディープに… って感じでさ。ラジオはあくまでも快適に聴いてもらいたいと思っていたし、完全にフリースタイルな無手勝流でやっていたわけじゃないんだ。自宅ではアヴァンギャルドなものを聴くのが好きでも、それをラジオでオンエアするかと言えばまた別の話なのさ」

 

Jérome Viger-Kohler, David Blot, Fred Agostini

 

1997年、ラジオに生活のほとんどを捧げた濃密な10年間が経つと、ラジオがだんだん広告代理店に支配されたつまらないものになってきていたこともあり、LoïcはNovaを去ることにした。長年番組制作を共にしたGilbertもそれより1年ほど先に自身のレーベルVersatileを立ち上げて独立していた。オーナーのBizotにとっては、自ら手塩にかけて育てた子供たちを手放すような気持ちだっただろう。そして、そのBizot自身も、その後ミレニアムの変わり目を待たずにNovaの経営から手を引いた。

 

1996年、David BlotはNovaで働くのと並行してFred AgostiniとJérôme Viger-Kohlerと共にシャンゼリゼのクラブQueenで「Respect」というパーティを開始した。ちなみに、Viger-Kohlerはライバル局のFGで、この記事の冒頭で少し触れた「The Happy Hour」をJean-Yves Leloupと共に手掛けていた人物だ。「FGが完全にハウス/テクノに特化した方向性を本格的に固めたのは1996年だった」と当時の詳しい状況を語るのはLeloupだ。「ゲイコミュニティに根ざしたアイデンティティは依然残っていたけれど、それを全面に押し出すことはなくなった。代わりに、それまでもFGの中核だったテクノ/ハウスに特化したプログラムで固め始めたんだ。それまでは朝の時間帯にクラシックやオペラをミックスして、午後にはハウスやテクノをオンエアして… といった具合に、ゲイのオーディエンスの嗜好に多かれ少なかれ合わせたプログラム編成だったんだけどね。その頃の夜の時間帯には、個人広告(注3)のための時間もあったよ」

 

注3):当時のFGの広告枠では、以下のような隠喩的メッセージを含んだゲイのための伝言ダイヤルサービスを展開していた。たとえば「おしゃべりを楽しみたいお肉屋さん、36 68 00 99にお電話を頂戴。もしかしたら、硬いお肉をうまくほぐせる方法がわかるかも」といった具合に。これらのメッセージは、すべてやたらと艶っぽい声で吹き込まれていた。

 

その「The Happy Hour」は、オンエアする音楽以外の部分でもリスナーたちの重要なニーズを満たしていた。Leloupが説明する。「僕らはもちろん新しいリリースもオンエアしたけれど、僕らの放送内容はその週末に行われるパーティと密接に繋がったものだった。第1世代のレイバーたちにとって、数少ない貴重な情報源となっていたんだ」

 

たとえそれがあくまでアンダーグラウンドなものだったとしても、メディアとしてのこうした責任感の強さはときに歓迎されざる状況を招くこともあった。Leloupはこんなエピソードを引き合いに出す。「ある日、レイブ・オーガナイザー界の大物のPat Cashという男が僕らのラジオ局に乗り込んできたんだ。FGは俺たちのイベントについての情報を十分紹介していない、ってね。ある夜何のアポもなしにやって来た彼は、Spiral Tribeの大男と、ビデオレコーダーで一部始終のやり取りを録画する役目の男を引き連れていた。Pat Cashは見るからにドラッグでハイになった状態で、有無を言わさず僕をスタジオに軟禁したんだ。スタジオの中では僕と彼の2人きりになった。Pat Cashは例のSpiralの大男に命じて僕らがプレイしていた音楽を止めさせ、ハードコアのレコードをかけろと指示した。それからマイクを奪い取り、ひとしきり彼の主催するレイブについて喋りまくったのさ。しばらく時間が経つと、僕の同僚が僕を救出するために呼んだ警察が到着してスタジオの中に入ってきた。するとPat Cashの態度が途端に一変し、素直に警察に従っただけでなく、僕にキスしてこようとさえしたんだ… おそらく、エクスタシーとコカインを同時に摂取したか何かしたんだろうね。みんなは笑っていたけど、僕にはどうにも笑えなかったよ!」

 

「The Happy Hour」はのちにアシスタント・プレゼンターにJérôme Viger-Kohlerを迎えて「Global Techno」という番組名に変わり、さらに後にはJean-Philippe RenoultやChristophe Vixもプレゼンターとして加わった。「Global Techno」は当時の政府から違法レイブと結びつけられて「ドラッグまみれの音楽」というレッテルを押し付けられていたテクノカルチャーの素晴らしさを多くの人々に対して紹介した。「Global Technoでは、DJやアーティストだけでなくイベントプロモーターやSF作家、ジャーナリスト、科学者など多彩なゲストを招いたんだ。充実した文化雑誌をラジオ番組の形式で展開していたようなものさ。あくまでも、その中心はエレクトロニック・ミュージックだったけどね」と、現在はジャーナリストとしても活動するLeloupは語る。彼はRenoultとAriel Kyrou(Actuel誌の前副編集長)との共著のもと、『Global Tekno』という書籍を出版している。

 

L to R: Jean-Philippe Renoult, Masters At Work, Jean-Yves Leloup (1997)

 

「FGとNovaは別にライバル同士ってわけじゃなかったと思うよ」とLeloupは主張し、「『The Happy Hour』のゲストがNovaの『La Grosse Boule』に出演したし、もちろんその逆のパターンもあった。商業的な意味においては競合していたけれど、NovaとFGは兄弟同士のような関係だった」と続ける。実際、DJ DeepやLaurent GarnierはNovaとFGの両方で番組を掛け持ちしていた時期もあった。「FGでのレギュラーDJ陣は、最終的には番組から降りたり、Novaに移っていったりしてたね。というのも、FGではギャラもろくに支払われなかったし、たまにあったとしてもごく少額だったからさ」とLeloupは付け加える。

 

そして、90年代の終わり頃になると、FGではDJ Deep、Alex from Tokyo、DJ Gregoryがレギュラーを務める「A Deep Groove」やSven LoveとGreg Gauthierがレギュラーを務める「Cheers」といった看板番組の他に、2組のクルーが登場し、後のパリのクラブシーンに大きな影響を与えることになるゲットーハウスやベースミュージックを予見させる選曲をし始めた。

 

 

Jess & Crabbeというデュオのひとり、Crabbeはこう回想する。「僕は同時にその両方のクルーに属してたんだ。ひとつはHometownという名前で、これは当時Rexでやっていたパーティから派生したクルーなんだ。メンバーはJess、Kenobi、Julian Del、そして僕の4人。この4人であらゆるシカゴハウスをプレイした。ディープなものから、ゲットーハウス、テクノまであらゆるタイプをね。もうひとつはRangerz Crewというクルーで、こちらのメンバーにはMike Jay、Glock 9、Kris Fonk、MC NAiがいた。彼らは最初100%ジャングル専門のクルーとして出発して、その後すぐに2ステップやスピードガラージにも手を伸ばしていった」

 

当時はFGを含め、ラジオでは依然としてフレンチ・タッチの残滓のようなフィルターハウスが幅を利かせていたが、HometownやRangerz Crewが日曜に始めた革新的なバック・トゥ・バック形式のショーは後のシーンに大きな影響を残すことになる。「日曜の番組枠をもらったから、インパクトを起こすには好都合だったね」と語るのは、Crabbeの相方のJessだ。だが、Hometownクルーのパーティと番組は2000年には終了を迎える。その翌年からJessとCrabbeの2人はトラック制作に集中し、その後Fiat Luxレーベルから作品をリリースした。

 

パリ郊外サン・ドニに本拠を構える、かなり左翼的傾向の強いラジオ局Fréquence Paris Pluriellesでは、1993年の終わり頃に「Mondial Twist」という毎週火曜夜の番組がスタートした。英国のバンド、World of Twistをフランス語に直訳したタイトルを冠したこの番組では、その名に相応しい一癖も二癖もあるパーソナリティ陣がホストを務めた。Joseph Ghosn(現在は音楽ジャーナリスト兼ミュージシャン。また週刊誌『Grazia』のディレクターも務める)、Pierre-Yves Bocquet(Pierre Evilのペンネームで『Gangsta Rap』、『Detroit Sampler』を著した作家。ここ最近では第24代フランス大統領François Hollandeのスピーチライターも務める)、そして当時Rough Tradeのスタッフで、DJとしても活躍していたIvan Smaggheの3人だ。1993年当時、パリ政治学院(訳注:通称Sciences Po。フランス屈指のエリート校)で学ぶ学生でもあった彼らは、アメリカのインディーロックやハードコア、英国における一部のポップミュージック(音楽誌『Les Inrockuptibles』や『Magic』でプッシュされる類の)などに精通しており、ダンスミュージックやヒップホップにも強い興味を示していた。

 

Mondial Twistのプレイリスト

 

彼らのプレイリストはときにNovaからの影響が色濃く出ることもあったが、Novaで言うところの「ワールド・サウンド」よりも、彼らはむしろ「ホワイト・ロック」というタームを標榜した。「Bernard Lenoir(前述の大御所プレゼンター)が公共放送のFrance Interで紹介するような音楽には、僕らはもはや共感すらできなくなっていたんだ」と語るのは、Pierre-Yves Bocquetだ。「僕らはそれぞれディスカウントショップやRough Tradeに入り浸っていたし、コンサートなどの場で互いに出くわす機会が多かった。僕はパリ政治学院の周辺でサブカルチャーに興味のある学生を集めた一種の非営利サークルを作ったんだけど、それがやがてラジオ番組に発展していったんだ」

 

リスナーからのプレイリスト問い合わせの電話が殺到していたNovaやFGは、さながらアンダーグラウンド・ミュージックの総本山のような存在になっていたが、それらに比べるとMondial Twistはまるで誰もいない空間に向けて放送しているかのようなある種の空虚さがあった。「僕らの番組は、お互いが発見したものを共有し、互いの趣味嗜好を競う場であると同時に、それぞれが読んでいる本や観た映画などについて話し合う場所でもあったのさ。どこで誰が聴いているかなんてことさえも気にせずにね」と語るのは、当時の番組ホストのひとりだったSébastien Viaudだ。「番組中にはその日収録に参加できなかったメンバーが電話をかけてきて、声色を変えて一般のリスナーのふりをしていたんだ!」

 

毎週90分間放送されたこの番組によって、筆者自身も音楽の嗜好において決定的な影響を受けた。そこには啓示的なグルーヴやメランコリーな内省、そして屈託のないエリート意識などが入り交じっており、なんとも表現し難いワクワク感があった。そのスピリットを指してIvan Smaggheは「学生インディーオタク」と表現したが、その控えめながらも計り知れない情熱は、NovaやFG、そしてGénérationsといったラジオ局の人気を決定付けた方法論に対して興味深いコントラストを形成していた。

 

Mondial TwistはDIY的アプローチを根幹にしながら、その好奇心という名の枝葉はMike BrantのようなノーウェーブやKenny Dopeスタイルのヒップホップ、はたまたOvalのようなグリッチテクノに至るまであらゆる方向に伸びていった。「当時の僕らはレコードやサブカルチャーの世界にどっぷりはまっていたけれど、それは自分をクールでスタイリッシュな存在に見せたいといったような自意識から来るものではなかった。当時の僕らの個人的な体験の中身と、現代ではすっかり物語化されてしまった僕らのパブリックイメージは全く異なるものなのさ」と微笑みながら語るのはJoseph Ghosn。今ではすっかり白髪が増えているが、相変わらずお洒落でエレガントなムードを漂わせる彼は、今も毎年パリのファッションウィークには必ず足を運んでいるらしい。

 

90年代を通して、Mondial Twistのチームが広めたポストインディー的精神は筆者以外の人々にも多大な影響を与えた。そのうちのひとり、Wilfried Parisは現在ミュージシャンとして活動しながら雑誌「Chronicart」のジャーナリストとしても活躍している。Mondial Twistを立ち上げたメンバーたちはその途中でひとり、またひとりと去っていったが、Pierre-Yves Bocquetは政治家としてのキャリアを歩みながらもその傍らでしばしばMondial Twistの後継番組を続け、これは2002年の終わり頃まで放送された。

 

Ivan Smagghe @ Radio Nova

 

Ivan Smaggheは番組開始から5、6年もするとやがてMondial Twistを離れ、France InterでBernard Lenoirの番組を引き継ぎ、その後NovaでLoïcと共に番組を手掛けた。そして、Smaggheはその後もNovaで、ノーザンソウルやレアなサイケをアンミックスで1曲ずつプレイする「Mauvais Karma (Bad Karma = 罰当たり、悪業の意)」という番組を立ち上げ、1998年には、毎夜放送される「Test」という番組のホストも務めた。最終的に、Smaggheは「Test」を3年間続けた後に降板すると、友人の同僚プロデューサーFany Corralと共にレーベル「Kill the DJ」とその同名パーティをPulpで開始した。

 

2000年代を迎える前後には、フランスにも高速インターネット時代が到来し、音楽ファンを取り巻く世界を一変させた。彼らはラジオに耳を傾けるかわりに、Napsterから様々な音源ファイルをダウンロードすることに大半の時間を費やすようになっていった。筆者もそうした多勢の例に漏れず、次第にラジオを聴く機会は少なくなっていき、ラジオへの接し方自体も変化していった。NovaやFG、Générationsのプログラム編成も次第に当たり障りのない保守的なものになり、広告枠ばかりがどんどん増えていく中、私はコンピューターを使ってミックステープ時代には到底手に入れられなかったであろう音源(もしくはくたびれたミックステープでしか持っていなかった音源)をいとも簡単に、次々と見つけていった。

 

これを告白するのはいささか忍びない気持ちだが、インターネットでのファイル共有サイトを見つけた瞬間、私の中でのFM熱は一夜にして消し去られたと言わざるをえない。また、90年代以降における米国・ヨーロッパ産のダンスミュージックのファンたちからの支持を集めはじめていたオランダのCBS/Intergalacticといったインターネットラジオが、従来のラジオに取って代わりつつあった。こうしたインターネットラジオの存在が昨今の90年代リバイバルを促した大きな要因のひとつであることは否定できないだろう。こうして、大多数の人たちはおびただしい数のmp3ファイルの海を探りながら、自分自身だけのプレイリストやミックステープを作って自身の音楽的嗜好を磨き上げ始め、やがて個人的なセレクションを収めたコンピレーションCD-Rをパーティに持っていってプレイしたり、それらを親しい友人たちの間で交換したりすることがすっかり日常的な風景となった。

 

現代では新しい音楽との出会に苦労はすっかり無縁となり、音楽に対して誰もがほぼ無限にアクセスできる環境が現実となった。それなのに、なぜ今でも自分でお金を出して買えるようになるまで、mp3を探し回ったり、低音質のストリーミング音源(それらの音質は、00年代初頭におけるReal Audioサンプル音源の低クオリティなサウンドと殆ど大差ないものだ)を代用したりするのだろうか? 認めてしまおう。なぜなら、このような体験はある種の歓びを与えてくれるからだ。そして、この「現在進行中の今」でさえも、私たちは「昔は良かった」と時折つぶやいてしまう。

 

筆者紹介:Etienne Menuは現在音楽レビュー誌『Audimat』副編集長を務めている。2004年から2012年にかけて、Radio Campus Parisで様々な音楽番組のホストを歴任。現在は『Audimat』副編集長職と並行して、ラジオ局France Cultureで最新の音楽情報にフォーカスした番組のプロデュースも手掛けている。