五月 23

Mr. Fung:コオロギの魅力

David Rothenbergは10年以上に渡り生物が生み出す音楽について研究を重ねている。音楽家兼哲学家である彼は著作『Bug Music: How Insects Gave Us Rhythm and Noise』を最近発表した。そこからの抜粋となる今回の記事では、人生の大半をコオロギの音色の研究に捧げてきたスウェーデンに住むコオロギ愛好家Mr. Fungを紹介する。

By David Rothenberg

数々の島から成り立つストックホルム市最大の島ゼーデルマルム(Södermalm)で、私は複数の名前を持つある人物と共に急な坂を登っていた。ある人は彼をBolingoと呼び、またある人はMr. Fungと呼ぶ。ルーズな布に身を包み裸足で歩く、フー・マンチューのような髭を生やした坊主頭の彼は、まるで別の時代からやってきた中国の聖人のような出で立ちをしていた。

「生きているコオロギを懐に忍ばせておくのは色々と助けになる」 - Mr. Fung

しかし、その瞳は明るいブルーだった。彼の本名はLars Fredrikssonと言う。彼は古代中国に存在したコオロギを歌わせる風習を欧米社会で誰よりも知っている人物だ。彼も私と同様、どうやったら世間が昆虫の歌に対して興味をもってくれるのかという問題に取り組んでいる。私たちが通りをのんびりと歩いて行くと、彼は着ていたチュニックの懐から細かな彫りが施された小さな木箱を取り出し、小さな仕掛け扉を開けた。「生きているコオロギを懐に忍ばせておくのは色々と助けになる」

コオロギが鳴く。

驚いた私は訊ねた。「いつも連れ歩いているのですか?」

コオロギがまた鳴く。

Mr. Fungは笑顔で答えた。「私が死ぬ時は、コオロギを小さな箱に入れて持ち歩いていることを咎められ、コオロギの地獄に落ち、連火に焼かれるのだろう。だが、環境を考えると、つまりいかに昆虫が地球にとって大事なのかを考えると、常に1匹近くに置いておくのは悪くない。何故ならそこから会話が始まるからだ。自分から話しかける必要はない。鳴く音が聴こえた時、私がテーブルの上にこの箱を置くと、周囲が『何が入っているんだい?』と訊ねてくる。そこから会話が始まる。自分からではなく、コオロギから始まるんだ。そしてゆっくりと質問に答えていくと、質問はどんどん増えていく。『虫を持っているなんて!キャー!』と言われたり、『なんだ虫か…』と言われたり、様々なリアクションがあるのは厄介だが。そして当然のことながら『どうして虫を持っているの?』という質問が来る。その時私は常にこう返している。『鳥の鳴き声よりも虫の鳴き声の方が好きなんだ』とね」

Mr. Fung in China Credit: http://www.bolingo.org

私は再び訊ねた。「どうして鳥の声よりも虫の声の方が好きなんですか?」

「私は安心させてくれる音が好きだ。コオロギの音色もそのひとつだ。元々コオロギは身の安全が確保できていなければ鳴かない。嵐や低気圧など、悪天候の時は鳴かない。しかし、太陽に照らされて乾いた草を見やれば、そこにはコオロギがいて、天気が良くなったと歌ってくれる。私たちは生命と繋がって生きているんだ」

昆虫による音楽は常に性及び暴力と近い関係を持ってきた。実際、中国人の多くは、その鳴き声を楽しむのではなく、戦わせるためにコオロギの売買を行っている。おとなしく物思いに耽るような知的な人たちは、戦うコオロギよりも歌うコオロギを好むだろうが、実はそれも思い込みかも知れない。というのも、コオロギ相撲(闘蟋/ドウシー)のルールも、1348年の『The Book of Crickets』で賈似道が記している通り、高貴で深淵なものだからだ。この本によればコオロギたちも自然が与えるとされる五徳を備えている。

第一の徳:時が来ればコオロギは歌う。
信用を指す。
第二の徳:敵に出会ってもコオロギは臆さない。
勇気を指す。
第三の徳:いかに深く傷ついても、コオロギは諦めない。
仁義を指す。
第四の徳:負けたらコオロギは歌わない。
コオロギは恥を知る。
第五の徳:寒くなればコオロギは家に帰る。
コオロギは賢く、状況を把握している。

私がこれをMr. Fungに示すと、少なくとも私たちの時代の人類は音楽よりも戦争を好んできたんだと笑った。とは言え、コオロギの歌声は一度理解すれば、簡単に楽しめるものだ。楽しむにはそれなりの徳性が必要だが、求められるのは私たちの徳性であり、虫のそれを理解する必要はない。

Credit: http://www.bolingo.org

「コオロギに対しては2種類の接し方がある。少なくとも中国では2つのグループが存在する。ひとつは若者たちで、彼らはアドレナリンが放出されるようなものを好む。一方が挑戦するような形式、2匹が競い合うコオロギ相撲で盛り上がる。コオロギ相撲には重量別で7階級ほど用意されている。コオロギ用のハイテクな電子体重計さえも存在する。大会を仕切っている全身刺青の若いマフィアが、伝統的なこの相撲でモダンな機材を使用している姿は奇妙な光景だ。山東省では8月後半から9月の頭にかけてオークションが行われ、オスのコオロギが2000ドル程度の高値で売られている」

「なぜそこまで高価なコオロギを買うのでしょう? そのコオロギで何をするのですか?」

コオロギ相撲でコオロギが繰り出す打撃や噛み技には250以上の名前がつけられている。

「ギャンブルで儲けるためだ。このようなコオロギを相撲に出せば、賭け金は跳ね上がる。コオロギは死ぬまで戦い、コオロギ相撲でコオロギが繰り出す打撃や噛み技には250以上の名前がつけられている。『アッパーカット』や『第二関節までの噛みつき』など様々な技があり、攻撃は様々な言葉で表現される」この相撲の勝者たちには “パープルヘッドゴールデンウィング”、“ブロンズヘッド”、“アイアンブラック”、“インヤンウィング”、“無敵の男” など、色鮮やかな名前がつけられる。飼い主は試合前にコオロギを苛立たせ、触覚に似せた小さなブラシでつつく。飼い主はこうしてコオロギを興奮させると、掛け金を回収し、コオロギを土俵へ送り込む。

もうひとつのグループは、ただコオロギの音色を聴くのを楽しむだけの人たちだ。Mr. Fungが説明する。「ある程度年齢を重ねた穏やかな人たちのうループだ。辛い人生を味わった経験がある人たちというか。作曲家、オペラ歌手、それにカリグラファー、画家などもいる。彼らはコオロギを学問的に面白い存在として扱っている。彼らは自宅に連れてくることで、そこに自然を持ち込む。目を閉じれば屋外にいるように感じられるという訳だ」



コオロギは朝晩が冷え込む秋口まで歌い続け、数カ月後には自発的に屋内へ入っていく。これは世界共通の事象だ。しかし、なぜか中国ではコオロギという存在は非常にシリアスなものとして扱われている。映画『ラスト・エンペラー』のラストシーンで、物静かな老人となった皇帝が紫禁城の玉座への階段を駆け上がり、木箱に入っている年老いたコオロギを子供に見せる。コオロギ相撲用のコオロギが秩序と強さの象徴である一方、歌うコオロギは秋、そして時の経過が生む必然である「死」の受容の象徴だ。

しかし、Fungは後者を「諦念」としては捉えていない。彼はその寂しげな歌声の魅力を愛しており、何百年にも渡り虫の生命の細部にまで注目し続けてきた中国人に魅力を感じ続けている。「11世紀のコオロギの飼育書では、『年老いたコオロギに対して茹でた豚の肝臓を上質なトチの実と卵黄、それにコーンスターチを混ぜあわせたものを与えよ、死期が近いコオロギは自分の力で食べることができない』と記されている。死に際のコオロギの口を少し撫でてやり、コオロギがその汁を飲む−これは本当に美しい」


コオロギの死が近づくにつれ、その鳴き声はより美しく聴こえてくる。

秋の終わりのある日、朝日が寒さを和らげようとしている頃、私は自宅の外で数匹のコオロギがまだ鳴いている声を耳にして驚いた。音程はいつもより低く、冷たい音を奏でており、個々の音は正しく、安定したリズムを奏でていた。それはまるで 私がコンピューターで作った鳥の歌を遅くしたようなもので、人間の可聴域を超えた超音波を含む構造になっていた。冬が近づくと、コオロギの鳴き声は遅くなり、私たち人間の耳によく届くようになる。コオロギの死が近づくにつれ、その鳴き声はより美しく聴こえてくるのだ。

ストックホルムの自然史博物館の庭で、Mr. Fungは低い音程で歌うコオロギは一番大柄で力強く、高額で取引されるコオロギである場合が多いと私に説明した。また彼は、音を生み出す後脚と羽に松ヤニを少量たらすことで、人為的にコオロギの歌声を低くすることも可能だと続けた。機械で音のスピードを変えるように、私たち人間は粘着性のある松ヤニでコオロギの鳴き声のスピードを変える。コオロギの鳴き声の深淵に辿り着くためにはあらゆることが試されるのだ。

Mr. FungはLars Fredrikssonとして長年に渡り、スウェーデン有数のアジア関連の本を扱う書庫で司書として働いていた。その書庫が閉められたあと、彼は出版社に勤めてアジアの書籍のスウェーデン版の出版に携わり、その語学力を活かして数々のアジア関連の文書の編纂を行ってきたが、Mr. Fungとしては可能な限り中国人に自分を近づけながら、虫の奏でる音楽の探求を続けている。

しかし、Mr. Fungは中国の伝統主義者がやらないような急進的なプロジェクト、108匹のコオロギからなるオーケストラを編成した。この108という数字は、仏教の経典の数であり、敬虔な黙想家が経を唱えながら数珠を使って数える数である。中国と共鳴する象徴的な数字だ。


「陶器の店にいる象のような気持ちだった。いくら音量を下げても、いくら音を止めても、自分がやりすぎているように感じた」 - Bengt Berger

長年に渡り、Mr. Fungは著名な即興系ミュージシャンたちと共に、コオロギのオーケストラのコンサートを開催してきた。Adam Rudolphはこのオーケストラとの共演について次のように振り返っている。「素晴らしかったよ。興奮を覚えると同時に心が休まるような体験だった。コオロギの鳴き声は完ぺきだったので、私は聴こえてくる音程とリズムに合わせるだけだった。タイミングがずれる時があったので、そのタイミングをしっかりと把握することが大事だった。また何かしらのリズムが立ち上がってきたなと思った時は、鉛筆の下書きをペンでなぞるように、そこにアクセントを加えてリズムを強調した」またドラマーBengt Bergerは、「陶器の店にいる象のような気持ちだった。いくら音量を下げても、いくら音を止めても、自分がやりすぎているように感じた。でも素晴らしい体験だった」と振り返っている。



Fredrikssonはコオロギのオーケストラで2枚のアルバム『Tingqiuxuan Presents…』と『Listening to Autumn』をリリースしている。これらの作品はコオロギの鳴き声だけで構成されており、人間は参加していない。これらのコオロギはやや特殊で、Bamboo Bell+Hevenly Bell、Small Yello Bell+Longevity Bell、Red-legged Ant Bell+Preciou Pagoda Bellと表記されているように、コオロギの飼い主によってまるで楽器のような名前が付けられており、それらの名前は音色を示している。


「バカなアメリカ人め。僕たちよりも素晴らしいコオロギを持っているのにその価値を理解していないのか!」

しかし、それは8月後半や9月にアメリカの郊外の野原や裏庭で一晩中聴こえる野生のコオロギの音色よりも素晴らしいのだろうか? スウェーデンでは鳴くコオロギはわずか2種類が確認されているだけだ。しかし、私が住む北米大陸には、中国よりも多い数百種類が生息しているため、9ヶ月に渡ってコオロギの音色を楽しめるのだ。

この点についてMr. Fungは次のように話した。「数年前、北京のコオロギ屋で並んでいた時、iPodでアメリカのコオロギの声が入っている曲を私の後ろに並んでいた中国人に聴かせると、彼は「ワオ!」と言い、その音を気に入った。そして彼はヘッドフォンを取ると、『アメリカではコオロギの音色を楽しむ人が多いのかい?』と訊いてきたので、私は「いや」と返した。すると彼は、『バカなアメリカ人め。僕たちよりも素晴らしいコオロギを持っているのにその価値を理解していないのか!』と怒った」



自然主義の第一人者であるH.A. Allardも、既に1929年の段階でこの中国人の意見に同調する意見を述べている。「我々アメリカ人はコオロギやキリギリスの声を聴くには忙しすぎる。我々は機械化されすぎている。我々は多忙で、心がすさんでいるのだ」また自らの名前が冠せられたコオロギ種がある程コオロギに詳しかったAllardは、コオロギの鳴き声は交配に必要だからという理由だけで機械的に行われているものではないという推論を展開した。「音を生み出そうという行為は、偏在的な欲求であり、生命ある者が持つ傾向である。しかし、昆虫の世界は、この自己表現のエゴと共に後退しているわけではない」

エゴ? 虫が? Allardは何を言いたかったのだろうか? Allardは、黙ることを知らずにひたすら歌い続ける人間がいた場合、私たちはそのような人間をただのアピール好きのエゴイストだとみなすはずだし、次のように説明している。「これをコオロギに当てはめてみると、彼らは自分たちの羽音だけに興味がある、地球上で最もエゴが強い生物ということになってしまう」そして彼は、人間はコオロギの鳴き声がコオロギにとってどういう意味を持つのかを本質的には決して理解できないことを素直に認めている。コオロギにとっては、音を出す自己表現こそが彼らの一生における最優先事項なのかもしれないが、仲間との親交を音で表現しているだけなのかもしれない。もしくは純粋なアートや、音やリズムへの愛に対する表現なのかもしれないのだ。

「これはどういうことか? 性行動という理由だけでは片付けられない数字だ。それだけのためにコオロギがここまで鳴く必要はない」 - H. A. Allard

よってAllardは、コオロギの鳴き声は交配だけを目的とした行動なのだという断定的な説明に納得していない。彼は、姿を見るのがほとんど不可能に近い、ほっそりと優美な容姿が特徴のアメリカカンタン(Oecanthus fultoni)の美しく明るいハイトーンの音色のデータを集め、数字を使ってこの説明に反論している。「私の調べではアメリカカンタンは一晩中毎分90回のペースで鳴いていた。つまり、これは1時間に5400回であり、一晩12時間では64800回、90日間では約400万回となる。そして1回鳴くのに4回羽を動かすと仮定すると、1600万回羽を動かすエネルギーが必要ということになる。これはどういうことか? 性行動という理由だけでは片付けられない数字だ。それだけのためにコオロギがここまで鳴く必要はない」

コオロギの鳴き声は様々な人間の言葉で表現されているが、これは私たちがオスがメスの気を引くための行動だと理解しているからなのだろうか? それとも延々と繰り返されるにふさわしい美しい音楽だと感じているからなのだろうか?