七月 21

ブラックアーティストのレーベル

Sam Cooke、Curtis Mayfield、James Brown、George Clinton、Princeは揃ってキャリアのピークに自分のレーベルを立ち上げた。その歴史を振り返っていく

By Michael A. Gonzales

 

オールドスクールなソウルレーベルの大半は、楽器を演奏したり、歌を歌ったり、次の公演地まで夜通しバスに揺られたりしたことがない人間によって運営されていた。それがようやく変わったのはSam CookeがロサンゼルスでSAR Recordsを立ち上げた1959年のことだった。著作権、版権、ライセンス料など様々な収入源を長年に渡り搾取されたあと、Cookeは黒人のメジャーアーティストとして初めてインディーレーベルを立ち上げたのだった。

 

Cookeのこの動きは大胆であると同時に革新的なDIY活動だった。アーティストが運営するレコードレーベルはのちにヴァニティ・レーベル(メジャーレーベルがアーティストを前面に押し出すために用意するサブレーベル。権利はメジャーレーベルが所有)と呼ばれるようになっていくが、Sam Cooke、そしてCurtis Mayfield、James Brown、George Clinton、PrinceなどCookeに影響を受けた後続のアーティストたちは、自分自身を目立たせることよりも自分たちの音楽を管理することに主眼を置いたレーベルを目指していた。ライターのKevin Youngは著作『The Grey Album』の中で彼らのレーベルについて「自分たちの権利の創出と保護が目的のひとつだった」と記している。

 

SAR Records、Curtom、People、Uncle Sam、Paisley Parkは、当時の音楽業界にはびこっていた人種差別への反動、そしてアーティスト側の利益と創造性の自由への意識が反映されたものだった。これらのレーベルを率いていたブラックアーティストたちは、アーティストとしての可能性と経済的なコントロールは相互排他的関係にあるという考えを拒否しようとする未来のアーティストたちに道を示していったという意味で、その音楽においても、そして因習を打破するビジネス手腕においてもレジェンドである。

 

 

SAR Records

 

1964年12月11日にSam Cookeが射殺によってわずか33歳でこの世を去った時、白人が圧倒的な力を誇っていた当時の音楽業界で彼が経済的影響力を持ちすぎたことが殺された原因だったのではないかという噂が流れた。ミシシッピーに生まれシカゴで育ったCookeはゴスペルシンガーから世界的なソウルスターへと成長したが、本人はCopacabanaで歌うことやHugo & LuigiのプロデュースでRCA Recordsから作品をリリースするよりも多くを求めていた。そして、Cookeはスタジオと会議室の両方でクリエイティブな重鎮として存在感を増すようになっていき、1959年に作曲のパートナーJ.W. AlexanderとマネージャーRoy Crainと共にSAR Recordsを立ち上げた。

 

SAR RecordsでのCookeは「Cupid」、「Another Saturday Night」などの美しいポップソングに歌声を吹き込むと同時に、公民権運動のアンセムとなった「A Change Gonna Come」や、他のプロシンガーや弟子たちによる力強いゴスペルやR&Bもリリースも重ねていった。弟のL.C. Cookeは2014年のインタビューで「Samには人の才能を見抜く才能がありました。ひと目見ただけで『君にピッタリの曲を作るよ』と言える人物でした」と振り返っている。

 

 

6425 Hollywood Boulevardにオフィスを構えたSAR Recordsには、Samが以前所属していたゴスペルグループで、SAR Recordsのファーストリリースとなった「Stand By Me Father」を歌ったSoul Stirrers、過小評価されていたソウルシンガーJonnie Morisette(「Don’t Throw Your Love on Me So Strong」)、ファンキーな天才ピアニストBilly Preston(「Greazee」)、Johnnie Taylor(「Rome Wasn’t Built in a Day」)、The Valentinosとして「I’ve Got a Girl」をリリースしたBobby WomackとCecil Womack兄弟などが所属していた。J.W. AlexanderはSam Cookeの伝記作家Peter Guralnickに「黒人の若手アーティストにハイクオリティなプロダクションの素晴らしさを教えたかった。僕たちはトップスタジオを使った。手を抜くことはなかったよ」と話している。

 

ロサンゼルスに拠点を置いていたSAR Recordsは、ギターのRene Hall、ドラムのEarl Palmer、テナーサックスのPlas Johnsonなど、優秀なスタジオミュージシャンを起用することができた。そして、L.C. Cooke(「Put Me Down Easy」)のアルバムのリリースを控えていたSAR Recordsは、Sam Cookeの死を受けて1965年に活動を終えた。このアルバムは『The Complete SAR Records Recordings』として2014年にリリースされている。

 

 

Curtom Records

 

シカゴ出身のCurtis Mayfieldは、Sam Cookeのことを彼がシカゴに住んでいる頃から知っていた。そして、MayfieldもCookeと同じくゴスペルシンガーとしてキャリアをスタートさせると、ドゥワップに影響を受けたグループImpressionsのソウルフルなリードシンガーとして才能を開花させた。Cookeより11歳若かったMayfieldはCookeの実業家的な側面に感化され、1960年に当時のマネージャーEddie Thomasと共にCurtom Publishingを立ち上げると、1968年にBuddha RecordsのNeil Bogartとディストリビューション契約を結んでCurtom Recordsをスタートさせた。

 

 

当時、同じくシカゴを拠点にするChess Recordsと競い合っていたCurtomのファーストアルバムはImpressionsの『This Is My Country』で、収録曲の「Gone Away」と「You Want Somebody Else」にはレーベルがアレンジャーとして抱えていたDonny Hathawayの作曲家としての才能が発揮されている。立ち上げ当初のCurtomのサウンドはImpressions的なハーモニー重視の作品が多かったが、ファンクやサイケデリックソウルの作品にも挑戦していた。

 

 

HathawayはAtlantic Recordsと契約する前年にJune Conquestとのデュエット「Thank You」を吹き込み、MayfieldにファンクロッカーのBaby Huey & The Babysittersと契約するように薦めた。180kgの巨漢、Jimmy “Baby Huey” Rameyに率いられたこのグループはCurtomで一番人気(悪い噂も絶えなかった)のアーティストとなった。彼らによるMayfieldの「Hard Times」のカバーバージョンはこれまでに幾度となくサンプリングされているが、特筆すべきはSam Cookeの「A Change is Gonna Come」の9分の長尺カバーバージョンで、強烈なインパクトを与えるシカゴブルースに仕上がっているこのカバーはエコーが効いたシャウトと共に幼少期やドラッグ、死をテーマにした輪郭のぼやけたラップが披露されている。残念ながらRameyは1970年10月28日にオーバードーズでこの世を去り、その4ヶ月後にアルバムがリリースされることになった。同年、MayfieldはBaby Huey & The Baby Sittersの作業と並行して行っていたソロアルバム『Curtis』をCurtomからリリースし、ImpressionsにはMayfieldの代わりにLeroy Hustonが加入した。

 

この頃のCurtom Recordsのオフィスには16トラックのスタジオが備わっており、Mayfieldはこのスタジオで作曲・プロデュースをこなしながら、Five Stairsteps & Cubie(「Love’s Happening」)、Natural Four(「Heaven Right Here on Earth」)、そしてHathawayの大学時代のルームメイトで「The Ghetto」を共作したLeroy Hutson(「The Man!」)などのセッションを見守った。Curtomにはその他にもアレンジャーのJohnny PateとRichard Tufo、エンジニアのRoger Anfinsen、セッションギタリストのPhil Upchurchなどが出入りしていた。

 

 

 

"午後3時にスタジオに入って、翌朝7時まで作業を続けることもあった"

Curtis Mayfield(1995年)

 

 

 

Phil Upchurchは2009年のインタビューで当時の様子を次のように振り返っている。「私はLinda Clifford、Leroy Hutsonのバックを務めたし、基本的にはCurtom Studiosから生まれるすべての作品の演奏を担当していた。まず、Curtisがスタジオにコンセプトとメロディを持ち込んで、どんな演奏をして欲しいのかを私たちに伝えてきた。彼の頭の中には常にイメージがあり、それを元に楽曲は仕上げられていった。当時は3時間のセッションで4曲を仕上げていたよ」

 

また、Mayfield自身は1995年のインタビューで「スタジオではいくつかの段階を踏みながらレコーディングしていた。最初に曲を書いてから、リズム隊を入れて曲に組み込む。そして、優秀なアレンジャーだったRichard TofoやRiley Hamptonを入れて、すべてを正しく整えてもらう。そのあとで、ホーンセクションやストリングスを加えた。午後3時にスタジオに入って、翌朝7時まで作業を続けることもあった。アイディアがあり、エキサイティングなフィーリングを得られている時が作曲には最適だった。夢のような時間だった」と振り返っている。

 

Curtom Recordsの赤いロゴの右下には「We’re a Winner」(俺たちは勝者)という言葉が書かれているが、1970年代を通じて彼らは “勝者” だった。Curtom Recordsの初期作品群もソウルチャートやラジオで成功を収めていたが、このレーベルがクロスオーバーな人気を獲得して大金を生み出し、ハリウッドから注目されるようになったのは1972年にリリースされたMayfieldの傑作サウンドトラック『Super Fly』だった。

 

1974年の『Billboard』誌のインタビューの中で、当時のMayfieldのマネージャーはCurtom Recordsについて「シカゴ唯一の24トラックのスタジオと自社ビルを所有し、7人のプロデューサー、12人の作曲家、5人のアーティストを抱えているんだ」と説明している。そして、24時間稼働していたそのスタジオを中心に築かれた成功は、ブラックスプロイテーション時代の数多くの映画音楽へと繋がっていった。たとえば、ファミリーグループのThe Staple Singersでリードヴォーカルを務めていたシカゴ生まれのゴスペルシンガーMavis Staplesは1975年に『一発大逆転(原題:Let’s Do It Again)』のサウンドトラックを2日で歌い上げ、そのタイトルトラックはBillboard Hot 100のナンバーワンに輝いた。

 

 

 

しかし、時代がソウル&ファンクからディスコへと移り変わっていく中で、Curtom Recordsはその時代にスムースに移行することができなかった。Curtom Recordsのアーティストで問題なくダンスフロアへの移行を果たせたのは、シンガーのLinda Cliffordのセカンドアルバム『If My Friends Could See Me Now』だけで、Gil Askeyがプロデュースを担当したこのアルバムのタイトルトラックはスマッシュヒットになったが、1980年には資金繰りに苦しんでいたRSO Recordsにディストリビューションを任せていたCurtom Recordsは契約を失うと、活動を終わらせた。

 

同年、Mayfieldは拠点をアトランタへ移すとCurtom Recording Studiosをオープンさせた。Outkastのプロデューサーとして知られるOrganized NoizeのメンバーのSleepy Brownは、のちにこのスタジオを利用してGoodie Mobのデビューアルバム『Soul Food』とMayfieldのラストアルバム『New World Order』をレコーディングしている。Sleepy BrownはMayfieldについて「若手のプロデューサーと作曲家は彼が壁を壊してくれたことに感謝しても良いと思うね。真のアーティストでありながら、ビジネスマンとしても成功できるってことを実例と共に示してくれたんだからさ」と語っている。

 

 

People Records

 

Princeは1999年のインタビューの中で、Dee’s Records Centerと呼ばれるレコードショップで45回転のシングル盤を買っていたミネアポリスの少年時代を振り返っている。少年Princeが自転車でショップへ向かうと、オーナーが最新のリリースを聴かせてくれたが、James Brownのレコードの場合は試聴しなくても素晴らしい内容だということを若き天才は分かっていた。「James Brownは3週間に1枚のペースでシングルをリリースしていた。僕はすべて買っていた。自転車のハンドルにレコードの穴を通して、クルクルと回るレコードを見ながら家まで帰っていたよ」

 

ソウルのゴッドファーザーであり、ファンクの父であるBrownは定期的にスタジオに入っていた。しかし、彼の率いるバンドThe J.B.’sも同様に積極的にセッションをこなしていた。トランペットのMaceo Parker、ヴォーカルのLyn Collins、トロンボーンのFred Wesley、ギターのJimmy Nolan、シンガーのVicki Anderson、ドラムのClyde StubblefieldとJohn “Jabo” Starks、そしてシンガー/オルガンのBobby Byrdなどが参加していたこのバンドには、BrownのファンキーなバイブスがDNAに組み込まれていた。People Recordsは彼らのような才能溢れるミュージシャンたちを使ったサイドプロジェクトをレコーディングするためにBrownが立ち上げたレーベルだった。

 

Brownはそれ以前にも、Try Me Records、BrownstoneというふたつのレーベルをT.K. Recordsの創設者Henry Stoneと共同で立ち上げようと試みたことがあったが、両レーベル揃って頓挫していた。しかし、Mayfieldと同様、Brownも諦めず、People Recordsはまさに “3度目の正直” として実現されることになった。1971年に立ち上げられたこのレーベルは、当初はBrownが12歳の時に契約したオハイオ州シンシナティに拠点を置くKing Recordsがディストリビューションを担っていた。

 

 

 

こうして、Brown本人による「Escape-ism」がPeople Recordsのファーストリリースとして世に出たが、同年の晩夏にBrownはPeople RecordsのディストリビューションをPolydor Recordsに切り換え、その結果、このレーベルは5年間続くことになった。1970年代初期のブラックパワー時代は、黒人コミュニティの中に「Power to the People」というスローガンが浸透していたが、アフロを被った “ブラザー&シスター” は、People Recordsの作品にプリントされていたそのスローガンそのもののようなレーベルロゴに惹かれていった。

 

 

 

Maceo & The Macksの「Cross the Track」、The J.B.’sの「Pass The Peas」、Vicki Andersonの「Message from the Soul Sisters」など、当時のPeople Recordsはストリート向けの音楽をリリースしていた。ヒップホップグループStetsasonicのラッパー/プロデューサーのDaddy-Oはこのレーベルについて次のように説明している。「People Recordsの作品を聴くとグルーヴが感じられるし、彼らが楽しんでいたことが伝わってくるが、同時に当時の他の黒人と同じ苦しみを感じていたことも伝わってくる」

 

BrownはPeople Recordsの作品の大半でプロデューサーとしてクレジットされており、オルガンの演奏やバックシンガーとしてのシャウトとして参加する時もあったが、このレーベルに関わるアーティストたちの才能を伸ばすべく様々な実験も試みており、Fred Wesley & The J.B.’sの「Blow Your Head」でMoogのシンセグルーヴを導入したり、The J.B.’sの「Givin’ Up Food for Funk」にクールなジャズオルガンを組み込んだり、Lyn Collinsの「Take Me As I Am』にフェミニストな宣言を取り入れたりしていた。また、Sly Stone、Marvin Gaye、Stevie Wonder、Curtis Mayfield、George ClintonなどBrownの仲間たちがコンセプトアルバムを打ち出していく中、People Recordsは積極的に45回転のシングルをリリースしていった。People Recordsはその5年間の歴史の中でわずか9枚しかアルバムをリリースしていないが、シングルは60枚以上を数えている。MotownとCurtomが作曲工場と呼べるような専属チームを抱えていた一方、People Recordsに所属するアーティストたちはほぼ毎晩各地でギグをこなしながら、その隙間を縫って各地のスタジオに入ってレコーディングをこなしていたという事実を踏まえると、この数字の輝きは更に増す。

 

 

1972年の『Jet』誌に掲載されたLyn Collinsの「Think (About It)」の広告には、まるでコピーライターがPeople Recordsのシングル群がそれから10年後にサンプリングに彩られたヒップホップのサウンドスケープの基盤を築くことになることを予想していたかのように、「People Recordsは "The Original Sound of the Beginning"(新たな時代のオリジナルサウンド)であるというコピーが書かれていた。1980年代のヒップホップの黄金時代には、Spoonie Gee、Big Daddy Kane、Eric B & Rakim、Public Enemy、Stetsasonicなど数多くのラッパーたちがPeople Recordsのサウンドを再構築しながら、自分たちのサウンドに仕上げていった。Daddy-OはPeople Recordsの作品群について次のように説明している。「イントロもクレイジーだったが、俺たちが “The get down part” (本気のパート)と呼んでいた中盤も最高だった。他のレーベルがやらないことをやっていた。Princeにしろ、Parliament・Funkadelicにしろ、ヒップホップにしろ、あらゆる後発作品にはこのレーベルからの影響が感じられる」

 

The J.B.’sはBrownと金銭面で揉めたことが原因で1976年に解散し、同時にPeople Recordsも終わりを迎えた。そして、Fred WesleyとMaceo Parkerは同じく元The J.B.’sのベーシストBootsy Collinsに誘われてGeorge Clintonと組み、ファンク新時代へと向かっていった。

 

 

Uncle Jam Records

 

Uncle Jam Recordsは、宇宙船に乗ってディープスペースへ向かい、様々な聴覚的経験を経て地球へ戻ってくるという10年間の宇宙旅行を終えたグルーヴマスターGeorge Clintonによって1980年に立ち上げられた。ClintonはUncle Jam Recordsを、1960年代に一時期所属していたMotownを自分なりに表現したものと考えていた。ParliamentsのドゥワップスタイルのシンガーとしてキャリアをスタートさせたClintonは、やがてそのサウンドを異世界のものへと進化させていった。そして、その常軌を逸したコンセプト、ダダイズム的な歌詞、未来的な作曲によって、Clintonと彼を取り巻くファンキーで奇妙なミュージシャンたちは音楽業界のフリークスとして知られるようになった。

 

Clintonが率いるその「ファンク軍団」にはベースのBootsy Collins、キーボードのBernie Worrell、ギターのMike Hampton、ヴォーカルのDawn Silvaなど数多くのアーティスト/ミュージシャンが含まれており、また、Parliament、Brides of Funkenstein、Funkadelicなどを含む複数のグループはそれぞれが異なったレーベルと契約していた(ParliamentはCasablanca、Brides of FunkensteinはAtlantic、FunkadelicはWarner Brothers)。

 

 

 

"James Brownの元を去ったあと、俺たちにはThe SpinnersかGeorge Clintonのどちらかに加入できるチャンスがあった。だが、当時の俺とCatfish Collinsの服装を考えれば、The Spinnersは無理だった"

Bootsy Collins

 

 

 

1979年の段階でCollinsはClintonが自分のレーベルを始める準備を整えていること、そしてPhilippe Wynneなどのシンガーと契約する予定であることを既にメディアに伝えていた。オハイオ出身のWynneはCollinsが10代の頃に所属していたバンドPacesettersに加入していた経験があり、1970年にはThe J.B.’sのメンバーとしても一緒に活動していたが、それから11ヶ月後にJames BrownがPeople Recordsを立ち上げると、CollinsとWynneは共にThe J.B.’sを去っていた。

 

Bootsy Collinsは当時について「James Brownの元を去ったあと、俺たちにはThe SpinnersかGeorge Clintonのどちらかに加入できるチャンスがあった。だが、俺たち(BootsyとギタリストでBootsyの実兄Catfish Collins)の当時の服装を考えれば、The Spinnersのバンドは無理だった。それでPhilippeがThe Spinnersに入って、俺たちはGeorge Clintonに入ったのさ」と振り返っている。

 

1976年、Fred WesleyとMaceo Parkerを説得したBootsyは、彼ら2人にRick GardnerとRichard “Kush” Griffithの4人でThe Horny Hornsを結成させ、The Horny HornsはPファンクのすべての作品で演奏を披露することになった。また、The Horny HornsはClintonとCollinsがプロデュースを担当した『A Blow for Me, a Toot to You』(1977年)と『Say Blow by Blow Backwards』(1979年)の2枚のアルバムをAtlantic Recordsからリリースしている。

 

しかし、ClintonのマネージャーArchie IveyがUncle Jam RecordsをスタートさせるべくCBS Recordsとディストリビューション契約を結び、Clintonも「自分のMotownが生まれるぞ」と感じていた頃、この動きを聞きつけた他のレーベルが騒ぎ始めたことで、以前から “カオス” だったこのファンク集団は崩壊の道を辿り始めた。Clintonは1989年の『Uncut Funk』誌のインタビューで「CBS Recordsと契約を結んだ時、Warnerは『Clintonがあそこと動くなら、奴をこれ以上大きな存在にしたくない』って考えたのさ。俺と衝突することになるって感じたわけだ」と振り返っている。

 

CBS Recordsからアルバムごとに25万ドルの前金を受け取ることになったUncle Jam RecordsはFriends of DistinctionやEarth, Wind & Fireの元ヴォーカリスト、Jessica Cleavesと契約し、彼らが最大のヒットになると見込んでいたZappのリーダーRoger Troutmanのソロアルバム『The Many Facets of Roger』とBootsy Collinsが率いるSweat Bandの同名アルバムのリリースの準備も進めていた。

 

 

 

Bootsy Collinsは1981年のインタビューで「以前からGeorge Clintonは俺に他のプロジェクトのプロデュースをもっとやるべきだと言っていたんだ。だが、今まで俺は一切興味を持っていなかった。Bootsy’s Rubber Bandを動かし続けるためにすべての時間を割いていたからな。でも、ようやくタイミングが来たように思えた。それで俺とParliamentのギタリストMaceo(Parker)、Mike(Hampton)とスタジオに入って、Sweat Bandをスタートさせたんだ」と説明している。

 

かつてMotownとInvictus(Parliamentsの元所属レーベル)でHolland-Dozier-Hollandと仕事をこなしていた経験を持っていたUncle Jam RecordsのA&Rディレクター/作曲家のRon Dumbarが、Clintonが気に入っていたミシガン州デトロイトにあるスタジオ、United Sound SystemsでPhilip Wynneの『Wynne Jammin’』を彼と共同プロデュースした。5840 2nd Boulevardに位置していたUnited Sound Systemsは元Motown/Staxのギタリストで、元SARの所属アーティストJohnny Taylorのヒット曲「Who’s Making Love」と「Disco Lady」の作曲とプロデュースを手がけた経歴を持つDon Davisが所有していたスタジオだった。MotownのHitsvilleを思わせるこの簡素なスタジオは裏手にStudio A、表側にStudio Bというシンプルな造りで、ちょうどその頃、Roger Troutmanも自分の兄弟でZappのメンバーでもあるLarry、Lester、Terryと共にこのスタジオに入っていた。

 

 

 

Troutmanのスタジオセッション費用はUncle Jam Recordsが負担していたが、立ち上がったばかりの新米レーベルだったこともあり、契約書に本人のサインをもらい忘れていたため、アルバム完成後、Roger Troutmanはマスターテープを持ち去り、プロジェクトごとZappの所属レーベルWarner Brothersへ売却してしまった。Troutmanは1988年のインタビューで「分かるだろ? 要するにWarner Brothersが高額のオファーをしてきたのさ」と説明している。結局このアルバムは「So Ruff, So Tuff」とMarvin Gayeの「I Heart It Through the Grapevine」のカバーヒットによりプラチナディスクに輝くことになった。

 

George Clintonはこの顛末について、『New Music Express』誌上で「『The Many Facets of Roger』を失ったことで計画が狂った。この騒ぎでCBS Recordsは俺たちに対して懐疑的になってしまった」と振り返っているが、1988年の記事には、CBS RecordsはGeorge Clintonに対して怒り狂い、Clintonを詐欺だと糾弾した上でUncle Jam Recordsとのディストリビューション契約を破棄し、更にはWarner Brothersに対して訴訟を起こしたと記されている。

 

Uncle Jam Recordsの最後の作品は1983年にリリースされたP-Funk All-Starsの『Dancefloor Guerillas』で、これには再びBootsy Collins、Fred Wesley、Sly Stone、Bobby Womack、Lynn Mabryなど往年のメンバーが参加している。そして1982年にCapitol Recordsと契約したClintonは1986年に同レーベルを去ると、1980年代末にPaisley Parkと契約した。

 

 

Paisley Park

 

PrinceはTime(「What Time Is It?」)、Vanity 6、パーカショニストShelia E(「The Glamorous Life」)などのサイドプロジェクトを世に送り出し、しかも、その大半で作曲・プロデュース・演奏もこなすなど、自身の豊富な音楽性をWarner Brothers時代初期から積極的に前に打ち出していた。しかし、1984年にアルバム『Purple Rain』を大ヒットさせたあと、Warner BrothersのCEO、Mo Ostinは200万ドルを出資し、Princeに自分のレーベルPaisley Parkを立ち上げさせた。パープルカラーへの拘りと共に自由にアーティストを獲得することを許されたPaisley Parkのファーストリリースは本人による『Around the World in a Day』だったが、Family(「Nothing Compares 2 U」)、Mazarati(「100 MPH」)、Jill Jones(「G-Spot」)などにシンセサイザーを多用した楽曲もリリースしていった。尚、これらのアーティストはのちにそれぞれ1枚ずつPaisley Parkからアルバムをリリースしている。

 

 

また、Paisley Parkには、Princeの他にもRevolutionのベーシストBrownmark、元オーディオエンジニアのDavid Z、ギタリストのLevi Seacer Jr.、新人のChico Bennett、元Stax RecordsのAl Bellなどがプロデューサーとして所属していた他、PrinceのファンクヒーローだったGeorge Clinton(「Hey, Man, Smell My Finger」)も所属していた。

 

ClintonはPaisley Parkからのデビューアルバム『The Cinderella Theory』のプロモーションの一環として1989年に受けた取材の中で、ジャーナリストDavid Millsに対し「Princeは俺がやっているような奇妙な音楽を理解してくれる唯一のA&Rだ」と話している。また、Eric Leedsがサックスを担当し、Princeが他のすべてを担当したフュージョンユニットMadhouseのアルバム『8』にも、ラジオ向きのクールなクワイエットストーム/スムースジャズの佳曲が揃っていたが、ビッグヒットを欲していたWarner BrothersはClintonのアルバムも『8』もそこまで高く評価しなかった。Princeの熱狂的なファンはPaisley Parkが打ち出す、ニューウェーブ、ファンク、ジャズ、ソウルのエレクトリック・ガンボとも呼べるこのようなオルタナティブなソウル/エレクトロの包括的な響きに酔いしれたが、一般層は困惑していた。また、Sheena Eastonのヒプノティックヒット「Sugar Walls」やスペクターサウンド的アプローチのThe Banglesの「Manic Monday」など、Princeの他のビッグヒットプロジェクトがPaisley Parkに所属していないアーティストたちの作品だったこともこのレーベルの成長の妨げになった。

 

 

当時のミネアポリスサウンドはホットだったが、それもPaisley Parkのセールスの助けにはならなかった。元Paisley Park代表Alan Leedsは作家Jason Draperに対して「要するに、Princeは競争力のある作品をプロデュースする気がさらさらなかったんだ。やってはいけないレーベル運営の好例だったね」と話している。Princeのアフロエクスペリメンタルなアルバム群『Parade』、『Sign O’ the Times』、『Lovesexy』、そしてTimeの『Pandemonium』とゲストが多数参加した『Graffiti Bridge』のサウンドトラックに収録されたTevin Campbellの「Round and Round」以外、Paisley Parkはチャートヒットを1曲も生み出すことができなかった。更に言えば、Princeはアンチヒップホップを公言していたにも関わらず、当時の時代の流れを汲んでT.C. Ellisの『True Confessions』さえもリリースしたが、このアーティストはRakimよりもVanilla Iceに近いスキルしか持ち合わせなかったため、こちらもレーベルの評価を上げる助けにはならなかった。

 

そして、PrinceがWarner Brothersと揉めて自らを「会社の犬」と自虐したあとの1994年、Warner BrothersはPaisley Parkを終わらせた。現在、Prince本人以外のPaisley Parkの作品はすべて廃盤となっている。