九月 06

ベルリン:豊沃な混沌

世界から注目を集めるドイツの首都のカルチャーシーンはいかにして今の姿になったのか?

By Dennis Pohl

 

ドイツ・ベルリンには西側諸国の同サイズの都市ではまず見られない魅力的な機能不全感が備わっているが、この都市の2つの大きな特徴が、その機能不全を “豊沃な混沌” に変えている。

 

ひとつ目は、ベルリンは、東西ドイツの再統一が行われてから約30年が経った今もヨーロッパで2番目に物価が安い大都市(1位はリスボン)でありながら、EU最大の経済力を持つ国の首都として機能しているという点だ。ベルリンの平均収入はドイツ全体の平均収入よりも低いが、地価や家賃も比較的安いため、労働時間を減らして自分の時間を増やすというオルタナティブな働き方を試せる時間的自由が存在する。

 

2つ目は、ベルリンには使われていない土地がまだ大量に残っているという点だ。これは、ベルリンの中心部の面積がパリのそれの約8倍であるにも関わらず、現人口が第2次世界大戦時よりも少ないという事実が部分的に関係している。

 

この2つの特徴が、活気溢れるカルチャーシーンを生み出すためのパーフェクト・フォーミュラを提供している。ベルリンには、誰もが等しくクリエイティブな実験を行える環境の創出には欠かせない "大量の時間と空間" があるのだ。言い換えれば、この都市には、今や世界的に有名な “76時間レイブ” が開催できる空間があり、住民にはそれを企画し、参加するだけの時間があるというわけだ。

 

当然ながら、このような都市のベルリンは、いくつかの羨ましい数字を実現している。2018年現在、ベルリンには、200の美術館とアートスペース、約400のギャラリー、7つのプロフェッショナルオーケストラ、27の劇場用楽団などが存在し、このような公式データの数々が、このような業種に必要な人材をこの都市に集めている。

 

また、2011年の政府報告書には、ベルリンの96行政区には約2万人のプロフェッショナルアーティストが住んでいると記されていた。これは、ベルリンの “普通の仕事” に就いている人に対するアーティストの人口比率は、ドイツの平均比率の2.5倍に相当することを意味している。

 

 

ベルリナー・ルフト

 

では、ベルリンはいかにしてこのような “カジュアル・クール” のグローバル・ベヘモスと呼べる存在になったのだろうか?

 

この都市の変化にまつわる会話の多くは不満が募るレベルで踏み込みが浅く、歴史的な出来事だけに焦点を当てた通説、つまり、「壁が崩壊して、誰かが奇跡的にテクノを見つけ、Berghainが誕生しました」という説に頼っている。しかし、言うまでもないが、そんなに簡単に進んだわけではない。実際、我々が知っている “今のベルリン” の真の始まりは、テクノが生まれる約100年前、ビスマルク時代まで遡ることができる。

 

 

 

“西ベルリンは全てが白紙に戻った都市で、誰もが自分のやりたいことをやれた。経済的なプレッシャーに従う必要もなかった”

 

 

 

ベルリンは、19世紀後半の時点ですでに “逃避先” だった。皇帝からの圧力は常に感じられたものの、当時のベルリンには旅行者や住民に “ベルリナー・ルフト / Berliner Luft” についてあれこれと夢想させる雰囲気が備わっていた。

 

この時代を代表するジャーナリスト / リリシストのKonrad Albertiは1889年、“ベルリナー・ルフト” について「興奮気味に揺れているベルリンの空気」と表現し、「アルコールやモルヒネ、コカインのように作用し、強烈な興奮と刺激、弛緩をもたらしてくれる」と続けていた。ベルリンはこの頃からすでに世界的に有名なブランド − “楽しい時間を過ごす場所” − として成立していたのだ。

 

それから数十年後、ベルリンのその放蕩感はさらに悪化(もしくは “良化” / どう捉えるかによって変わる)した。

 

第1次世界大戦後に起きた経済危機がベルリンにインフレ、貧困、絶望をもたらしていた。実は、あの華々しい「黄金の20年代」も、モラルの劣化と社会の退廃によって盛り上がったところがあった。

 

戦争寡婦はもちろん、当時の誰もが、ドイツマルクに貨幣価値がほとんどなかったにも関わらず、現金を手に入れるためにどんな仕事にも手を出すようになっていた(1920年代のある時点で、米国ドルとドイツマルクの為替レートは「1米国ドル=4兆ドイツマルク」を記録していた)。また、クアフュルステンダムの1マイル四方は、想像できる限りの人間の欲望が確認できるショーケースと化しており、妊婦の風俗労働者などが集まっていた特殊風俗施設、Eldoradoには、クロスドレッサーたちの姿も確認できた。

 

この結果、ベルリンにはヨーロッパ各地から退廃主義者たちが大挙するようになった。極度のインフレも後押しし、ベルリンへ向かえるだけの金銭とここでなら楽しめるフェティシズムを持っている誰もがこの都市を目指した。当時のベルリンは、easyJetが登場する前のKitKat Clubをさらにワイルドにしたような雰囲気だった。

 

それから約5年後、ナチスがベルリンの全クラブを強制的に閉鎖し、クィアコミュニティを全廃させると、最後にはベルリンを史上最悪の壊滅状態へと追い込んだ。1945年を迎えた頃、ベルリンは完全な焼け野原と化していた。爆撃により中心部の80%が破壊され、住民たちは飢餓に苦しみ、また、連合軍と赤軍の激しい戦闘に巻き込まれて傷ついた。

 

 

 

はみ出し者の楽園

 

第2次世界対戦後に建国されたドイツ民主共和国(東ドイツ)の中に飛び地として残った西ベルリンは、東側に堂々と突き立てられた “中指” として機能したが、経済面の好転はほとんど期待できなかった。

 

非常に厳しくて悪意のある税関を通過する必要があった西ベルリンへの進出を考える企業はほとんどいなかった。さらに言えば、西ベルリンの住民の大半は兵士か以前から住んでいた高齢者だった。また、表面上は “出入り自由” とされていたが、実際は全く違った。

 

上記の理由から西ベルリンが “砂漠化” の危機に瀕していたことを受けて、ボンの西ドイツ政府はいくつかの “餌” をまいて、国民をベルリンへ移住させようとした。1963年から西ドイツ政府は西ベルリンに移住した国民に補助金を与えることを決定。また、西ベルリンがベルリン協定上は連合国側の統治下にあったこともあり、移住者には当時義務だった18ヶ月の徴兵を適用しないという条件も付けた。

 

では、このような政策に興味を持ったのは誰だったのだろうか? 答えは、西ドイツの変人、クィア、社会不適合者、危険人物たちだ。

 

 

 

“鉄のカーテンによって冷酷に区切られた土地での生活がベースだったベルリンは、閉所恐怖症と楽観主義が併存するリアルディストピアだった”

 

 

 

ベルリンのカルチャーシーンが時として “絶賛準備中” に見えることを不思議に思ったことがあるかもしれないが、その理由は、その礎がこの頃に作られたからだ。西ベルリンは文字通りの “スタートアップ” だった。しかし、社会や環境への影響無視した貪欲で資本主義的な、現代の意味合いでの “スタートアップ” ではなかった。

 

当時の西ベルリンは全てが白紙に戻った都市で、誰もが自分のやりたいことをやれた。経済的なプレッシャーに従う必要もなかった。当時の家賃は雀の涙ほどで、クロイツベルクは特に安かった(ちなみに現在のクロイツベルクはベルリンで最も家賃が高いエリアのひとつとして知られている)。市民の生活の中心はParkやDschungelのようなナイトクラブに置かれていた。アマチュア感覚が強く、自分たちでやろうという雰囲気があった。鉄のカーテンで冷酷に区切られた飛び地でのこのような日々によって、ベルリンは閉所恐怖症と楽観主義が併存するリアルディストピアとなっていた。

 

上記のような特徴がDavid BowieやIggy Popのようなロックスターをベルリンに引きつけることになり、1970年代後半、彼らはシェーネベルクのハウプトシュトラーセ沿いにアパートを借りて生活を始めた。夜はプログレッシブなバンドのライブを楽しみ、早朝はノーレンドルフプラッツ駅付近に並んでいたゲイバーで迎え酒をあおっていた。

 

またこの頃にはクロイツベルク周辺では活気あるパンクムーブメントが生まれ、様々な刺激的なバンドや、Monika Döringのようなベルリンのカルチャーシーンを代表する人物たちの登場を促した。Döringは1980年代にシーンの勢いに乗って伝説のヴェニューLoftを立ち上げたことで知られており、Loftでは、Tuxedomoon、Run D.M.C.、Wire、Cocteau Twins、Diamanda Galásなど、今でこそ誰もが知っているが、当時はまだほぼ無名だったインターナショナルアーティストたちが出演していた。Döringは自分のクラブを19世紀のサロン、つまり、誰もが自由に寝食を共にできる開かれた空間に仕立て上げていた。

 

当時のベルリンのこのシーンは、やがて世界各国に活気あるカルチャーシーンが生まれるきっかけとなった。少なくともロンドンとニューヨークでは、環境は違うものの、当時のベルリンから影響を受けたシーンが生まれることになった。しかし、1990年代後半を迎えるまでに両都市は地価の高騰やカルチャーハブとしての成長が生み出す数々の “副産物” に徐々に苦しむようになっていった。

 

ベルリンは違った。

 

 

DNAレベルの “アンダーグラウンド”

 

1989年にベルリンの壁が崩壊すると、東ドイツに存在していたクリエイティブなシーンの存在が明らかになったが、東ドイツのシーンにはある種の秘密主義が強制的に備わっていた。

 

東ドイツのアーティストたちは、アンダーグラウンドな作品を全力で “キープ・イット・アンダーグランド” しなければならなかった。東ドイツの秘密警察・諜報機関、通称シュタージ(Stasi)は冷酷無比なことで知られており、しかも、どこにでもいたからだ。長い時間の中で、この状況が彼らに「秘密の場所を見つけて自分たちがやりたいことをやるための創意工夫」をさせるようになった。

 

東西のカルチャーシーンの突然の邂逅は天賜となった。しかも、東西統一には、当時は誰も使い道を思いつかなかった幾千もの廃墟を彼らに提供するというボーナスも付いていた。この状況が、BunkerやTresorなどのクラブが繁栄できる環境、あらゆる社会不適合者が自分の居場所を見つけられる環境を生み出した。

 

しかし、ベルリンのこのストーリーはどういう結末を迎えるのだろうか? 「ベルリンはとうの昔に “クール” を通り越してしまったのでは?」と思っている人がいるかもしれない。

 

確かに、トライ&エラーを贅沢に繰り返せたあの日々は遠い昔のように感じられる。現在のベルリンは、世界最速で家賃が高騰している首都で、名産だったテクノも世界各地でフォークロア化している。また、今もまだ探求心とDIY精神を維持するための様々な努力が行われているが、この都市のクリエイティブシーンはより確立されたものへと自然進化を遂げている。

 

それでも、クリエイティブな人材のベルリンへの流入はまだ止まっていない。また、空間についても、まだ大半が手つかずの郊外周辺には空き地が大量に余っている。しかし、もちろん、“ベルリナー” を名乗る人たちはこのような事実を認めないだろう。彼らの多くは、自分たちの住む都市が疲弊していると考えている。“最高の時代は過ぎ去った” という奇妙な総意と共に、現在のベルリンをただ闇雲に称賛する向きへの無関心、または拒否を示している。

 

1980年代からベルリンに住んでいるベテラン、2年前に住み始めたばかりの学生を問わず、この都市に住む誰もが黄金時代は終わっており、自分たちはそれをほんの少しだけ味わっただけだという感覚を持っている。しかし、この “終わった” は、何を意味しているのだろうか? おそらくこの “終わった” は、決して逃げることができない “生来の自分” によって “なりたい自分” というファンタジーが崩れ去ったことを意味しているのだろう。

 

このように仮定すると、ベルリンをある程度楽しんできた人たちから見ればこの都市が “終わっている” というのは良く理解できる。しかし、そのファンタジーがまだ心の中に生きている人たちから見れば、クリエイティブな人材の流入はまだ終わっていない。新しいプロジェクトが定期的にあらゆる場所で立ち上がっている。そして、幾度となくこの都市の進化を促してきた要素、つまり、時間と空間はまだ大量に残っている。

 

これらに新世代のクリエイターたちや都市としての未来を加味すれば、ベルリンは我々が知っているベルリンとは異なる都市になるのかもしれない。しかし、ベルリンが “終わる” ことはまだしばらくないだろう。

 

 

Header Image:© Gaurab Thakali