八月 12

インタビュー:
Arthur Brown

The God of HellfireことArthur Brownが自らの半生について語った。

By Red Bull Music Academy

 

The God Of HellfireことArthur Brownは1968年のサイケロック「Fire」のヒットでブレイクしたアーティストだ。ちなみにこの曲はOzzy OsbourneやThe Whoにカバーされた他、The Prodigyがサンプリングしたことでも知られている。Pete Townshendのアドバイスを受けTrack Recordsと契約したBrownは、ファーストアルバム『The Crazy World Of Arthur Brown』をリリースし、一気に世界的な人気を得た。尚、火のついたヘルメットをかぶるなど、彼が繰り出した大げさでシアトリカルなパフォーマンスは、彼に対する安全性が考慮されていなかった。

 

Brownの特徴だった優れた楽曲、神話的なストーリー性、奇想天外なパフォーマンスは、新しいタイプのロックスターを生むことに繋がり、Alice Cooper、George Clinton、Kissなどに大きな影響を与えた。またBrownはソロ活動の他に、HawkwindやThe Alan Parsons Projectなどとの共作も発表しており、現在でもロック史における重要なアーティストのひとりとして 強い存在感を放っている。今回は1970年代前半にメジャーロックバンドとして初めてドラムマシンを使用した経緯や、LSDの影響で実現しなかったJimi Hendrixとのバンド結成などについて語ってくれた。

 

 

イギリス北部での幼少期について

 

50年代、60年代のイギリス北部は暗鬱としていた。清潔感は無く、至るところが石炭、鉱山、重工業から出たススにまみれていた。俺が育ったのはリーズとウィットビーだ。ウィットビーは好きだったね。あそこはかつてバイキングが立ち寄った港町で、またBram Stoker(ブラム・ストーカー)がベンチに座って海を眺めながらブランデーを飲み、『ドラキュラ』を執筆した町としても知られている。

 

当時が生活だったかを説明すると、元々は、俺の祖母が港を見下ろせる場所にホテルを経営していたんだが、そのホテルは俺が生まれた頃に空襲を受け、壊されてしまった。直撃を受けた時、俺たちは地下室に逃げ込んでいたから助かったんだが、その空襲が終わった後、ホテルの状態を見たメディアの奴らは、俺たちが死んだと報道した。俺たちは地下にいたんだが、奴らは壁やらすべてが破壊されたホテルだけを見たのさ。だから俺たちは生き返ったと思われた。あれは面白かったね。

 

凄く不思議な町だった。何故なら暗い裏道が沢山あったからだ。雨が良く降り、強風が吹く季節があり、船が出入りし、ロバが砂浜を行ったり来たりしていた。多くの人たちが、戦争の英雄だったCaptain Webb(ウェッブ大佐)の元へ訪れた。彼はタバコをくわえて火をつけると、それを吸い、火のついている方を口の中へ入れた。そして水に飛び込むと1分間ほど水中にいて、それから水面に顔を出すと、口を開けてまだ火のついたタバコを取り出したのさ。みんなそれを喜んで見ていた。その芸を見に、遠くから沢山の人たちが訪れていた。

 

俺はリーズの高校へ通ったが、教師が全員元陸軍だったので、ライフルを抱えて行進させられた。狙撃兵になる訓練も受けたが、ある日もう我慢できないと思った。その頃、丁度音楽のシーンが生まれていた。Elvis Presleyが流行っていた頃で、俺もみんなと一緒に映画館の通路で踊っては外に放り出されていたね。

 

 

パリについて

 

パリはワイルドだったね。1960年代に演奏したパリのクラブには巨大な印象主義の天使が描かれていた。Bus Palladiumというクラブで、客は400m程の長い列を作って並んでいたよ。丁度UK産R&Bが流行り始めた頃で、俺はタイミングよくシーンに加われたからラッキーだった。テレビ出演もしたから、多くの人が見に来てくれたのさ。

 

演奏を終えると、大抵は朝の8時までそのままピンボールに興じていたが、ピンボールで遊ばない日は、みんなで仏教について話し合った。フラワーパワーが生まれつつあったからだ。そのクラブには様々なバンドが演奏しに来ていてね。後にDavid BowieとしてデビューするDavy Jones & The Lowerなども演奏していた。

 

演奏にシアトリカルな要素を取り入れ始めたのはパリからだった。それ以前にUKでも断片的に試してはいた。「眠れ、眠れ。処女を泣かせろ。変態どもが徘徊し、虫がトイレを蠢き回る」 - こんなセリフを入れていたんだが、客は喜んだよ。当時俺たちはパリで毎晩3ステージをこなしていた。日曜の午後も演奏していた。新曲をリハーサルする時間もないし、毎回同じことを繰り返していることに俺は飽きてしまった。だから本番の時に長時間のインプロを行うようになった。それで俺はセリフをアドリブで入れるようになり、店内を歩き回ったり、店のモップを使って自由の女神の真似をしたりするようになったのさ。

 

その頃、シャルル・ド・ゴール大統領がフランスに入国する人は短髪でなければならないという法令を提案した。だから俺たちはローマ法王がド・ゴール大統領の髪を切るという演出をしたんだが、これが客に受けた。またある時、母親に連れられた7歳位の少年が、俺を見て「歯を黒く染めた方がいい」と言ってきた。俺は「何だ、そりゃ?」と思ったが、次の日のステージで歯を黒くしたら、客があっと驚いた。だからメイクアップするのはアリだと思ったのさ。そしてその数週間後、派手にパーティーをした後で、ホテルの部屋の外にキャンドルを灯したピエロがいるのを見つけた。俺はその衣装を借りて火を灯してみた。これがきっかけであのヘルメットのアイディアが生まれたんだ。

 

 

The God of Hellfireが生まれた経緯について

 

俺は以前から炎に興味を持っていた。昔、兄と俺で寝ている祖父の髪に火をつけて、髪が燃えるのが確認しようとしたとことがあった。実際火がついたが、これは良い子は真似してはいけない。酷い行為だし、相手にぶん殴られる可能性が高い。俺はただ火が燃えるのを見ているのが好きだった。火は俺たちの世界を構成する基本要素のひとつで、俺たちに大きな影響を与える。基本に戻れるのさ。

 

アルバム制作では、とにかく内面を探る旅のような作品にしようとした。俺の家族は戦争で軽くPTSDにかかってしまい、少し疲れていたんだが、俺が小さかった頃、父親がある男を連れてきて、「この人が心を空っぽにする方法を教えてくれる」と言った。俺が12歳の頃だったと思うね。それで俺は中学に上がる頃には、それを繰り返し行うようになっていたのさ。だから歌詞を書く時も、俺は車や飛行機や女の子や愛について書く気はなかった。

 

「自分の内面の旅について書こう」と思ったのさ。アルバム『The Crazy World of Arthur Brown』は「Nightmare」という曲から始まるが、このアルバムは世界を悪夢のようだと感じた男が、内面を探り、火の飛び込むという話だ。そして火に飛び込んだ後、様々な存在と出会うことになる。俺は「何かに出会うなら、その中に神もいるかもしれない」と思った。それで生み出されたのが、「The God of Hellfire」という存在だった。

 

 

Jimi Hendrixについて

 

Jimi HendrixもTrack Recordsと契約していたので、俺たちはよく一緒に演奏した。当時は他のミュージシャンとジャムができる、Singing Clubという場所があったんだ。Hendrixは主にベースをプレイしていて、あまり歌わなかった。あいつは自分の声が嫌いだったのさ。俺がヴォーカルを担当し、Hendrixがベースを演奏したが、長い時は50分位も演奏を続けた。別に「曲」を演奏していた訳じゃない。単純に頭に思いついたことを演奏しているだけだった。

 

彼と過ごした時間は特別だった。楽しい思い出が多いね。それから約1年後、俺はHendrixにLAのホテルへ来いと呼び出されて、「バンドを一緒にやろう。お前のバンドのキーボードを入れて、The Experienceと名乗り、お前が歌を入れて、映像も流すんだ。巨大なスクリーンに映像を写し、Wagnerの演奏をBGMで流そう」と言われた。彼はクラシックの作曲家のファンだった。たとえば、John Coltraneも西洋の音楽をすべて試した後、自分のルーツはもっと深いところにあると考え、インド音楽まで遡ったが、Hendrixも同じで、ブルースやジャズを探求した後、クラシックに辿り着いたのさ。生きていれば最終的にはエスニック系まで遡っていただろうね。

 

バンドに話を戻すと、残念ながら俺のバンドのキーボードは素晴らしいプレイヤーだったが、躁鬱病だった。そして治療を止めた後に、誰かの手引きでLSDに手を出してしまい、半年精神病院に入ってしまった。それでバンドの計画は消えてしまったんだ。

 

 

『The Crazy World of Atrhur Brown』以降について

 

『The Crazy World of Arthur Brown』に関しては、Clive Davis(クライヴ・デイヴィス)がプロデュースしようと言ってきた。彼は収録曲の中の1曲がビッグヒットになると考えていて、約60万ドルをバンド側にオファーしてきた。60万ドルは当時では大金だった。その話を聞いて、Track RecordsのLambertとStampがすっ飛んできたよ。当時俺たちは全員同じホテルに泊まっていて、Clive Davisの部屋から5階下にLambertとStampの部屋があった。だから俺はそこを行ったり来たりする羽目になった。

 

その後、俺はバンドメンバーのCarl Palmer(カール・パーマー/ドラム)とVincent Crane(ヴィンス・クレーン)にClive Davisからのオファーを断ったと伝えた。彼らはバンドを去って、Atomic Roosterを結成したよ。そしてUKに戻った俺は、コスチュームを着たり、演劇じみたライブをしたりするのはゴメンだと思った。それで今度は俺が裸で歌う、即興のみのバンドを結成した。素晴らしいライブを期待して来る客が多かったが、彼らの期待には応えられなかったね。

 

その後、照明とベースを兼任していたDennis Taylorと共にグラストンベリーへ行き、新バンドを結成することにした。Kingdom Comeという名前で、シアトリカルで実験的な音楽を演奏するバンドにした。内容はプログレッシブで、今でさえ評価が高いが、当時は全く評価されなかった。そして3年目に「ドラマーはいらない。ドラムマシンを入れよう」と思い、Bentley Rhythm Aceを導入したのさ。

 

俺たちはリズムマシンにドラマーっぽい演奏をさせないように意識した。ポップの新しい方向性を示すようなパーカッシブなサウンドとして扱おうとしたのさ。当然ながら、当時はみんなに笑われた。ライブでは俺があらかじめ録音したテープを流しているのか、それとも裏で誰かがドラムを叩いているのではないかと言われたよ。世間が俺たちに追いつくまでに4、5年はかかったね。