九月 20

ベルリンミニマル 1998-2008

ドイツの首都のポストLove Parade期を定義づけた “削ぎ落としの美学” を当事者たちが振り返る。

By Joshua Glazer

 

1998年、東西統一後のドイツを虜にしたレイブシーンはピークを迎えていた。

 

壁崩壊後の旧東ドイツ側のまさに “アンダーグラウンド” だった地下スペースから始まったそれはメインストリームへ進出しており、ドイツ全土の何百万もの若者たちがカラフルなエレクトロニック・ダンスミュージックを祝福していた。しかし、ミレニアムが近づく中、当時の多くの人たちが頭の中に思い描いていた “テクノユートピア” はすでに崩壊が始まっていた。このトレンドは、皮肉なことに、10年前に共産主義体制を崩壊させた資本主義グループの仲間によって速やかに接収されていた。そしてすぐにバブルがはじけ、ダンスミュージックに本気で自分を捧げていた人たちの多くは、それをいちから立て直す必要に迫られることになった。

 

その結果として生まれたのが、過剰に過剰を掛け合わせたレイブとは真逆に位置する、サウンド・ヴィジュアル・ファッションにおけるミニマリスト的美学を理想に掲げるムーブメント、レイブの飽くなき熱狂を否定し、よりサステイナブルなものを好むライフスタイルだった。

 

それは確かにサステイナブルだった。1トラックがヴァイナルの片面を埋め、パーティは数日間も続いた。

 

ベルリンはこの新しいクリエイティブコミュニティの中心となり、世界中のテクノファンやテクノ実践者たちを引き寄せた。パーティのためにやってきた彼らは、安い家賃と簡単に取得できるアーティストビザが提供する気楽な生活を気に入りそのまま居残った。そして “ミニマル” はこのシーンのバズワードとなった。

 

自由気ままで終わりのない時間外営業には贅沢さがふんだんに感じられたものの、当時のベルリン市長Klaus Wowereitの掲げたスローガン “arm, aber sexy / 貧しいがセクシーだ” ほど、当時のベルリンの魅力を正確に表現している言葉はなかった。

 

現在のベルリンには、20年前のような家賃100ユーロの物件は存在しないかもしれないが、今でもインディペンデント精神を備えたミュージックコミュニティを抱えている。世界中の都市から羨望の眼差しを集めているこのコミュニティは、サウンドの純粋さを失わずに収入源の主力としてベルリンを世界的な観光都市に押し上げている。

 

ベルリンミニマルテクノの誕生から20年が経った今、Richie Hawtin、Ellen Allien、Break 3000などを含む、かつてのベルリンを定義づけた “ミニマルの10年” の創出に力を貸したDJやプロデューサー、レーベルオーナーたちに話を聞いた。

 

 

登場者(発言順)

 

Heiko Hoffmann:ベルリン出身。『Groove』エディター

 

Ellen Allien:ベルリン出身。DJ / プロデューサー。1999年にBPitch Controlを設立。

 

Ralf Kollman:フランクフルト出身。DJ。2004年にベルリンでMobilee Recordsを共同設立。

 

Richie Hawtin:カナダ出身。DJ / プロデューサー。M_nus Records設立者。

 

Philip Sherburne:ヨーロッパ在住米国人ジャーナリスト。The WireやPitchforkでミニマル系記事を執筆。

 

Break 3000:オランダ出身。DJ / プロデューサー。2004年にベルリンでDirt Crew Recordingsを設立。RBMA卒業生。

 

Clark Warner:M_nusレーベルマネージャー(1998年 - 2007年)

 

 

 

【克服】

 

1997年、ベルリンで毎年開催されていたLove Paradeは150万人を集めピークを迎え、その二日酔いがパーティキャピタルとしてのベルリンを再定義へ向かわせることになった。ベルリンがこのような瞬間を迎えたのはこれが始めてではなかった − 

 

Heiko Hoffmann

1949年に米軍がベルリンの夜間外出禁止令を廃止したんだ。自分たちがいかにリベラルで先進的なのかをロシア軍へ見せつけるためにね。これが、1970年代のIggy PopやDavid Bowieをこの都市に引きつけることになった。際限なく遊ぶことができたからさ。

 

Ellen Allien

ミニマルのオリジナルはKraftwerkね。色々な音が詰まっている陽気な音楽は私にはトゥーマッチだった。そういう音楽は無意味だったし、錯乱しているようにさえ感じたわ。Kraftwerkがわたしの聴覚に「Less is More / 少ない方が良い」という美学を教えてくれた。

 

Heiko Hoffmann

1980年代にベルリンで10代を過ごすっていうのは完全にイケてなかった。少なくともポップカルチャーにおいてはね。当時のティーンエイジャーから見たら、ベルリンは興味深いことがほとんど何もない、ひたすらグレーの都市というイメージだった。

 

Ellen Allien

わたしが知っているベルリン初のテクノレーベルはTresorとBasic Channelよ。

 

Ralf Kollman

ベルリンの壁が崩壊したあとの話はみんなが知っている通りさ。アンダーグラウンドテクノのムーブメントが起きて、Love Paradeが立ち上がって、Maydayが始まって、全てがコマーシャルになった。それで1996年、1997年頃、僕はシーンに背を向けたんだ。テクノはありとあらゆる場所に存在していた。テレビ番組や雑誌など、どこにでもあった。完全にセルアウトしていた。

 

Ellen Allien

当時はベルリンのDJをブッキングしようなんて動きはなかった。ロンドンが呼ぶなんてことはまずなかったわ。

 

Heiko Hoffmann

1990年代初頭のベルリンにはトップDJが数人いた。でも、当時リリースされていたトラックの大半はフランクフルト発で、残りもケルンかミュンヘン発だった。ベルリン発の音楽と言えば、Paul Van DykやEnergy 52のような初期トランスか、Basic Channelだった。そのくらいしかなかった。

 

Richie Hawtin

僕はMike Inkとケルンサウンドのリズミックなアプローチに刺激を受けた。Basic Channelとベルリンサウンドに関しては、その豪快なノイズとエフェクトの使い方に刺激を受けたね。

 

 

 

 

Heiko Hoffmann

1990年代を通じて、ベルリンのシーンはローカル色が非常に色濃かった。たとえば、WMFやE-Werkのようなクラブには、毎週のように同じメンツが集まっていた。

 

Richie Hawtin

ドイツには小都市にもテクノクラブがあった。ドルトムント、マインツ、ハノーファーのようなサイズの都市にもね。そして、こういう都市の方が、大都市よりも色々なことが起きていた。これは非常に重要なポイントだ。というのも、今のベルリンを語るなら、過去20年の間にドイツ全土で積み重ねられてきたこのような基礎部分について理解する必要があるからさ。

 

Ellen Allien

1990年代後半に多くのクラブがクローズした。それで、自分たちで色々やるようになったのよ。イベントをオーガナイズしたり、レーベルを立ち上げたりね。シーンの崩壊がわたしにDIY精神を教えたのよ。自分でやらなきゃ全てが消えてしまうってことをね。

 

 

 

【再生】

 

ミレニアムが近づき、グローバルシーンが縮小していく中、新世代のアーティストたちがベルリンに移住し、レイブ的多幸感を否定するサウンドを生み出すようになった − 

 

Heiko Hoffmann

Ostgutがオープンしたのは1998年だったと思う。基本的にはゲイクラブで、とてもダークだった。あの当時から彼らにはすでに何か新しいことを起こしている感じがあった。

 

Ralf Kollman

新しいアンダーグラウンドシーンが生まれようとしていた。その中心にいたのがTobi Neumann、Luciano、Ricardo Villalobosたちで、彼らはエレクトロニック・ミュージックに新しいバイブスを持ち込んでいた。この頃に、誰かがこのシーンを “ミニマル” と名付けたんだ。

 

Philip Sherburne

メロディは少なく、繰り返される液体的なグルーヴがじんわりとリスナーに浸透していくような音楽だった。変化しない固定されたリズムパターンが、ミニマルのシグネチャーになった。

 

Heiko Hoffmann

音楽面で最も重要な出来事だったのが、Ricardo Villalobosのベルリン移住だった。アルバム『Alcachofa』や収録されている「Easy Lee」などの一連のトラック群は、彼がベルリン移住後に作った初期作品群の一部だった。

 

 

 

 

Break 3000

Ricardo Villalobosのトラックは10~20分ほどの長尺で、非常にミニマルだ。ほとんど何も起きない。これが他とは完全に違っていた。まさにサウンド・オブ・ベルリンだった。彼によってベルリンは初めて自分たちのサウンドを手に入れたんだと思う。

 

Philip Sherburne

永遠に没入できる感じだ。クレッシェンド的なブレイクやドロップはひとつも入っていない。

 

Break 3000

多くのプロデューサーがベルリンへ移り、全てが変わった。HighgradeやMobileeのようなベルリン発のレーベルもミニマルをリリースしていたが、このシーンの中で最大の存在だったのは、Perlon(編注:フランクフルト発。のちにベルリンへ拠点を移す)とRichie Hawtinが率いるM_nusだった。ミニマルのメジャーレーベルのような存在だった。

 

Richie Hawtin

M_nusをベルリンで動かしていくという決断は、僕の中ではとても重要だった。M_nusをベルリンに置いたことで、当時のベルリンで起きていることに多くの所属アーティストがインスパイアされた。ドイツ人の仲間もベルリンで長い時間を過ごすようになっていたし、Ricardo(Villalobos)周りもベルリンにいた。あのクリエイティブな爆発への参加は理に適っていたんだ。

 

Clark Warner

ベルリンは急速に世界中から人が集める “世界の中心” に姿を変えていった。南米、中米、北米、イングランド… 住んでいる場所は問わず、全ての人にとってベルリンは目指すべき場所になった。

 

Philip Sherburne

Gabriel Coutu-Dumont、Deadbeat、Mike Shannonなど、Mutekのコミュニティも揃ってベルリンへ移っていた。

 

Heiko Hoffmann

アーティストをベルリンへ移住させる要因となった当時の大きな社会変化が、格安航空会社の登場だった。それまでは、ベルリンから他のヨーロッパの大都市へのフライトはかなり高額だった。ヨーロッパを毎週飛び回っているようなベルリンのDJたちは、必ずフランクフルトやミュンヘンで乗り換えなければならなかった。格安航空会社の登場は、ヨーロッパのほぼ全土に住む旅行者が簡単にベルリンへ向かえるようにしたけれど、同時にベルリンに住むアーティストたちが簡単に外へ出られるようにもしたんだ。

 

 

 

【圧縮】

 

ミニマルコミュニティが生まれ、成長を続けていく中で、新しいクラブとパーティではアーティスティックな境界線と持久力が試されていく − 

 

Ralf Kollman

 

全員に十分なスペースがあったし、お互いをサポートするプロモーターも沢山いたし、みんな外に出て音楽を楽しんでいた。ベルリンのクラブカルチャーが上手く発展したのはこれが理由だと思う。ベルリンとは全く逆の都市があることを僕は知っている。競争は生活を複雑にするだけだ。そういう都市は何も成長しないし、何も発展しない。

 

Richie Hawtin

ギグの予定がなくて週末を自由に過ごせた時は、ベルリンに戻ってBeat Streetに顔を出していた。クリエイティブなインスピレーションをチャージしていた。

 

Heiko Hoffmann

Ostgutが2003年にクローズしたあと、Beat Streetがその穴を埋めたんだ。Ostgutに頻繁に通っていた多くの人たちが、あそこでプレイされていたような音楽を欲していた。だから、Beat StreetはOstgutのレジデントDJや、バーやドアのスタッフを数多く抱えていたんだ。彼らが、Berghainがオープンするまでの2年間を支えたのさ。

 

 

 

"ひと晩中踊り続けていた連中と踊りにきたばかりのフレッシュな連中が一緒になっているパーティを初体験したのがこの頃だった"

Philip Sherburne

 

 

 

Philip Sherburne

ひと晩中踊り続けていた連中と踊りにきたばかりのフレッシュな連中が一緒になっているパーティを初体験したのがこの頃だった。そのコントラストとダイナミズムに驚嘆したよ。これが、その後何年にも渡りベルリンを有名にすることになったんだ。サンデーアフタヌーンの儀式さ。

 

Richie Hawtin

太陽が差し込み、友人やオープンマインドな人たちと一緒にパーティを楽しんでいるサンデーアフタヌーンでは、何かが隠されるようなことはなかった。最高のミックスが聴ければ、最低のミックスも聴けるし、古いレコードも新しいレコードもプレイされる。血と汗と涙というかね。状況が絶えず変化しながら長時間続くし、実験する時間帯やレコードで雰囲気を変える時間帯、ミックスで雰囲気を変える時間帯などが必ず来た。

 

Break 3000

DJは6~8時間プレイしていた。15~20分続くトラックがあったし、数トラックを使いながら、1時間で大きなひとつのトラックを生み出していった。

 

Richie Hawtin

みんながB2Bをやり始めるようになったのもこの頃だった。そこにはエゴも何もなかった。「1トラックずつプレイしよう」、「2トラックプレイしたい? OK。それなら僕はその間にトイレに行くよ…」、「ごめん、1時間も経ってた。ちょっと邪魔が入ってさ」なんて感じだった。

 

Ralf Kollman

この頃、Watergate、Berghain、Club der Visionaereなど、新世代のクラブが一斉にオープンしたんだ。あと、Bar 25を取り巻くムーブメントもかなり重要だった。

 

Break 3000

Bar 25はミニマルシーンにとって非常に重要な存在だった。いわゆる “ミニマル” がプレイされていた。いつも日曜日に遊びに行っていたよ。月曜の朝まで遊ぶこともあったな。こういう遊び方をしても誰も気しない都市はベルリンだけだ。

 

 

 

"当時のミニマルに新しいフォームで復活して欲しいというニーズはある。なぜなら、今のシーンを支配している音楽への回答になるからさ"

Heiko Hoffmann

 

 

 

Heiko Hoffmann

Bar 25のサウンドシステムは低音が全く出なかった。お粗末なサウンドシステムだったよ。

 

Break 3000

ひたすらビートが鳴っているだけだった。それで、ハイハットが入ってくるとフロアが叫ぶんだ。ハイハットが鳴っただけでさ!

 

Philip Sherburne

あとはもちろん、Club der Visionaereもあった。ここは色々な意味で、ベルリンのミニマルシーンのグラウンドゼロになったんだ。

 

Break 3000

Watergateは、オープン当初はドラムンベース寄りのクラブだったんだけど、数年で本格的なミニマルクラブに進化した。

 

Heiko Hoffmann

年1回のペースで、Groove主催のパーティをWatergateで開催していた。ある年にRichie Hawtin、Sven Väth、Ricardo Villalobosが揃って出演したんだ。ブリュッセルで足止めを食っていて、このままじゃ間に合わないと思ったRichie Hawtinは、ブリュッセルからタクシーでやってきてプレイしたんだ。自腹を切ってね!

 

Philip Sherburne

Watergateは、ある意味テクノツーリストに優しいクラブだった。随分長い間、僕もそのひとりだった。

 

Clark Warner

やがて、ただ騒ぎに来るような客、カルチャーをリスペクトしない客を追い払う必要が出てきたんだ。2005年頃までその必要はなかったと思う。この頃から一気にベルリンのクラブシーンが盛り上がって、ツーリストの目的地になり始めたんだ。

 

Heiko Hoffmann

僕が知っている限り、ベルリンで初めて3ヶ月単位の賃貸契約を結ばなかったハウス&テクノのクラブはWatergateだった。それまではありとあらゆるクラブが短期の賃貸契約を結んでいたんだ。初期費用が安く済むからね。でも、大家が新しい借主を見つけたり、他の用途で使用したいと思ったりすれば、すぐに出ていかなければならなかった。1998年からの最初の10年でオープンした全てのクラブがお粗末なサウンドシステムだけで済ませて、内装や照明、空調に投資しなかったのはこれが理由さ。2ヶ月後に退去しなければならない可能性が常にあったからね。Watergateは長期契約を結んだ初のプロフェッショナルクラブだった。

 

Clark Warner

オープン前のBerghainに入った時に、「結構先までこのままの状態でいくんだろうな」と思ったのを覚えている。

 

Heiko Hoffmann

Bar 25とBerghainが揃って2004年にオープンしたのはとても興味深いポイントだ。この2クラブは2kmしか離れていなかったけれど、美学的には真逆だった。Bar 25には、メイクアップをしたカラフルなニューヒッピー的な客が集まっていたけれど、Berghainの客は全身黒だった。彼らは世界中でコピーされているよね。近年の新しいクラブモデルはこの2つ以外ないに等しい。コンクリートかウッド、どちらかだ。僕は中国からメキシコシティまで、世界中のクラブを巡ってきたけれど、これまでに訪れたどのクラブも、どちらかを参考にしている。

 

 

 

【解凍】

 

ひとつのダンスミュージックの10年が終わりを迎えようとする中、ミニマルは徐々に愛想を尽かされていった −

 

Break 3000

ちょっとやり過ぎてしまったアーティストがいたと思う。たとえば、Ricardo Villalobosは30分も続くトラックをリリースしていた。僕にそんなレコードが必要かどうかは分からない。個人の好みだとは思うし、こういうトラックが大好きな人たちがいるのは知っているけれどね。

 

Philip Sherburne

コンセプトが曖昧になってしまった。Berghainはミニマルなのか? Marcel Dettmannはミニマルかい?

 

Break 3000

僕はPanorama Barで何回もプレイしたけれど、内容はミニマルじゃなかった。Marcel Dettmannも、当時はまだ誰もプレイしていなかった正統派のハードテクノをプレイしていた。

 

Philip Sherburne

Hard Waxに行った時に、僕のためにレコードを用意していたスタッフから「あぁ、君はミニマルが好きなのか」と言われたことを良く覚えている。2009年頃だったと思う。そのスタッフの言い方からは、ミニマルが必ずしも良くは思われていないということが伝わってきた。

 

Heiko Hoffmann

Âmeの「Rej」がリリースされた時、僕はこれを非常に重要なトラックだと思った。なぜなら、かなりスタンダードなデトロイトテクノの系譜上にありながら、サウンドプロダクションが非常にプロフェッショナルだったからだ。「Rej」は、ハウスミュージックの人気を再び高めるきっかけとなったトラックだった。その何年も前から存在していたミニマルよりフレッシュに聴こえた。

 

 

 

 

Philip Sherburne

良質なミニマルトラックの制作は難しい。その難しさは、他の物作りと同じくらい… むしろ、上かもしれない。なぜなら、全てをパーフェクトにしなければならないからさ。全てのサウンド、全てのスペースが考え抜かれている必要がある。でも、多くの人にとっては、悪質なミニマルトラックの制作は簡単というイメージの方が強いのさ。でも、悪質なものは何だって簡単に作れる。

 

Richie Hawtin

2000年代後半に多くの変化が起きた。ミニマルが疲弊していったんだ。Facebookが台頭して、画像や写真が目立つようになり、DJはさらに有名になった。ミニマルシーンは閉じられたプライベートな状態でしか生き残れないんじゃないかと思えたよ。世界全体がエレクトロニック・ミュージックにオープンになっていく中で、ミニマルは “悪い言葉” になっていった。全てがバラバラになり始め、別の存在に変わっていった。今の僕たちへ向かう始まりだった。

 

Break 3000

僕がベルリンへ移住した2004年から、ベルリンの人口は100万人増えた。でも、ライフスタイルは変わっていない。今もみんな毎晩出掛けているよ。これは他の都市では見られないものだね。

 

Ralf Kollman

当時のベルリンの影響はまだ色々なところに残っている。あの頃に、ベルリンは今のような多様性のある都市になったんだ。最近は多くのツーリストがやってくるけれど、彼らはある意味、当時の波に乗っていると言える。今のベルリンには、Berghain、Watergate、Ipseはもちろん、KitkatやPornceptualなどの変態系まで色々な選択肢がある。毎週様々なパーティが開催されている。

 

Ellen Allien

最近は、新しいクラブGriessmuehleでパーティを開催しているの。今のベルリンのベストテクノクラブのひとつね。新しいクラブがオープンしている理由? クラブをオープンするためにベルリンに移ってくる人がいるからよ。

 

Break 3000

今は2018年8月だけど、今年に入ってすでに約300軒のレストランがベルリンにオープンしている。オーナーの大半は国外からやってきた人たちだ。米国、英国、スペイン、イタリア、メキシコ、南米から大量にやってきているんだ。全員が若者、クラブピープルだよ。

 

Heiko Hoffmann

当時のクラブ、DJ、音楽が、今起きている変化のきっかけになった。AbletonやNative Instrumentのような企業も、そういうシーンから派生したものだ。多くのスタートアップがベルリンへ移っているのも、この都市のシーンを使って雇用者を引き寄せられるからだ。

 

Richie Hawtin

2000年代中頃のベルリンで遊んでいた人たちと、彼らが通っていたパーティのパワーは、今の人たちがベルリンで遊びたいと思う理由と共鳴している。当時のパーティと自由度はフォークロア化しているんだ。間違いなくベルリンに永続的に影響を与えていると思う。

 

Philip Sherburne

奇妙な歴史的偶然が重なったんだと思う。戦後の歴史、壁崩壊後の歴史…。壁の崩壊と、テクノとエクスタシーの登場が同時だったのは奇跡だと思うし、インターネットが今のように世界を席巻する前だったからあり得たんだと思う。Airbnb時代を迎えている今、再び起きることはないだろうね。

 

Ralf Kollman

先日、PerlonからリリースしているWareikaとリリースの契約を交わして、Sammy DeeとBruno Pronsatoのユニット、Half Hawaiiにリミックスを頼んだんだ。自分のレコードコレクションをチェックしている時に、非常に素晴らしいミニマルトラックがあることに気が付いたのさ。全てがパーフェクトにプロデュースされていたわけではないけれどね。そしてその大半が、ヴァイナルオンリーだった。でも、今は新しいディストリビューションルートが存在するし、新しいテクノ世代が生まれている。だから、当時のサウンドを今に持ち込める可能性があるかもしれない。

 

Heiko Hoffmann

単純にもう少し時間が経つ必要がある。当時のミニマルに新しいフォームで復活して欲しいというニーズはある。なぜなら、今のシーンを支配している音楽、つまりBerghainのビッグテクノとInnervisionsハウスへの回答になるからさ。当時のミニマルサウンドはパーフェクトな回答になると思う。

 

 

Header image © Carolin Saage