五月 31

インタビュー:Alex Rosner

ニューヨークディスコ黄金時代を支えたサウンドシステムを手掛けたエンジニアの1998年のインタビューを紹介する

David MancusoのThe LoftからNicky SianoのGalleryまで、ニューヨークディスコの黄金時代はパワフルで没入感の高いサウンドシステムが原動力となっていた。しかし、当時のテクノロジーはまだ未熟だったため、パーフェクトなカスタムメイドのサウンドシステムを作り出すためには、フロアでのスピーカーの鳴らし方と機材のはんだ付けの両方に精通している情熱的なオーディオファンが必要だった。

 

軍需産業のエンジニアだったAlex Rosnerがそのひとりだった。1960年代後半、低質なスピーカーが置かれていたニューヨーク・クイーンズのステーキハウスをたまたま訪れたことがきっかけで、Rosnerはクラブヒストリーに燦然と輝くレジェンドクラスのサウンドシステムを次々と手掛けるようになった。

 

今回紹介する1998年にBill Brewsterが行ったRosnerへのインタビュー(DJ Historyのアーカイブ)の中で、Rosnerは世界初のキューシステム付きDJミキサーの製作、今やユビキタスな存在となったツイーターアレイのMancusoとの共同開発、ニューヨークのディスコDJたちを伝説の存在に押し上げたサウンドシステムの導入などを含む数々の革新的な仕事について語っている。

 

© Justin Jay/Red Bull Content Pool 

 

 

サウンドシステムの製作に関わるようになったきっかけは?

 

やろうと思って始めたことではなかった。

 

ある晩、ディスコが併設されているレストランで食事をしていた。サウンドが余りにも酷かったので、自分の名刺に「君たちのサウンドは最悪だ」と書いて灰皿の下に挟んでおいた。それで、妻のコートを受け取るためにテーブルを離れると、同席していた私の親友がその名刺を抜き取って、オーナーに手渡したんだ。すると、オーナーが私のところへやってきて、「君の意見はもっともだ! 力を貸してくれないか?」と言ってきた。クイーンズのフラッシングにあったステーキハウス、Andironsでの話だ。

 

そのあと、1965年のニューヨーク万国博覧会である人物と出会い、世界初のステレオディスコサウンドシステムを製作することになった。それまでは、全てモノラルだった。ステレオ対応の機材は存在しなかった。ステレオミキサーもキューイング(CUE)も存在しなかった時代だ。

 

Bozakのミキサーが登場するまで、全ていちから作らなければならなかった。BozakのDJミキサーのデザインも手伝った。私がいくつかアドバイスを送り、Bozak側が改良したんだ。そしてしばらくの間、これが業界のスタンダードになった。Ureiが登場するまでね。

 

 

Bozakのミキサーが開発されたのはいつでしょう?

 

1968年頃だ。開発したLouis Bozakは最近亡くなった。

 

 

彼がミキサーの開発をしたきっかけは何だったのでしょう?

 

新たに開発したわけではなかった。彼はすでに10チャンネルのモノラルミキサーを持っていた。そのミキサーを多少改良すればステレオディスコミキサーになると私がアドバイスを送ると、彼がそのアドバイスを気に入ってミキサーの改良を始め、すぐに完成させた。

 

そのミキサーが業界のスタンダードになったんだ。彼が手を加えたのはその1回だけだった。それが10~15年持ったんだ。

 

 

あなたはサウンドのどの側面に興味を持っていたのでしょう?

 

私はサウンドエンジニアだった。だが、あくまで趣味レベルだった。当時、私は軍需産業のエンジニアとして働いていたんだ。だが、1967年にその仕事を辞めて、サウンドシステムの製作を本業にすることにした。

 

 

当時はクラブのサウンドシステムはいちから製作しなければならなかったのでしょうか?

 

そうだ。市販されていたアンプとラウドスピーカーとターンテーブルを使ったが、キューイングデバイスもディスコミキサーも存在しなかったので、ある意味、いちから作らなければならなかった。

 

 

市販機材は何を使っていたのでしょうか?

 

ターンテーブルはThorens TD-124を使った。当時の業界のスタンダードだった。始動がクイックだった。サイドのクラッチを使えば瞬時にスタート・ストップができた。非常に原始的だったが、効果的だった。あのターンテーブルの問題は、振動が大きいことだった。サウンドシステムには理想的ではなかった。

 

状況が良くなったのはThorens TD-125が登場してからの話だ。飛躍的に良くなった。そのあとで、ダイレクトドライブなど他のテクノロジーが登場し、ダイレクトドライブはターンテーブルのスタンダードになった。プリアンプとミキサーについては、Bozakが業界のスタンダードだった。それ以前は自分で製作した機材を使っていたが、かなり原始的な構造だった。

 

 

そのミキサーはスイッチひとつで切り替えるシンプルな作りだったのでしょうか?

 

そうだ。フェーダーの役割を果たすレバーが2つと、スイッチひとつだけだった。また、もうひとつ別のスイッチがあり、それを使えば片方のターンテーブルをキューできた。両方のターンテーブルを自由に切り替えて聴くことができた。

 

アンプはMcIntoshを使っていた。非常にハイクオリティだった。私の初期サウンドシステムはMcIntoshを2台使っていた。この仕様はかなり効果的だった。ラウドスピーカーはAltec製だった。その少しあとにJBLが登場したので、JBLのラウドスピーカーに切り替えた。

 

 

あなたが最初に手掛けたサウンドシステムは?

 

さっきも話した通り、最初に設計したのは1965年のニューヨーク万国博覧会だった。カナダパビリオンとカーニバルパビリオンのためのものだ。カナダパビリオン用はCanada-a-Go-Goという名前で、カーニバルパビリオン用はCarnival-a-Go-Goという名前だった。

 

 

音楽専用だったのでしょうか? 

 

どちらもリズム&ブルースをかけるためのものだった。ダンスできる音楽なら何でもかけていたがね。

 

 

DJがプレイしていたのでしょうか?

 

そうだが、有名なDJではなかったよ。

 

 

初めて導入したクラブはどこでしたか?

 

最初はGinzaだった。オーナーが自分で建てたクラブだった。サウンドシステムも彼が自分で製作していた。彼もエンジニアだったんだ。その彼に招かれて、サウンドを聴いてみたんだが、その時に、Altex製モノラルアンプが導入されていることに気が付いた。

 

Bozakが登場する前の業界のスタンダードはAltec 1567-Aだった。これはキューイングには対応していないモノラルアンプで、サウンドは非常に良かった。Ginzaにはこれが1台しか導入されていなかった。それで私が、信頼できるサウンドにするなら多少改良する必要があるとアドバイスを送ると笑われた。私は馬鹿にされたような気分になってその場を去った。

 

それから3ヶ月後、夜中に彼から電話がかかってきた。サウンドシステムが故障したので助けてくれないかということだった。パニックに陥っているような声をしていた。あの晩のことは今も良く憶えている。というのは、サウンドシステムの信頼性に関する非常に重要なレッスンになったからだ。また、サウンドシステムのビジネスに進出する決定的瞬間にもなった。1965年、1966年頃の話だ。

 

とにかく、私は電話から約20分後にクラブへ到着した。客はほとんどいなかった。吊られている小さな檻の中に女の子が数人座っていて、その隙間から足を投げ出していた。あとはバーカウンターにカップルが座っているくらいだった。普段は物静かなオーナーは興奮していて、ナーバスだった。できるだけ早く直してくれと頼んできた。

 

 

 

"戦地の砂漠を走るチャリオットのイメージが浮かんだ。サウンドシステムも戦場のチャリオットと同じく止まるわけにはいかないと思った"

 

 

 

それでチェックしてみると、当然ながら彼のアンプは… 優秀なアンプだったが… ヒューズが飛んでいた。チューブも良くなかったのだろう。それでヒューズを交換して、新しいチューブを2個入れると、また音が鳴るようになった。到着してから30分くらいで作業は終わった。

 

だが、仕事に集中するのが難しかった。何しろ、女の子たちは全員美しかったし、しかも服をほとんど身につけていなかったからね。気が散ったよ。私は真面目なタイプだから、そういう状況に慣れていなかった。

 

私が修理を終えると、オーナーにはひたすら感謝された。彼が落ち着きを取り戻していくと、私は質問したい気持ちが抑えられなくなり「なんでそんなに興奮しているんだ? ラッキーだったじゃないか。今日は水曜日だし、客もそんなに多くない。今日が土曜なら、あなたが取り乱すのも理解できる。だが、客はいないに等しいじゃないか。何をそんなに慌てているんだ?」と訊ねた。すると、彼は私の鼻先に顔を近づけて「君に電話をかけた夜中の1時頃、この店は混み合っていたんだ。今日の損失分で新しいサウンドシステムが買えていたよ」と言ってきた。

 

彼のその言葉を聞いた瞬間、私の頭の中に戦地の砂漠を走るチャリオットのイメージが浮かんだ。

 

チャリオットはサウンドシステムのたとえだ。チャリオットは戦地で走りを止めるわけにはいかない。十分な数の馬を用意し、たとえ1頭が死んでも、その馬を切り離して走り続けることができるチャリオットのようにサウンドシステムを組み上げる必要があると思った。馬だけではなく車輪も複数用意して、ひとつが壊れても他の車輪で支えられるようにする必要もあった。戦場のチャリオットはどのような状況に置かれても走り続けなければならない。なぜなら、止まってしまえば撃たれて死んでしまうからだ。

 

結局、彼は私を雇ってサウンドシステム全体の見直しをさせた。それが私がクラブに導入した最初のサウンドシステムになった。あの日から約30年間で、私は400~500のサウンドシステムを手掛けてきた。

 

 

Francis Grassoや彼の仲間に出会った経緯は?

 

Francisとは、彼がプレイしていたクラブで出会った。私が手掛けたサウンドシステムが導入されていたクラブだったかどうかは憶えていない。というのも、基本的に自分のサウンドシステムが導入されていたクラブには行かなかったからだ。あえて導入されていないクラブへ出向き、そこのオーナーを捕まえて、きちんとしたサウンドシステムが必要だと口説いていたんだ。

 

 

Sanctuaryのサウンドシステムもあなたが手掛けましたよね?

 

そうだ。

 

 

ミックス前にレコードが聴けるキューイングデバイス付きDJミキサーをGrassoが初めて導入したのはSanctuaryではなかったですか?

 

彼はSanctuaryの前にHavenで働いていて、私はHavenのサウンドシステムも担当していた。Havenのキューイングデバイス付きDJミキサーは昔作った試作品のひとつだった。彼らからはRosieと呼ばれていた。赤かったからね。非常に原始的な作りで、クオリティはそこまで良くなかった。

 

 

機能はしていたんですよね?

 

機能はしていた。誰も文句を言わなかった。何しろあそこにしかないものだったからね。

 

 

Sanctuaryのサウンドシステムは他とどこが違っていたのでしょう? Steve D’Acquistoは、他のクラブとは比べものにならないほど良かったと言っていました。

 

単純に機材のクオリティが良かっただけだ。私はオーディオファンだったので、オーディオファンのテクニックを持ち込んだんだ。ハイファイを市販のサウンドシステムに持ち込んだ。当時は誰もやっていなかった。市販されていたサウンドシステム用機材の多くは音が悪かった。私はそこに高級なコンポーネントを組み込んで音を良くしたんだ。それだけの話だ。

 

オーナーから高級なコンポーネントを組み込むための予算を用意するように説得できるかどうかだけが問題だった。オーディオファンだった私はラウドスピーカーをどこに置けば良いのかも分かっていたし、何発用意すれば良いのかも分かっていた。それからしばらくして、徐々にサブウーファーとツイーターアレイを使うようになっていった。

 

実は、ツイーターアレイはDavid(Mancuso)のアイディアだった。彼からツイーターアレイを製作するように頼まれたんだが、最初は良いアイディアには思えなかった。だが、Davidから「君の意見は関係ない。とにかく作ってくれ」と言われた。それで作ってみると、素晴らしいアイディアだということが分かった。

 

 

ツイーターという名前の由来は?

 

ツイーターはハイ・フリークエンシー・トランスデューサーとも呼ばれている。高域を鳴らすためのものだ。

 

 

すでにその言葉は存在していたんですね?

 

そうだ。ツイーターアレイはツイーターが4方向を向いているものを指す。4つのツイーターを十字型に組み合わせて、シャンデリアのようにダンスフロアの上に吊したんだ。これはDavidのアイディアだった。

 

最初に機能しないと思った理由は?

 

別に酷いアイディアだと思ったわけではない。単純にやり過ぎだと思った。Davidは各チャンネルにツイーターアレイを2セットずつを用意したいと考えていたので、その通りにすればツイーター8発になっていた。通常のサウンドシステムでは、各チャンネルにつきツイーターは1発だ。だが、彼はその8倍を求めていたんだ。私は高域を鳴らすためだけに8発も用意するのはトゥーマッチだと思った。

 

しかし、私は間違っていた。かなり上に吊したので、耳が痛くならなることはなく、うるさく感じることもなかった。置く場所が高ければ高いほどサウンドは良くなった。彼のアイディアは実に素晴らしかった。彼がどうしてこのようなアイディアを思いついたのかについては、本人に尋ねてみなければ分からない。

 

Angelo Di Giuseppeが木製ケースを製作し、私がJBL製のツイーター4発をその中に入れた。当時のクロスオーバー周波数は5kHzだったが、素晴らしいサウンドが鳴らせた。これ以降、私は自分が担当した全てのクラブでこのアイディアを採用した。

 

 

いつのことだったか憶えていますか?

 

ああ。1971年だ。

 

 

Davidと出会ったきっかけは?

 

共通の友人に紹介してもらった。その友人からは、何かしら役立てるはずだから、The Loftに立ち寄ってみるべきだと言われていた。実際、その通りになった。私は彼のサウンドシステムを再構築してサウンドをかなり改良した。彼のサウンドシステムは基本的には家庭用だったが、私が手を加えたことでディスコ用になった。

 

The Loftに初めて足を踏み入れた時、私はそこに興奮とエナジーを感じた。非常に刺激的だった。ディスコというのは素晴らしいものじゃないかと思えた。性別も人種も混ざっていた。貧富の差も関係なかった。音楽で全員が繋がっていた。美しいと思ったよ。私はシャツを脱ぎ捨ててダンスをした。最高の音楽だった。本物だった。実に素晴らしかった。当時の私は離婚して独身だったので、タイミング的にも丁度良かった。

 

 

そのあとはどこを手掛けたのでしょうか?

 

名前は憶えていないが、数多くのクラブを手掛けるようになった。すぐにオファーが届くようになったんだ。その多くはゲイクラブだった。ゲイクラブのオーナーたちは本気だった。ハイクオリティなサウンドシステムに投資したいと考えていた。どれも比較的小さなクラブだったよ。Studio 54がオープンする前の話で、あのようなビッグクラブとは違っていた。

 

当時私が担当した中で一番大きかったのはCopacabanaだった。ここを手掛けたのは随分あとになってからだが、このクラブは長く続いた。実は場所は移ったが、今も続いているよ。Studio 54やParadise Garageのようなビッグクラブについてだが… 実は、Paradise Garageの初期デザインを手掛けたのは私だった。だが、Richard Longとオーナーが恋仲になったんだ。それでRichard Longが私から仕事を取ったんだろう。

 

 

では、Paradise Garageのサウンドシステムはあなたが導入したものではなかったのですね?

 

そうだ。初期デザインを手掛けただけだ。実際に導入したのはRichard Longだ。

 

 

The Loftのサウンドをユニークにしていた他の要素について教えてください。

 

サウンドシステム全体の構成が良かった。Klipschorn製スピーカーを導入したあと、バイアンプで接続し(高域・低域でそれぞれ別のアンプを接続するテクニック)、その後さらにトライアンプで接続した(高域・中域・低域でそれぞれ別のアンプを接続するテクニック)。当時、このテクニックはまだ誰もやっていなかった。Davidはサウンドに関する知識が豊富だが、今でも彼から微調整を頼まれるよ。非常に微妙なバランス調整が、The Loftのサウンドを他とは別物にしていた。

 

私の家族は全員ミュージシャンだった。私もいくつかの楽器を演奏した。だから、オーケストラがアンプを通した時にどう鳴るのかを理解していた。この知識がサウンドシステムの構築に役立った。正しく鳴らすことができた。また、私には電子工学の知識もあった。電子工学の学士号を取得していたので、システムの接続はお手の物だった。これが仕事を得る助けになった。また、自分が興味を持てる分野だった。好きだったんだ。

 

今でも、私はディスコというコンセプトが好きだ。音楽を生演奏するのではなく再生するというコンセプトがね。当時の私は、サウンドをリアルで優れたものできるテクノロジーは揃っていると感じていた。色々な実験をした。

 

万国博覧会では、オーケストラがカーテンの裏側で演奏しているようなサウンドを生み出さなければならなかった。当時、私が分かっていなかったのは、オーディエンスはひとつの方向から流れてくるサウンドよりも、サウンドに包み込まれる方が好きだということだ。

 

オーケストラはひとつの方向からサウンドを届けるが、生演奏だ。そして、この生演奏という要素が “サウンドでオーディエンスを包み込めない” という部分を補完している。つまり、オーケストラが生演奏せず、ラウドスピーカーしか手元にないなら、そのスピーカーのサウンドの再現度がどれだけ高くても、オーディエンスを囲うようにラウドスピーカーを配置した方が良い。ひとつの方向から聴こえるように配置するのではなくね。

 

万国博覧会が終わったあと、オーディエンスを包み込むようにサウンドを鳴らした方が良いということを理解した私は、中域のスピーカーと低域のスピーカーを重ねてフロアに置き、上方にツイーターアレイを2セット吊すテクニックを考案した。4ウェイシステムだ。高域を担うツイーターアレイが1セット、中高域と中低域のスピーカーを1発ずつ、そして低域を担うスピーカーが1発だ。これが業界のスタンダードになった。

 

AES(Audio Engineering Society)のコンベンションのためにこのテーマで技術論文を書いて発表した。これはジャーナルにも掲載された。ディスコ関係をテーマにした論文がAESのジャーナルに掲載されたのはこの時が初めてだった。この論文が業界に知られるようになり、スタンダードになった。誰もが私のアイディアを使うようになった。現在、ツイーターアレイを備えていないクラブは存在しない。

 

 

 

“サウンドシステムというのはアーティストのためのツールだが、ツールがなければアーティストはちゃんと仕事ができない”

 

 

 

その論文が掲載されたのはいつのことですか? 今でも読めるのでしょうか?

 

私の手元にコピーがあるので日付を調べてみよう… 1979年7月号だ。

 

 

サウンドシステム製作のインスピレーションは何だったのでしょうか? 単純に音楽が好きだったから続けられたのでしょうか?

 

そうだ。以前の私はラテンミュージックに夢中だった。ラテンミュージックはブラックミュージック、アフリカンミュージックとジャズに繋がっている部分がある。それで、そういう音楽も好きになった。自然な流れだった。

 

 

David Mancusoからも影響を受けましたか? 彼は音楽ファンであり、オーディオファンでもありました。

 

当然ながらDavidからは大きな影響を受けている。サウンドシステムというのはアーティストのためのツールだが、ツールがなければアーティストはちゃんと仕事ができない。退屈なアーティストは退屈なツールを使っている。成功を収めるには優れたアーティストと優れたツールの両方必要だ。優れたアーティストはDavid Mancusoと… 名前が思い出せないが…

 

 

Michael Cappelloですか? Steve D’Acquisto? Francis Grasso? Nicky Siano? それともWalter Gibbonsですか?

 

Walter Gibbonsだ! 君が今挙げたDJが働いていた全てのクラブは私がサウンドシステムを担当した。

 

 

今もサウンドシステムを導入しているのでしょうか?

 

ああ。しかし、ここ10年は教会や礼拝所のサウンドシステムを担当している。自然な形でそういう方向に進んでいった。大きな教会だ。最近もトリニティ教会のサウンドシステムを手掛けた。礼拝者がちゃんと聞けるようなサウンドシステムを必要としていた。

 

 

面白い話ですね。というのも、Steve D’Acquistoたちは黎明期のクラブを教会のようだったと表現しています。

 

その通りだ。非常にスピリチュアルな体験だった。上手く説明できない。非常に刺激的だった。様々なことが体験できた。当時、George Freemanという名前の男がいた。彼はWalter Gibbonsがプレイしていたクラブ、Galaxy 21のオーナーだったんだが、彼とそのことについて良く話をしていた。彼は良く「スピリチュアルな体験だ」と言っていた。私はその話をされるたびに「そういうところは確かにあるね」と返していた。

 

Georgeからヴォリュームコントロールを導入するように頼まれたことを良く憶えている。Walterが音量を上げすぎないようにするためだった。それで、Georgeのオフィスにヴォリュームコントロールを見えないように設置したんだ。Walter Gibbonsはそれに気が付いて、Galaxy 21を辞めた。そのあと、私がWalterを説き伏せてGalaxy 21へ連れ戻した。2人はキスをして仲直りしたよ。

 

Georgeからヴォリュームコントロールの導入を頼まれた時、私は導入するのはやめた方が良いのではと進言していた。「Walterと直接話して、ヴォリュームレベルを決めるべきだ」とね。しかし、Georgeは「それは駄目だ。どうせWalterは納得しない。僕はボスだ。この店のオーナーだ。僕が君にお金を払ってサウンドシステムを任せているんだから、言われた通りにやるんだ」と言ってきた。それで、ヴォリュームコントロールを導入するとWalterが辞めた。彼と一緒にみんな辞めてしまった。

 

Georgeは仕事ができなくなってしまった。だから、ヴォリュームコントロールを外してWalterを呼び戻すことになったんだ。

 

 

Walter Gibbonsが辞めていた期間は?

 

約1週間だ。

 

 

短かったんですね。

 

ああ。ヴォリュームコントロールは良いアイディアではなかった。運転手からアクセルを奪うことはできない。

 

 

 

"照明はメインディッシュではなかった。デザートだった"

 

 

 

当時あなたが好きだったDJは?

 

Nicky Sianoは素晴らしかった。大好きだった。

 

 

好きだった理由は?

 

彼は興奮を生み出せた。Walterもそうだった。もちろん、Davidもだ。Steve D’Acquistoもそうだった。彼はTamburlaineで働いていで、私がサウンドシステムを製作した。彼らは音量を上げすぎることなく興奮を生み出す方法を知っていた。美しくてエキサイティングな音楽をプレイしていた。ダンスフロアの客を本気で踊らせ、彼らをハッピーにしていたので、リピーターがついていた。

 

彼らは全員良く理解していた。音楽だけで客を満足させていた。ミラーボールやスモークは関係なかった。照明も必要なかった。第一、当時のライティングシステムには限りがあった。私は経験を通じてこれらを学んだ。誰かから教わったわけではなかった。

 

当時、Tuesdayという名前のジャズクラブのサウンドシステムを手掛けたんだが、初日に照明が壊れてしまった。それで、オーナーが200ワットの電球を持ってきて、延長コードの先に装着してぶら下げた。電球は工事現場で吊される類いの物だったが、まるで何事もなかったかのようにパーティは進んでいった。

 

私は不思議に思いながらそれを見ていた。「サウンドシステムが故障していたらどうなっていただろう?」とね。この時に照明は重要ではないことに気が付いた。照明はメインディッシュではなかった。デザートだった。クラブに必要不可欠なものではなかった。

 

これに気付いたあと、私はクラブのオーナーたちを捕まえては、「いいかい。予算に限りがあるならサウンドシステムを最優先するんだ。照明はそのあとだ。照明のアップグレードはいつでもできる。クラブをクラブたらしめるのはサウンドシステムなんだ」と話すようになった。

 

私がお粗末なサウンドシステムを導入したことは一度もなかった。私は常にオーナーたちを説得して、正式なサウンドシステムを入れさせていた。当時、潤沢な予算の仕事ができていたのはRichard Longだけだった。他はみんな小規模の安い仕事をしていた。Richardは裕福なゲイのクラブオーナーたちと仲良くなり、ビッグクラブを手掛けるようになった。Richardはニューヨークのいくつかのクラブを担当したんだが、彼の仕事はそこまでクオリティが高くなかったので、私があとで調整していた。これが事実だ。

 

 

タイミングと場所に恵まれていたと思いますか?

 

ああ。恵まれていたと思う。楽しい時代を過ごせた。稼ぐことができたし、自分の立場を築き上げることもできた。ディスコからスタートし、ディスコが衰退し始めると、学校や劇場を担当する回数が増えていき、そのあとは教会を手掛けるようになった。ユダヤ教やキリスト教の教会など、あらゆる宗教の教会を手掛けてきた。今もモスクを担当しているところだ。

 

※ このインタビューは1998年10月に行われたものです。© DJ History

 

Header Photo:© Justin Jay