九月 18

サウンドクラッシュの歴史

今や日本を含む世界で楽しまれているジャマイカン・ミュージックカルチャーのルーツは競争を好むジャマイカの国民性にある。音楽をぶつけ合うサウンドシステム・バトルの歴史を追う

By Erin MacLeod and Joshua Chamberlain

 

ジャマイカのカルチャーは “競争” と言える。運動競技は国是で、2016年のリオデジャネイロ五輪の陸上競技ではこの事実が顕著に示された。そしてこの国は音楽もスポーツ化している。リリックのバトル、ダンスコンテスト、カーステレオ自慢大会まで、ジャマイカ国内には音楽関連の競争が数多く存在するが、このカルチャーの基本の基本と言えるのがサウンドクラッシュだ。

 

「Game Over」や「The Final Conflict」のようなタイトルが掲げられる程度にシリアスなサウンドクラッシュは、音楽的筋肉美を誇示したいグループ同士によるWWE的バトルだ。ジャマイカのサウンドシステムは移動式ディスコと呼ばれる時があるが、音楽を流すスピーカー以上の存在なのだ。

 

一般的なステレオスピーカーがベースとトレブルを放出するのに対し、ジャマイカのサウンドシステムはその2~3倍の周波数を放出する。その包括的なサウンドが放出しているのが、サウンドクラッシュのためにデザイン・製造されている巨大なスピーカーボックスの壁だ。サウンドクラッシュは2~3チームのサウンドシステムの間で競われる。各チームはオーディエンスの前で選曲とパフォーマンスを披露し、そのクオリティをオーディエンスがジャッジして勝敗が決まる。

 

ルーツレゲエのシンガー、Lucianoはジャマイカの素晴らしいスポーツカルチャーにおけるサウンドクラッシュの役割について次のように述べている。

 

「大昔からジャマイカ人は競争を愛してきた。自分が他人より上だということを示すのが好きなんだよ。“I & I” な俺たちの気性なんだ。競争のレベルがとても高いからクリエイティビティが豊かで、優秀なシンガーが沢山いる。サウンドクラッシュはスポーツだけど、もっとシリアスなスポーツ、ブラッドスポーツのような血なまぐさいスポーツとして扱っているブラザーもいる」

 

 

 

“夜の7時から朝の7時までぶっ続けてダブプレートをプレイするのさ。しかも、同じトラックを2回プレイすることなくね。サウンドクラッシュっていうのはそういうイベントだった”

Gary Exodus

 

 

 

サウンドシステムカルチャーでは敗者は生まれない。その代わりに死者が出る。対戦相手から隠喩上の "屈辱的な死" が与えられ、“sound bwoy fi dead / sound boy to dead” が出るのだ。

 

他のカリブ諸島やトリニダード・トバゴにはカーニバルの伝統が存在するが、サウンドシステムカルチャーはジャマイカンスタイルのカーニバルと言ってほぼ間違いないだろう。ヨーロッパの宗教的慣習の謝肉祭に奴隷制度と植民地支配の日々の中で守られてきた伝統が組み合わさることで、抵抗・解放・生命・死、そしてこれらの間に存在するすべてを意味するこの文化財が生まれた。サウンドシステムカルチャーは社会通念への挑戦であり、境界や限界への疑問である。そしてサウンドクラッシュも同じようにそのような通念や境界、限界を取り払ってきた。

 

実は、サウンドシステムの歴史はダンスホールやレゲエ、スカよりも長い。これらの音楽ジャンルが誕生する前からサウンドシステムカルチャーは存在していた。King Edwards、Duke Reid、Count C、Sir Coxsoneなどの初期サウンドシステムオーナーの名前には、コミュニティ内の地位が反映されている。競争、つまりクラッシュはこの地位を守るために行われていた。

 

元々クラッシュはライバル同士の非公式の対決で、2つのサウンドシステムを至近距離を配置してどちらがより多くのオーディエンスを集められるかを競うというものだった。中には相手に対して妨害工作を行うサウンドシステムもあった。

 

1950年代から1960年代初頭にかけてジャマイカに寄港する船乗りたちから入手したUS産R&Bレコード群が “サウンドキラー” として扱われるようになり、手に入れたサウンドシステムはそのレーベル面を消し、“シークレットウェポン” として新しい名前を付けた。1950年代のウエストキングストンのサウンドシステムThe Wizard of The WestのオーナーだったCyril “Count C” Braithwaiteは、自分たちのサウンドシステムは小型だったがFat Dominoの1953年のヒット「Going to the River」などの “サウンドキラー” をプレイして大型のサウンドシステムにブルドッグのように噛みついていたと振り返っている。

 

「勝因が分かるか? レコードさ。勝負を決めるのはビッグサウンドじゃなくレコードなんだ」

 

 

 

 

当時のCount Cのディージェイで、1960年代からはDuke Raid、Sir Coxsone、Prince Busterなどと仕事をするようになったKing Sportyは、この頃のサウンドクラッシュの友好的な雰囲気を次のように説明している。

 

「俺たちは殺し合ったわけじゃない。交流しながら、笑いながら、どちらのオーディエンスが多くてどちらのオーディエンスが少なかったかについて話していたんだ」

 

1970年代に入るとディージェイとセレクターが増え、サウンドクラッシュの開催数が増加していった。そしてそのサウンドの大半をKing Tubbyをはじめとするローカルサウンドエンジニアが制作した新しいレゲエサウンドが占めるようになった。サウンドシステムBlack ScorpioのオーナーJack Scorpioは「Tubbyはアーティストを指名してヴォーカルを録音していた。Tubbyがアーティストを指名してトラックを制作したあと、それを最初に手に入れた奴が自分のサウンドシステムで独占的にプレイできたんだ」と振り返っている。

 

それらのトラックは “スペシャル” と呼ばれた。スペシャルは一般流通用ではなく一時的にプレスされるデモヴァイナルだった。故Sugar Minottは「Barry Brown『Far East』や俺の『Babylon Mash Up My Life』は正式なレコードじゃなかったのさ。サウンドシステム専用だったんだ。Jack Scorpioに提供した4曲をKing Jammysに渡すことはできなかった。裏切り者と同じだ。Jack Scorpioだけが所有するべきレコードなんだ」と説明している。

 

1980年代のダンスホールとYellowman、Tenor Saw、Admiral Bailey、Burro Bantoなどのディージェイたちの台頭は、ジャマイカの音楽とサウンドクラッシュの変容を促した。サウンドシステムを使ったダンスホールディージェイたちのライブパフォーマンスがサウンドクラッシュのデフォルトフォーマットとして認識されるようになり、このフォーマットは "rub-a-dub(ラバダブ)" と呼ばれるようになった。

 

ライブだったためディージェイたちはライバルのサウンドシステムをリアルタイムで口撃できるようになった。ラバダブではセレクターがスタジオバージョンやヴォーカルバージョンをプレイしたあと、ディージェイのためにインストゥルメンタルバージョン(“Part 2” とも呼ばれる)やブレイクをプレイしていた。ダンスホールディージェイは特定のサウンドシステムに属していたわけではなかったが、複数のサウンドシステムのサウンドクラッシュに出演して自分たちの存在感を高めていった。

 

1980年代最大のヒットと呼ばれるダンスホールトラック群もサウンドクラッシュでのテストを経て生まれたものだ。たとえば、Tenor Sawのクラシックサウンドクラッシュアンセム「Ring the Alarm」も、1985年に4つのサウンドシステム(Arrows、Scorpio、Jammys、Youth Man Promotion)が対戦したサウンドクラッシュでライバルを口撃するために用意されたトラックだった。

 

 

 

 

サウンドクラッシュ用リリックがレコーディングされたダンスホールディージェイはTenor Sawだけではなかった。サウンドクラッシュは最新のビッグヒットを生み出したがっていたプロデューサーたちにとっておあつらえ向きの場所だった。初代キング・オブ・ダンスホールとして知られたYellowmanは、プロデューサーHenry “Junjo” Lawesがすぐにこのチャンスを活かして商業的成功を収めたことを覚えている。「Junioが踊りに来てリリックを聴くとすぐに “おい、スタジオに入るぞ” って言ってきたんだ」

 

"トラックのリリース" は、そのトラックが特定のサウンドクラッシュとは無関係であることを意味していた。誰がプレイしても問題なかった。このビジネスチャンスはサウンドトラックの独占性とライブ性を排除し、このフォーマットを根底から揺るがした。Yellowmanがフィーチャーされているスペシャルを自分でプレイできるのに本人をわざわざ呼び寄せる必要はなかった。このソリューションの誕生によってサウンドクラッシュのモダンなフォーマットが生まれることになった。

 

 

 

“かつてのサウンドシステムには勝者を決めるためのスコアカードやタイムリミット、ポイントシステムが存在しなかった”

 

 

 

「俺たちアーティストがしたことについて話そうか」と、1970年代後半にアーティストたちがラバダブと同じようにスペシャルのリリックの中でサウンドシステムの名前に触れるようになったことについて話を始めるMinottは「トラックの中でサウンドシステムの名前を初めて出したのはStur Gavだった。『Stur Gav is the champion!』って歌ったのさ。だからリリースできなかった。サウンドシステムの名前が思い切り出ていたからさ」と続ける。

 

こうしてモダンダブプレートの時代が始まり、既存のトラックを特定のサウンドシステムのためにカスタマイズしてレコーディングしたヴァイナルが出回るようになった。1980年代以降、特定のサウンドシステムを “ビッグアップ” するダブプレートスペシャル群はサウンドクラッシュシーンの必携アイテムとなった。

 

この変化は一朝一夕で起きたわけではなかった。ライブパフォーマンスとダブプレートスペシャルがオーバーラップしていたひとつの特徴的な時代があった。1988年、キングストン・スケートランドで開催されたダブプレート・サウンドシステムSilverhawkと悪名高いラバダブ・サウンドシステムKillamanjaroのサウンドクラッシュは、Exodus Nu-Clearの創設者Father Romieに強烈な印象を残した。「Silverhawkはダブプレートで、Jaroはライブディージェイだった。JaroはSilverhawkを攻撃するためにヴァイナルを使わなかった。ディージェイのNinjamanがたったひとりでSilverhawkをキルしたのさ」

 

この時はJaroがサウンドクラッシュに勝利したが、ダブプレートへの移行の兆しはすでに見えていた。1989年、当時のジャマイカのプレミアレゲエイベントだったSunsplashでダブプレート・サウンドシステムInner Cityが10万人単位のオーディエンスを前に約8時間をかけてラバダブ・サウンドシステムElectro Forceを倒したのだ。

 

Gary Exodusは当時のサウンドクラッシュの長時間ぶりとクオリティについて「夜の7時から朝の7時までぶっ続けでダブプレートをプレイするのさ。しかも、同じトラックを2回プレイすることなくね。サウンドクラッシュっていうのはそういうイベントだった」と説明している。当時のサウンドシステムには勝者を決めるためのスコアカードやタイムリミット、ポイントシステムが存在しなかった。

 

1990年代もサウンドクラッシュは物議を醸し出し続けた。その原因のひとつが、サウンドシステムのオリンピックとも言える “ワールドクラッシュ” フォーマットだった。世界各地のサウンドシステムが "同じターフ" でダブプレートをプレイするイベントが開催されるようになったのだ。

 

その最初のひとつと言われているのが1993年にロンドンのRollers Expressで開催されたWorld Sound Clashで、Bodyguard(ジャマイカ)、Saxon(UK)、Coxsone(UK)、Afrique(USA)がサウンドクラッシュを戦い、BodyguardがSaxonを下して勝利を収めたのだが、この結末は物議を醸し出した。そして翌年、今度はSaxonが優勝してインターナショナルサウンドシステム初の王者になった。

 

 

 

 

しかし、ニューヨークシティのプロモーターIrish and Chinが1998年にクイーンズのClub Amazuraで第1回を開催したWorld Clashほど大きなインパクトをもたらしたサウンドクラッシュシリーズはなかった。1999年に開催された第2回は日本のサウンドシステムMighty CrownがジャマイカのTony MatterhornとKillamanjaro(この頃には正式なダブプレート・サウンドシステムになっていた)を倒してインターナショナルシーンにセンセーションを巻き起こした。

 

サウンドクラッシュカルチャーは国外に広がった。もはやジャマイカン・ディアスポラだけが所有するものではなくなっていた。シーンは日本、スウェーデン、フィンランド、イタリア、ドイツへ広がり、Irish and Chinはワールドクラッシュをジャマイカ、トロント、ロンドン、アンティグアへ持ち込んだ。Garfield “Chin” Bourneは、World Clashのゴールはサウンドクラッシュの “ノー・ルール” 傾向を緩和することだったとしている。彼らが用意したボクシングに近いレフェリーとラウンド制は、シーン内のフェアプレイ支持の声をサポートするためのものだった。

 

World Clashでは各ラウンドの最後にレフェリーがオーディエンスに勝敗を訊ねるフォーマットが採用されている。レフェリー役を担っていたChinが両サウンドシステムの名前をコールしてオーディエンスに挙手を求め、挙手が少なかった方のサウンドシステムが敗退した。ラスト2チームが残るまでこのフォーマットが続けられるが、ファイナルは必ず「tune fi tune / tune to tune」のフォーマットとなり両サウンドシステムが1トラックだけプレイする。そして、1トラックでオーディエンスを掴まなければならないワンチャンスバトルで両サウンドシステムがプレイを終えたあと、オーディエンスによる投票が行われる。

 

 

 

“強いライバル関係によってジャマイカは成功を掴んできた。サウンドクラッシュは俺たちのベストを引き出すという意味でとても重要なのさ”

Cleveland “Clevie” Browne

 

 

 

Chinが説明する。「Irish and Chinが始まるまでは何でもありだった。サウンドシステムのバトルやクラッシュはダブプレートをプレイするだけだった。 “tune fi tune” もダブプレートがなくなるか、誰かが倒れた結果として行われていた。それでようやくオーディエンスが勝敗を決めるって感じだった。でも、俺たちが “これからは10トラック制にするぞ” って言ったのさ。俺たちは、ダブプレートを1時間もプレイする必要はないと思っていた。俺たちはストラクチャーを作り、フェアネスを生み出し、文明社会的な競争をサウンドクラッシュに持ち込もうとしたんだ」

 

このサウンドクラッシュの “文明社会化” は、フォーマットの良さを薄めているという理由からIrish and Chinへの批判を生み出すことになった。ハードコアファンにとってのWorld Clashは、サウンドクラッシュのバイブスをクールダウンしてしまう存在だった。 Gary “Exodus” Braithwaiteは次のように語っている。「Irish and Chinがサウンドクラッシュをマッシュアップしやがったのさ。サウンドクラッシュを電子レンジ食品に変えたのさ。ルールやレギュレーションを決めたんだ。だが、音楽にルールなんてない。境界も限界もない。俺に言わせりゃ、サウンドシステムに用意されるべき唯一のルールはスラックネス(下ネタ)や下品な言葉遣いの禁止だ。これなら理解できる」

 

2009年と2011年にテレビ番組として企画されたサウンドクラッシュシリーズGuinness Sounds of Greatnessに出演したハードコアサウンドクラッシュチームの多くもそう考えていた。2011年11月4日、テレビ中継されたこのイベントでRickey Trooper(元Killamanjaro)が若手のRich Squadを下して優勝した。ジャマイカ・キングストンで開催されたGuinness Sounds of Greatnessは彼らのサウンドクラッシュをジャマイカに、そしてオンライン上の幅広い人たちに示した。

 

しかし、結論から言えば、World Clashも、Guinness Sounds of Greatnessも、テレビ番組も、このスポーツを維持することはできなかった。Irish and Chinは “最後” を謳ったWorld Clashをニューヨークとジャマイカで開催したあと、今はWorld Clash Resetシリーズを世界各地で不定期開催するのみに留まっている。Guinness Sounds of Greatnessも2011年を最後に開催されていない。もちろん、サウンドクラッシュは今も世界各地で開催されており、インターナショナルチームをキングストンに招いたビッグイベントも開催されているが、ジャマイカ国内のサウンドクラッシュ人気は世代を問わず以前ほど高くはなくなっている。

 

ジャマイカンポップカルチャーにおけるサウンドクラッシュの立ち位置の変化は、スポーツよりもカルチャー的に大きな意味を持っている。なぜなら、実際に表彰されたことは1回もないが、サウンドクラッシュは功績に満ちた長い歴史を持つカルチャーであり、そのテクニック、パフォーマンス、音楽面の功績や記録は定期的に更新されてきたからだ。サウンドクラッシュはモータースポーツにおけるF1のような存在なのだ。

 

勝利と栄光への欲望がサウンドクラッシュカルチャーに関わる全員をイノベーティブにし、全員を成長させてきた。ダブやサンプリングのような新しいテクニックやヒップホップの礎がこのカルチャーから生まれた。また、レイブカルチャーや多種多様なエレクトロニック・ミュージックジャンルに大きな影響を与えてきた。シーン固有の音楽とディージェイ(DJ)がユニークなサウンドコミュニティを生み出したサウンドクラッシュカルチャーからすべてが枝分かれしていったという意見に異論を挟むのは難しい。

 

1990年代のジャマイカのダンスホールシーンで圧倒的な人気を誇ったサウンドシステムSilverhawkの共同設立者Cleveland “Clevie” Browneは次のようにまとめている。「ジャマイカは強烈なライバル心から成功を生み出してきた。サウンドクラッシュは俺たちのベストを引き出すという意味でとても重要なんだ」

 

 

Header Image:©Red Bull Music Academy

 

 

20. Sep. 2019