二月 19

A history of dance music radio in Detroit

MojoからLisa Lisaまで - デトロイトのダンスミュージックラジオの歴史を振り返っていく

By Ashley Zlatopolsky

 

デトロイトはテクノを生んだ都市であり、故に地元のラジオ局で大きく取り上げられていたはずだと考える人も多いだろう。しかし、この考えは現実とは大きく異なっている。デトロイトのラジオにおいて、ダンスミュージックの番組がまばゆい光を放った瞬間は、過去40年間で数えられるほどしかない。デトロイトがダンスミュージックシーンに与えた影響を考えると、これは不可解だ。

 

しかし、デトロイトのダンスミュージックラジオのDJたちは独自のパッションとヴィジョンを持って取り組んでいたため、市内のディスコ、ハウス、テクノ、ソウルシーンへの影響力は非常に大きかった。言うまでもないが、デトロイトにはElectrifying Mojoの時代があり、そしてそのあとにはMojoの後継者的な存在だったLisa “Lisa Lisa” Orlandoがいた。またソウルフルなデトロイトハウスに大きな影響を与えたBilly Tや、数々のデトロイトテクノのアーティストを世に輩出した深夜番組『Fast Forward』をホストしていたAlan Oldhamがいた他、海賊ラジオも複数存在した。海賊ラジオの中にはJuan Atkins、Kevin Saunderson、Derrick Mayがホストしていた番組もあった。

 

 

デトロイトのラジオ番組におけるダンスミュージックの歴史は1970年代中盤から始まっている。ディスコブームの頃、デトロイトから車で45分ほどの距離にあるアナーバーで、Charles Johnsonと呼ばれる若者がミシガン大学のラジオ局でDJとしてのキャリアをスタートさせた。彼はその数年後にPrinceやKraftwerk、The B-52’sなどをデトロイトでブレイクさせ、1977年にはデトロイト市内のラジオ局WGPRでThe Electrifying Mojoとして知られる存在になっていた。

 

「MojoはデトロイトのラジオにおけるMichael Jacksonだった」デトロイト出身のハウスDJで、かつてWJLBでプレイしていたBruce Baileyは振り返る。「彼には自分の望み通りの番組を持てる個性と華があった。彼の番組は夜に放送されていた。彼には他のラジオ局が放送できないような音楽をプレイする能力が備わっていたね。当時のDJは全員彼から影響を受けていたし、俺も彼には心の繋がりを感じていた。彼は反逆者だった。ひと晩中Princeだけをプレイする日があれば、Michael Jacksonだけがプレイされる日もあった。しかも3時間ぶっ通しでね。2組のアーティストの曲を交互にプレイする日もあったと思う。だが、ゲストをスタジオに迎える回数は少なかったと思う。あの番組は彼自身と音楽だけで成り立っていた。決して多弁ではなかったが、人を惹きつけるには十分だった」

 

WGPRは基本的にはアーバンコンテンポラリーやR&B、ソウル、ゴスペル、そして様々な民族系番組を提供していた黒人向けのラジオ局だったが、Mojoはそこで独自の方向性を打ち出し、既存のフォーマットに従うようなことはなかった。この姿勢は彼のラジオDJとしてのキャリアに一貫していた彼のトレードマークのようなものだった。Mojoはジェファーソン・アヴェニューに位置していたこの小さなラジオ局からありとあらゆる音楽をプレイし、それらをリスナーの耳に確実に届けていた。その結果、人種問わない幅広い層が彼のファンとなり、人種別だった当時のラジオ局の意味を根底から揺るがすことになった。またMojoは無名に近いアーティストの楽曲をプレイすることでも知られており、その楽曲が数ヶ月後(または数年後)にブレイクすることも多かった。Oldhamが説明する。「彼のWGPR初期は俺に多大な影響を与えたね。彼はFunkadelic、Kraftwerk、Alice Cooper、The Isley Brothers、Peter Framptonなどをひと晩でプレイしていた。しかも黒人向けのラジオ局でね」

 

 

それはMojoからの呼びかけでもあった。彼は人種を越えた選曲をすると同時に、宇宙母艦の着陸を模した未来的なオープニングを好んで使用していたが、このオープニングのサウンドは初期デトロイトサウンドそのものだ。1980年、A Number of Namesが「Sharevari」(初のデトロイトテクノ作品と言われることが多い)のデモをMojoに渡し、それをMojoが番組の熱狂的なファンへ向けてヘヴィープレイを続けた結果、1981年にリリースされる頃にはこのトラックは既にフロアヒットとなっていた。このような先見の明があったMojoは、のちに世界的に有名になるデトロイトテクノのシーンとカルチャーの先導者となった。「Mojoは俺たちの音楽をプレイしてくれると同時に俺たちにインスピレーションを与えてくれる世界各国のアーティストの音楽をプレイしてくれた」Kevin Saundersonはこう振り返っている。

 

「私はMojoの『精神の劇場』というコンセプトを流用して、Fisher Buildingの最上階にナイトクラブを作ろうと思ったの。成功したと思うわ。なぜなら、毎週土曜日になると21階にあったスタジオに警備員がやってきて『どうやってクラブに入れるのか困っている人たちが下にいるよ』と教えてくれたから」− Lisa Lisa

 

Mojoは1982年になるとWJLBに活動の場を移した。Mojoが移籍する直前のWGPRでの聴取率は軒並み過去最高を記録し、トップ10に入る時もあった。しかし、WJLBへ移籍したことで、彼は自分の“宇宙母艦”を着陸させる基地を手に入れ、リスナーたちに『Midnight Funk Association』に参加するよう呼びかけることが可能になった。毎晩放送されていたこの“宇宙母艦の着陸”には広大な宇宙を感じさせる雰囲気があり、それによってMojoは更にミステリアスで神話的な存在になっていった。「番組が始まると家のポーチに出て、照明をつけたものさ。『さあ、宇宙母艦が着陸するぞ!』ってね。車に乗っている時はヘッドライトを点滅させて、クラクションを鳴らした。クラブから車に戻って聴いた時もあったよ。実際にそこで何かが起きているような感じにさせてくれたんだ」Orlandは振り返る。

 

イースト・デトロイトからダウンタウンの経済地区にあるPenobscot Buildingの最上階にあったラジオ局へ移ったことで、Mojoはデトロイトを別の視点から見られるようになった。スタジオからの眺めは重要だった。Fisher BuildingにあったWDRQとWDVDのスタジオからはカナダと米国を結ぶアンバサダー橋やブック・キャデラックホテルのようなデトロイトを代表する建造物が見えた。Lisa Lisa ことLisa Orlandoがデトロイトのダンスミュージックラジオのシーンにひとつの時代を築いた際にベースとなったのがこれらのラジオ局だった。「私はMojoの『精神の劇場』というコンセプトを使って、Fisher Buildingの最上階にナイトクラブを作ろうと思ったのよ。だから番組名は『Party in the Penthouse: Saturday Night Live』にしたの。成功したと思うわ。なぜなら、毎週土曜日になると21階にあったスタジオに警備員がやってきて『どうやってクラブに入れるのか困っている人たちが下にいるよ』と教えてくれたから」Lisa Orlandoは振り返る。

 

96.3でのLisa LisaとClaude Young

 

この番組では、テクノDJ兼プロデューサーのClaude YoungがOrlandoと共に番組をホストする時があり、その際はラップバトルが展開された。Orlandoが当時を次のように振り返る。「ある土曜日の晩にClaudeがプロダクションルームにいたの。彼はレコードをプレイしていたわ。その横で私が番組を放送していたのだけれど、深夜2時に私が番組を終えても彼はひと晩中そこでプレイしていたの。だから彼に『ねぇ、Saturday Night Liveに出てみない? ミックステープだけでもいいけど』と頼んだのよ。彼がくれた最初のミックステープは今でも持っているわ。テープを聴いた時、彼がブレイクすることはすぐに分かった。それで、『あなたがプレイして、ラッパーたちがあなたについていけるか試してみましょうよ』って提案したのよ」

 

Orlandoはヒップホップとダンスミュージックの橋渡し役となった。彼女はEminemのラップが初めてラジオでオンエアされたのもこの頃だったと振り返る。「フリースタイルのコンテストを開催すると、24人程度のラッパーが集まったの。私は彼らをローテーションで出演させたわ。LL Cool Jにホストしてもらった時もあったわね。ラッパーを3、4人選んで、Claudeのビートに合わせてもらうと、LLがタイミングを見てそこに加わるって形だったわ。このコンテストにEminemも来ていたの」

 

「Jeff Millsのプレイはレコード同士が会話をしているみたいだった。そして彼はプレイし終わったレコードを投げ飛ばしていたのよ。それを見た私は『信じられない!』って思ったわ」− Lisa Lisa

 

Orlandoは当時15歳だった無名のEminemにブレイクのチャンスを与えた人物として引き合いに出されることが多いが、それよりも何年も前にイーストサイドでDJをしていたJeff Millsを発掘したのも彼女であるという事実は忘れられがちだ。「当時私はWJLBのプロモーションディレクターを務めていたから、局のパーティーが開催できるクラブを探すのが仕事だったの。私は当時DMZ(デトロイトの危険なエリア)だったGrosse Pointe Parkに住んでいたの。デトロイトの端よ。決して良い環境とは言えなかったけれど、ヴァン・ダイク・ストリートにClub UBQという素晴らしいクラブがあった。ある晩そこを訪れた私は、ここで局のパーティーを開催したいと思ったわ。そして上の階からブースを眺めていると、細くて小柄な若い男の子がDJをしている姿が見えた。冗談に聞こえるかも知れないけれど、レコード同士が会話をしているようなプレイだったわ。Princeの『Controversy』からHashimの『It’s Time』、それからJanet Jacksonの『What Have you Done for Me Lately』をプレイしていたけれど、本当にレコード同士が会話をしているみたいだった。そして彼はプレイし終わったレコードを投げ飛ばしていたの。それを見た私は、『信じられない!』って思ったわ」

 

そしてOrlandoはMillsに名刺を渡した。「勇気を振り絞って彼の元へ行き、どうやってプレイしているのか、むしろあれは何だったのかを訊ねたわ。彼は『これが僕のプレイさ! ただ感じて、聴くだけだよ!』と答えてくれたわ。彼は小さなDJブースにレコードボックスを4箱ほど持ち込んでいた。あんなプレイは今でもまだ他で聴いたことがないわね。周りは1枚のロングトラックをかけていると思っていたのよ。彼のミックスは本当にスムースで途切れなかった。そこで私は『ミックステープを作ってもらえる? ラジオでオンエアしたいの』 と頼んだの」

 

Orlandoはそれから数週間後、ジェファーソン・アヴェニューにあったMillsの自宅で彼に会い、テープを受け取った。そして彼女がそれを同僚に聴かせると、同僚たちはそれがライブ録音であることに驚愕することになった。こうしてMillsのThe Wizard時代が幕を開けた。MillsはWDRQとWJLBでヒップホップ、エレクトロファンク、ハウス、テクノなどを自在にミックスする番組をホストすることになった。

 

 

Orlando、Mojo、Millsの3人がそれぞれ番組を持っていた数年間は、デトロイトのメジャーラジオ局の黄金時代だった。3人はデトロイトの過去の音源を掘り出すと同時に、新たなサウンドを生み出していった。「私の番組で最高だった体験のひとつは、Kevin Saundersonと一緒だった時ね。あれは確か『Big Fun』か『Good Life』がリリースされた時のことだったと思うけれど、Paris Greyがヴォーカルを務めていたの。それで土曜日の私の番組のDJのひとりだったKevinが、Paris Greyと一緒にスタジオに来たのよ。私は『ワオ! 最高じゃない!』って思ったわ。オープンリールでインストバージョンをプレイして、彼女が合わせた。『こんなことが実際にあったなんて10年後には信じられなくなっていると思うわ』と思ったわ。ビッグヒットになるのが分かっていたから」

 

結果的にOrlandoはデトロイトのメジャーダンスミュージックラジオ局の女王として30年近く君臨することになったが、その途中でアンダーグラウンドシーンをカレッジラジオへと導いていった存在がAlan Oldhamだった。1987年、デトロイトにあるウェイン州立大学の学生だったOldhamは、夏休みのインターン期間中にWDETで初めて自分の番組『Fast Forward』を持つことになった。「俺のボスだったJudy Adamsが『Fast Forward』と名付けたのさ。アーティストやフリークス、深夜番組ファン、クラブキッズたちが聴くようになった。土曜の夜中3時から6時に放送していて、あとで12時から3時に繰り上がった。1987年から1992年まで続いたね」

 

「俺はマイクをオンにしたままDerrick Mayをスタジオから蹴り出した。生放送でその様子がオンエアされたよ」− Alan Oldham

 

Oldhamは非常に変わった音楽や、未来的(当時において)な音楽をプレイしたため、リスナーたちがラジオ局に電話をして、オンエアされた楽曲の詳細を訊ねることも多かった。「ある晩、俺がPhutureの『Acid Tracks』をプレイしていると、ヒッピーみたいな奴が電話をかけてきたのを覚えているよ。片面15分位のあのアシッドサウンドを奴は最高に気に入ったんだ」またOldhamはリスナーが聴き慣れない音楽もプレイした。「黒人にFront 242やSkinny Puppyを教えたんだ。あとはデトロイトでMobyをブレイクさせたのも俺だし、黒人のインダストリアルバンドCode Industryも発掘した。Negativlandの『Escape from Noise』もローカルヒットさせたね。ある晩、俺がKLFの『What Time Is Love』をプレイした時があった。あのトラックはMC5の『Kick Out the Jams』をサンプリングしていた。その時、俺の手元の電話に赤いランプがついた。赤いランプはボスからの電話を意味していた。俺はやばいかもって思ったよ! でもボスは曲が気に入って電話をかけてきたんだ。MC5を使ってダンスミュージックを作るアーティストが誰なのか知りたかったのさ」

 

また、テクノシーン界隈でDJをしていたOldhamの友人たちが頻繁に彼のスタジオを訪れ、オンエア用の音源を渡すようになった。「白盤やテープを大量に受け取ったよ。ある時、その中の1枚をプレイしている最中にDerrick Mayがそれを持ち帰ろうとした。俺はマイクをオンにしたまま奴をスタジオから蹴り出した。生放送でその様子がオンエアされたよ。あのあと1年程奴とは口をきかなかったね」

 

『Fast Forward』のニュースレター (資料提供:AlanOldham.com)

 

テクノムーブメントが起こりつつある中、Oldhamはそのサウンドを積極的にプッシュした。「Alan Oldhamは俺たちを本気でサポートしてくれた」Kevin Saundersonはこう振り返っている。Oldham自身はただ楽しんでいるだけだったが、彼はデトロイトテクノシーンの基盤が構築されていく中で、中心的な存在となった。「俺はただ自分が好きなクレイジーな音楽を他人に教えたり、シェアしたりしていただけさ。それがたまたまデトロイトテクノ、シカゴハウス、ベルギーのニュービート、UKのサマー・オブ・ラブ、デトロイトのレイヴカルチャーなど様々なムーブメントやスタイルの登場と一致しただけさ」

 

Oldhamの登場後、90年代初頭から中盤にかけてのデトロイトには、ロンドンと同じように数々の海賊ラジオが登場した。UKのムーブメントがJuan Atkins、Kevin Saunderson、Derrick Mayたちに同じような何かをデトロイトに作ろうという気にさせた。「88年、89年、90年、91年、特に88年と89年にUKで海賊ラジオが流行した。俺たちはUKでそれを実際に体験した。インタビューを受けたり、スタジオに行ったりしたよ。本当に大きなムーブメントだった」Saundersonが振り返る。

 

「UKには複数の海賊ラジオの放送局があり、初期ハウスと一緒に俺たちの音楽がプレイされていた。それが大きなインパクトを生み出していたので、俺たちもやってみようと思った。リスナーたちはちゃんと聴いていた。彼らが紹介するデトロイトやシカゴの新しい音楽にリスナーは魅了されていた。初めてUKへ行った時は、海賊ラジオが何なのかいまひとつ理解できていなかった。ただのラジオ局だと思っていた。だが、自分たちのトラックがプレイされているのはクールだったし、とにかくアンダーグラウンドだった。何も派手なところがなかった。音楽をプレイして、それをリスナーに届ける – それだけをやっていた」

 

「デトロイト川に浮かぶ友人の船から放送した時もあったよ。水上からの方が電波を探知されにくかった。少なくともそう教えられていたのさ」− Kevin Saunderson


彼ら3人、Belleville Threeは、短期間だったものの、同等のセンセーションをデトロイトに生み出した。「当時は自分たちの音楽が通常のラジオ局ではプレイされていないと思っていた。正しく届いていないと感じたのさ。ミックスショーなどもやったけれど、自分たちのラジオ局でやった方がコントロールできた。海賊ラジオの場合は別にミックスしなくてもよかった。ただレコードをプレイできたんだ」こう振り返るSaundersonの話では、Atkinsが放送用機材を用意し、SaundersonとMayがデトロイト市内の隠れた場所から放送していたようだ。「デトロイト川に浮かぶ友人の船から放送した時もあったよ(笑)。水上からの方が電波を探知されにくかった。少なくともそう教えられていたのさ」

 

海賊ラジオは米国連邦法に抵触するため、逮捕されればすぐに刑務所行きとなる可能性があったが、幸運なことにBelleville Threeは一度も電波を探知されることがなかった。これは探知を恐れた3人が短期間で放送を終えたことが大きい。しかし、最終的に彼らはメジャーのラジオ局で番組を持つことになった。「WGPRで番組を持った。俺たちがプレイしていたという訳ではなくて、当時は番組枠を買えたのさ。番組のスポンサーになるような感じだ。スポンサーになれば音楽をコントロールできるようになる。こうして『Deep Space』がスタートした。8ヶ月ほど続いたと思う」

 

『Deep Space』は音楽の未来についての番組で、1時間から2時間の枠で週1回のペースで放送された。「新しいアーティストと彼らの音楽を紹介することが目的だった。声やエフェクトを盛り込んだ3分間ほどのイントロを使っていたよ。『Deeep Spaaaace』みたいな声を入れてさ。俺たちの番組にはDJ MinxというDJがいて、彼女がDJやイントロの声を担当していた。俺やJuan、Derrick、Eddie Fowlkesが担当する時もあった」

 

『Deep Space』はWGPRの歴史に輝く数多くの重要な番組(Mojoの番組と共に)のひとつだった。そしてこのラジオ局はデトロイトのダンスミュージックの発展において重要な役割を果たした(このラジオ局の系列TV局も『The Scene』や『Contempo』といったダンス番組を放送した)。そのWGPRで重要だったもうひとりのDJがBilly Tだった。Orlandoと同様、Billy T(本名:William Thompson)もダンスミュージックとヒップホップの橋渡し役を担ったが、彼の音楽はよりソウルフルだった。彼はローカルのラッパーを自分の番組『Basement Tapes』に出演させた他、Terrence ParkerのようなDJも招き、ミックスを披露させた。この番組は1988年から1992年まで続いた。「当時はMr. Terrence Parkerと呼んでいたね。番組が始まった当時は彼やJuan Atkins、Eddie “Flashin” Fowlkes、Derrick Mayなどがミックスを提供してくれたな」本人は振り返る。

 

Thompsonのソウルフルなハウスへの取り組みは、その何年もあとにTheresa Hillによって引き継がれることになった。2000年代初頭、WDTRで放送されていたHillの番組『After Work House Grooves』では、毎週木曜日の夕方5時からの1時間、DJ CentなどのハウスDJたちがプレイした。「みんなが車に乗って帰る通勤時間帯に1時間の番組を放送していた」Baileyが説明する。「録音済みのCDをプレイして、音楽やシーンについてトークする番組だった。Terrence Parker、Delano Smith、Norm Tellyなどがゲストで呼ばれていたね。デトロイトのDJ全員に1時間の枠を与えていたよ」

 

HillはまたWJLBで『Club Insomnia』という番組も持っていた。 この番組を良く聴いていたと振り返るBaileyは、同時にKim “The Spin Doctor” Jamesや1999年にこの世を去るまでランチタイムのミックスを担当していたDuane “In the Mix” Bradleyも聴いていたと続ける。BradleyはWJLBの20年間のキャリアを通じ、デトロイトで最も大きな影響力を持ったラジオDJのひとりとして知られていた。「みんな彼のランチタイムのミックスを楽しみにしていたよ。クラシックやファンが好きなトラックをプレイしていた。”You Used to Hold Me”、Lonnie Gordon、Xavier Goldやシカゴサウンドをね」

 

しかし、2005年、正確に言えば2005年4月1日、デトロイトのメジャーラジオ局からダンスミュージックが消滅した。WDRQが「バラエティヒット」に方向性を転換した日だ。筆者も車に乗ってラジオをWDRQに合わせた時にクラシックロックが流れてきたことを覚えている。当時は気の利かないエイプリルフールのジョークだと思ったのだが、翌日も同じような内容だった。Orlandoが当時を振り返る。「自分の番組へ出向いて、スタッフと一緒にいると、このラジオ局ではもう放送しないと伝えられたわ。番組が自動化されるってね。それで解雇手当を渡されたの。もう終わりだって思ったわ。ラジオDJとしてのキャリアが終わったってね」


「今はテキサスにいるスーツ姿の連中がデトロイトの5つのラジオ局で何をプレイするかを決めているのよ」 − Lisa Lisa


その状況は、2009年に106.7(WDTW)が『The Beat of Detroit』を復活させるまで続いた。このラジオ局はWDRQの方向性をフォローし、ダンスミュージックやディスコ、そしてリズム重視のアダルトコンテンポラリーなどをプレイした。このラジオ局へOrlandoが招かれたのは必然と言えたが、結局長くは続かず、2011年にはクラシックロックのラジオ局へと方向転換をしてしまった。以来、Orlandoは自身の弁護士事務所でエンターテイメントを専門とする弁護士として働いている。彼女は現在のデトロイトのラジオ業界には、彼女やディスコ/ダンスミュージックファンが楽しめるような番組はないと感じている。「本当に悲しいことよ。FCC(連邦通信委員会)が規制を緩めて、大企業の流入を許可したことですべてが変わってしまったの。今はテキサスにいるスーツ姿の連中がデトロイトにある5つのラジオ局で何をプレイするかを決めているのよ。ダンスミュージックはそこまで人気が出なかったってことだと思う。特殊な番組になってしまい、スポンサーにコントロールされるようになってしまった。音楽自体よりも、4万ドルを払うスポンサーが大事になったのよ。そして彼らの言いなりになってしまった」

 

BaileyもOrlandoと同様の意見だ。「偉い奴らがルールを決めるのさ。番組編成側は、昔も今もハウスミュージックが世界的な音楽だと感じていない。彼らの目はR&Bやヒップホップに向けられている。デトロイトの通勤時間帯は、トーク番組以外はそういう音楽しかプレイされていないね」

 

近年、トップ40以外のテクノやハウスがふんだんに聴ける番組はレアだ。それはわら山の中で針を探す作業に近い。「今のデトロイトのラジオはダンスミュージックやヒップホップが持っていた精神性の真逆に位置していると思うわ。当時は草の根活動だった。みんな自分たちが作り出したものを愛していた。自分たちが生み出すものに気持ちを込めていた。ラッパーでもハウス/テクノDJでも、彼らの活動はお金のためだけではなく、愛のためだった。それは彼らの作品を聴けば感じられると思うわ。感情が込められたものは検閲されてはいけないのよ。デトロイトは感情が動かしている都市なのに、ラジオは検閲されているのよ」