三月 07

ジャーマン・ニューウェーブ・ガイド

今回はKlaus Walterがジャーマン・ニューウェーブ(Neue Deutsche Welle。以下NDW)の歴史を取り上げ、ドイツの音楽史を深く掘り下げていく。NDWと言うと、多くの人がNina Hagen、Falcoなどをはじめとしたビッグネームを思い浮かべるが、Walterはその起源であるパンクと共に、いかにそのクリエイティブなパワーが未だにGudrum Gut、Thomas Fehlmann、Moritz von Oswaldなどに未だに影響を与え続けているのかを解説していく。

ジャーマン・ニューウェーブはその名の通り英国及び米国のニューウェーブに対するドイツからの回答だ。英米におけるニューウェーブはその国独自のものではなく、それを飛び越えたもの-本質的な意味においてはアングロ=アメリカンのものだった。しかし、ドイツのポップカルチャーにおいては、当時本質的なものは何もなかったと言える。何しろ、NDWが始まった1970年代後半、ドイツはまだ2つに分かれていたのだ。

上記の状況を踏まえ、今回の記事におけるNDWと言うタームは、基本的に西側(ドイツ連邦共和国・西ベルリンを含む)の音楽という意味で使用する。また、ある時期から大手レコード会社がNDWの商業的可能性を見出し、ドイツ語を使用した金属的でモノトーンな音楽を全てNDWと呼称し始めたということから、混同を防ぐため、ここではオリジナル・ジャーマン・ニューウェーブ(Original Neue Deutsche Welle。ONDW)として表記する。

ドイツにおけるインディーの始祖たちは、ロンドンのRough Tradeを参考にしていたため、レーベルと店舗を連動させる人も多かった

ONDWはパンク、ポストパンク、ニューウェーブ-特にアングロ・アメリカン系のバンド-に影響を受けてスタートした。その中の多くは、ロンドン、ニューヨーク、またはLAのバンドから影響を受け、それらのバンドが掲げていたDIY精神をドイツへ持ち込み、オリジナルのムーブメントから1、2年遅れでスタートしている。ONDWはサウンドとパワーという意味では英国の初期パンクと近く、アートとの距離感という意味ではニューヨークパンクに近かった。また、パンクはタブラ・ラーサ、つまりすべての基本として位置していた。「すべてを捨て、新しいもののためのスペースを作り、偶像を殺す」-つまりClashの歌詞を借りれば、「danger stranger you better paint your face, no Elvis, Beatles, or the Rolling Stones in 1977」というスタンスが打ち出されていたのだ。パンクは音楽業界を含む秩序や体制に対抗しようとしていたが、西ドイツでもこういう時代の流れの影響を受けた若い世代、またはそれよりも少し上の世代が自主レーベルを立ち上げ、自分たちの音楽を独自で流通させ始めていった。

彼らのようなドイツにおけるインディーの始祖たちは、ロンドンのRough Tradeを参考にしていたため、レーベルと店舗を連動させる人も多かった。たとえばベルリンのパンクファンBurkhardt Seilerは新しいサウンドを探しに1978年にロンドンへ渡り、現地でRough TradeのGeoff Travisと懇意になると、その後ドイツへ戻ってTravisの扱うレコードを輸入するようになった。そして1979年に服屋の奥を借りて『Zensor-Schallplatten』というレコードショップを開店する。開店当時は英米の輸入盤を扱っていたBurkhardtだったが、ドイツ産の無名なタイトルを売るために店内に設けた「Neue Deutsche Welle」というセクションがその後の歴史を作ることになった。

Der Plan

やがてZensorは似たようなアイディアを持ったアーティストたちが集まる場所になっていった。今や伝説となったMania D(のちのMalaria!)、Mittagspause(のちのFehlfarben)、Deutsch-Amerikanische Freundschaft、そしてEinstürzende Neubautenも当時の店の地下でライブを披露している。Zensorはレコードショップ、レーベル、通販、ディストリビューションなどすべての業務を行っていたが、この頃になるとドイツ全土に同様のDIY精神に基づいたショップやレーベルが次々と立ち上がっていった。デュッセルドルフではDer PlanがAtatakを設立し、ハンブルグではAlfred HilsbergがZickZackと、のちに大きな影響を与えることになるレーベルWhat’s So Funny Aboutを立ち上げている。尚、このレーベルはL’Age D’orと共に80年代後半から90年代初期にかけて、Hamburg Schoolと呼ばれるシーンの礎となった。

Zensorはレコードショップ、レーベル、通販、ディストリビューションなどすべての業務を行っていたが、この頃になるとドイツ全土に同様のDIY精神に基づいたショップやレーベルが次々と立ち上がった

またHilsbergは1979年10月に当時影響力のあった雑誌『Sounds』へ寄稿した記事「Neue Deutsche Welle – From Grey Cities」で初めて「Neue Deutsche Well」という言葉を使用し、世間における認知を促した人物としても知られている。こうして、「マルチタスク」という言葉さえ存在しなかった時代に、シーンにおける探求者、起業家、布教者、マネージャーと様々な業務を行っていたHilsbergは、シーンのキーパーソンとなった。しかし、だからと言って彼が裕福になった訳ではなかった。Hilsbergは他の仲間よりも長くこのジャンルに関わり続け、大金を生み出す側へ飛び移るようなことはしなかったからだ。



オーストリア系アメリカ人の作家Walter Abishが1980年に発表した小説には『How German is it?』(どの程度ドイツ的なのか?)というタイトルが付けられているが、ONDWはまさにドイツそのものだった。バンド個々の差はあったにせよ、基本的には当時のすべてのバンドが歴史を含む(西)ドイツの様々な問題に対するメッセージを発していた(当時は第2次世界大戦終結からまだ32年しか経っておらず、ナチスという問題はまだ残っていた)。たとえばリンブルク・アン・デル・ラーン出身のWirtschaftswunderや、Die Radiererはドイツ人の多くが忘れたい歴史を暗示したバンド名をつけており、ZKやKosmonautentraumは旧ソ連のコミュニズムに対する恐怖を揶揄したバンド名だ。また、Deutsch-Amerikanische-Freundschaft(DAF)は第2次世界大戦後の敗戦を受けて結ばれた両政府間の友好関係を皮肉っている。

更に、ミュンヘンのFreiwillige Selbstkontrolleはドイツの映画倫理委員会の名前をバンド名に冠し、Ede und die Zimmermänner(のちのDie Zimmermänner)は時代の先を行き過ぎていたテレビ番組『Vorsicht Falle』と『XY Ungelöst』を通じてドイツ国民の犯罪に対する恐怖心を煽った司会者Eduard Zimmermannからつけられている。また女性が率いていた2つのバンドは衛生用品からバンド名を拝借した-ハノーファーで自主レーベルNo Funを展開していたHans-A-Plastとはドイツ国内で有名な絆創膏の名前であり、チューリッヒのRiot Grrrlの前身とも言えるバンドKleenexはティッシュペーパーの名前だ。尚、Kleenexとしての活動は1978年から1979年の1年間だけで、その後は商標登録元から訴えられたことが原因で、バンド名をLiliputに変更している。



すべてのバンド名は彼らのアイデンティティを示していた。これらはFrumpy、Kraan、Lake、Scorpions、Supermaxなどのバンド名とは異なり、その時代に対抗するような意味合いが含まれている。これらのバンドは自分たちが彼ら以前の世代とは違うのだということを戦術的な視点、そしてアート的な視点から明確に示していた。彼らは英名ではなくドイツ名をバンド名に用い、歌詞もドイツ語を用いていた。また、クリアではなくシャープなスタイルを、ファンタジーの代わりに現実を、調和の代わりに対立を、そして長髪の代わりに短髪を打ち出していた。尚、Fehlfarbenは “Gottseidank Night in England” で「Schneid’ dir die Haare, bevor du verpennst!」(寝過す前に髪を切れ!)と歌っている。

デュッセルドルフ出身のこのバンドが1980年にリリースしたアルバム『Monarchie und Alltag』は多くの賛同を得ることになった。FehlfarbenはデュッセルドルフのRatinger Hof周辺のパンクシーンから生まれたバンドだ。ちなみにこの街はDie Toten Hosenも輩出している。『Monarchie und Alltag』は、ポストパンクとNDWが長年に渡りサブカルチャーの覇権を握っていたヒッピーカルチャーに代わって台頭したタイミングでリリースされたという意味で、絶妙だった(前述の歌詞は「時代に取り残される前に髪を切れ」という意味が含まれている)。

ポストパンクとNDWが長年に渡ってサブカルチャーの覇権を握っていたヒッピーカルチャー代わって台頭した

Fehlfarbenのパンクに影響を受けたややキャッチーな楽曲はパンクに興味を持っていなかった人たちへのアピールに成功した。『Monarchie und Alltag』は意図せずにして世間を反映したアルバムとなり、またEMIがバンドの発言を無視して、翌年に “Ein Jahr (Es geht voran)” をリリースしたことで更にその勢いが増すことになった。前進することを歌い上げたサビは、バンドの攻撃対象になっていた古い世代のドイツ人も含む全員が口ずさむようになった。

尚、『Monarchie und Alltag』はリリースから21年後の2001年にセールスが25万枚に到達し、Goldene Schallplatte(ゴールドディスク)を獲得しており、今でも再三に渡りドイツの各音楽誌のベストアルバムに名を連ねている。ちなみにRolling Stoneもかつてこのアルバムを『ドイツ産パンクアルバムで唯一意味のある作品』と評している。

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ただし、Fehlfarbenは1970年代後半の大半のONDWバンドとは異なっていた。英国の(ポスト)パンクバンドから受けた影響が彼らより少なかった他のバンドは、『Monarchie und Alltag』を生み出す実力が無かったとまでは言わないが、独自の路線を歩んで行った。彼らはEinstürzende NeubautenやDie Kruppsなど、金属的なサウンドを方向性として打ち出していった。Einstürzende Neubauten(崩れ落ちる新しき建築物)のバンド名とそのサウンドは時代の先を走っており、1980年のデビューから数カ月後に、1963年にJohn F. Kennedy大統領が演説を行い、米独友好のシンボル的な存在だったベルリンのKongresszentrumが崩壊するという事件が起きている。またDie Kruppsについては、ルール工業地帯における鉄鋼業の財閥で、ナチス時代に軍事産業へ参入していたクルップ家から名前が取られている(かつてアドルフ・ヒトラーはドイツ兵をクルップ製の鉄鋼になぞらえていた)。

Einstürzende Neubauten はその後ベルリンのサブカルチャーからハイカルチャーへと一気に舞台を移し、1986年にはディレクターPeter Zadekによって一新されたハンブルグの劇場へ招かれた。尚、この頃にはリーダー兼ヴォーカルBlixa Bargeld(Bargeldは生の現金という意味)のルックスはヘロイン中毒者のような恐怖心を煽る青年から、体重が大幅に増えた恰幅の良い男性へと変貌している(尚、BargeldはNick Cave & Bad Seedsのメンバーとしても活動していた)。



また、Gudrun Gutも同様に長いキャリアを誇っている。彼女はEinstürzende Neubautenにオリジナルメンバーとして参加する前の段階ですでにBettina KösterとBeate Bartelと共にMania Dを結成していた。ちなみにこのバンド名はすぐにMalaria!へと変わっている。尚、Malaria!は “Kalter Klares Wasser” をヒットさせており、この曲は2001年にChicks On Speedがリミックスしたことでも知られている。Gudrun Gutは、このリミックスがリリースされた頃にはレーベルMonika Enterpriseを立ち上げており、現在はコンテンポラリー・エレクトロニック・ミュージックシーンにおける重要人物としての評価を固めている。またGutはテクノクラブ兼ラジオ番組Ocean Clubを、パートナーであるThomas Fehlmannと共に運営している人物としても知られている(FehlmannはPalais Schaumburgのオリジナルメンバーで、現在はケルンのKompaktに所属している。尚、The Orbのメンバーでもある)。

ONDWの哲学は今でもベテランアーティストたちを現在そして未来へと導いている

GutはMonikaから数多くのソロ作品をリリースしているが、彼女のキャリアを一番よく物語っているのは、2010年に結成されたAntye Greye-Fuchsとのユニット名「Greye-Gut-Fraktion」だろう。彼女は継続と裂け目(Fracture)のキャリアを歩んできたが、継続とは裂け目があるからこそ存在するものだとも言える。ベルリンの壁の崩壊という裂け目、テクノの登場という裂け目、そして統一ベルリンの空虚な中心に生まれた新たな活動の数々やアートの再構築などは、ONDWとして活動をスタートさせたミュージシャンの多くに影響を与えている。

ベルリンとは距離があるが、ミュンヘンのFreiwillige Selbstkontrolle(FSK)も1979年の結成からスタイルと音楽的方向性を幾度に渡り変えてきたバンドだ。FSKのメンバーに共通する要素のひとつは、ハイカルチャーとの独特の関係性にある。つまり、彼らはその一部に属しつつも、距離感を保っているのだ。FSKのオリジナルメンバーMichaela Melianは芸術の教授でありながら、受賞経験もあるアーティストとして活動しており、彼女の夫で同じくオリジナルメンバーのThomas Meineckeは作家としての活動と並行してラジオ/クラブDJとしての活動も展開するなど、独特の距離が保たれている。ONDWの哲学は今でもこれらのベテランアーティストたちを現在そして未来へと導いている。アーティストたちは活動を続け、ONDWは時としてそこに絡まっていく。そして、ドイツ国内よりも海外で高い評価を得ているアーティストもいる。たとえばMoritz von Oswaldがその代表格だろう。



80年代後半、Moritz von Oswaldは後期Palais Schumburg(ドイツ大統領邸の名前。Heinrich LübkeやKarl Carstensなどナチスに関わった人物が居住)にドラマーとして参加すると、90年代からは、Mark Ernestusと共にBasic Channel やMaurizio、Rhythm & Soundなどのプロジェクトに積極的に関わり、これらのプロジェクトを通じてテクノとダブを組み合わせるという新しい音楽を生み出していった。ONDWの活性化を促したクリエイティブなエナジーと同様のエナジーを継続的に活用しながら、Moritz von Oswaldは数十年に渡りシーンでの活躍を続けている。

ONDWの活性化を促したクリエイティブなエナジーと同様のエナジーを継続的に活用しながら、Moritz von Oswaldは数十年に渡りシーンでの活躍を続けている

Moritz von Oswaldは形式的なビジネスへの関わりを拒否することが多い。本人はメディアへの露出を控えており、匿名性を維持してきたため、ポップミュージックを聴くオーディエンスの多くは彼の存在を知らない。『Revolver』(The Beatles)、『Electric Ladyland』(Jimi Hendrix)、『Blue』(Joni Mitchell)、『There’s a Riot Goin’ On』(Sly & The Family Stone)などに匹敵するような数々の歴史的作品に関わってきた人物としてこれは残念なことだ。上記のアルバムのファンの大半はMoritz von Oswaldの名前すら知らず、またMoritz von Oswaldと彼らが敬愛するアーティストを比較することに意味を見いだせないだろう。しかし、これこそが、主流に刃向ってきたONDWの長い歴史と、その影響力の大きさの証拠と言えるだろう。