十一月 21

Jean-Michel Jarre:伝説のメガコンサート

RBMA Paris 特集 Part 10:フランスが誇る世界的なシンセサイザープレイヤーの代名詞でもあるメガコンサートの数々を本人の言葉で紹介

By Michaelangelo Matos

 

メディアを賑わすエレクトロニック・ミュージックのスーパースターたちが生まれたのはつい最近のことだと思っている人は、Jean-Michel Jarreの存在を知らない。Pierre Boulez、Luc Ferrari、Bernard Parmegiani、そして自らが師事したPierre Schafferなど、電子音楽に取り組んだ著名な作曲家たちが参加していたことで知られるGRM(フランス音楽研究グループ)で学び、Karlheinz Stockhausenのケルンのスタジオでも学んだ経験も持つフランス人作曲家・演奏家のJarreは、Moogのモジュラーシステムにいち早く取り組んだアーティストのひとりであり、それを大々的にフィーチャーした1976年のアルバム『Oxygène』を世界的にヒットさせると、全世界で1500万枚を売り上げた。現在でもエレクトロニック・ミュージックのベストセラーの1枚に数えられているこのアルバムは、テクノ、アンビエント、ニューエイジなどの礎になった作品としても知られている。

 

そのようなヒットアルバムを大量に抱えるJarreだが、それよりも彼が知られているのは、大がかりなメガコンサートだ。1979年のパリ祭(7月14日。フランス共和国成立記念日)で、コンコルド広場で開催されたコンサートには100万人以上を動員し世界記録となったが、本人はその後自らのコンサートでその記録を更新している。また、ライティングとエフェクトを駆使したステージは、巨大な建築物を利用してレーザーやプロジェクション(1986年のヒューストン公演では、ビル群を布で覆った)を駆使しており、それはまるで映画『Metropolis』のカラー版のようなイメージを打ち出ししている。また、言うまでもないが、彼のステージはレイブカルチャーのオーディオ/ヴィジュアルパフォーマンスのプロトタイプにもなった。

 

「当時のコンサートには、それぞれ1冊の本になるほどのストーリーが詰まっている」リヨンの自宅からのSkypeインタビューで彼はこう振り返り、「音楽だけではなく、周囲で何が起きていたかも含めてね。社会的視点、文化的視点、芸術的視点から語ることができる。素晴らしい日々だったよ」と続けた。彼自身による今回の回想を参考に映像を確認してもらいたい。

 

 

1. AOR:パリ・オペラ座(1971年10月21日)

 

AORはあなたが初めて手がけたバレエ用楽曲ですか?

 

その通り。当時の私は、パリのDiogenes Rivas Music CenterでPierre Schafferと電子音楽の研究を終えたばかりだった。オペラ座でバレエ用の楽曲を書いてくれと以前から頼まれていたんだが、"伝統保守の権化" のようなあの場所(笑)が、エレクトロニック・ミュージックの演奏を許可したのはあの時が初めてだったね。また、私もそれまでに地元のロックバンドと何回か共演した経験はあったが、電子音楽のビッグパフォーマンスはあの時が初めてだった。

 

当時のオーケストラは、いつの日か自分たちがエレクトロニック・ミュージックとPAシステムに取って代わられると恐れていた。今振り返ると笑ってしまうがね。だから、抗議の意志を示すために、PAシステムの結線を抜いて困らせようとする人たちもいた。結局、私は彼らを満足させるためのクラシックなパートを用意し、その他のパートもオーケストラと共演する電子音楽にしたので、問題は起きなかった。

 

オペラ座の代表には「君のプロジェクトに何の異論もないが、まず聴かせて欲しい」と頼まれた。それで私たちは彼の事務所にあったサウンドシステムでファーストパートを聴かせたが、そのためにはかなりの機材やシンセを持ち込まなければならなかった。当然、MacBook1台で済む今と比較すると、とてつもない労力だったね。

 

 

2. コンコルド広場(1979年7月14日)

1979年のパリ祭(7月14日。フランス共和国成立記念日)にコンコルド広場でコンサートを開催しましたが、どの程度の観客数を見込んでいたのでしょう?

 

面白いことに、当時このプロジェクトはかなりアンダーグラウンドなものだった。アウトドアでエレクトロニック・ミュージックのライブミックスと巨大なプロジェクションを展開するというのは、まだ誰もやったことがなかった。当時はセカンドアルバム『Equinoxe』をリリースした直後で、このアルバムはかなりの人気を博していた。そして当日、ステージマネージャーと私が日没と共にステージに上がるとシャンゼリゼ通りが黒く変色していたので、私たちは不思議に思ったんだが、実は、それは人だかりだったんだ。100万人が集まっていたなんて知りもしなかったよ。本当に予想外の出来事だったので、あのショックが頭から消えるまで1年かかった。最近はインターネットで瞬間的にバズが生まれるが、まさにそのような感じだった。

 

準備としては、警察とパリ市から許可をもらい、広場の一部を閉鎖してすべての機材を運び込んだ。たしか開催の3日前だったと思う。2晩をかけてリハーサルした。多くの人たちが関わっていたよ。当日にあれだけ多くの人が集まったのは、関係者の数が多かったのが理由のひとつだったのかも知れない。

 

ライブパフォーマンスということで、常に動き回る必要があったと思います。特に「Oxygene 4」では激しく動き回っていますが、事前準備はどの程度していたのでしょうか?

 

まず、当時はMIDIが存在しなかったことを理解する必要がある。ほとんどすべてをマニュアルで操作しなければならなかったが、数多くのテクニックや、自分で開発したMIDI以前のユニークな同期システムを駆使して、いくつかのパートを同時にトリガーしていた。

 

巨大なヘッドセットを使って誰に話しかけていたのですか? 照明の指示でしょうか?

 

その通り。当時は照明やプロジェクションは同期していなかったので、すべてをマニュアル操作で行っていた。クリックトラックを用意していたが、それ以外は自分で指示を出していた。上手く機能したよ。

 

銀色に輝くシャツは今でも持っていますか?

 

(笑)。ああ、どこかにあると思う。あのシャツは視認性を高めるためのアイディアだった。当時はステージを映すスクリーンがなかったからね。あの頃の私たちは一生懸命未来を予想していた。2000年後の世界では車が空を飛んでいるだろうと真剣に予想していたんだ。未来をゼロから生み出そうとしていた。一方、今は過去を振り返ることで未来を生み出している。2000年以降そういう流れになっているのは不思議だね。SF映画でさえ、1930年代や1940年代の小説やヒーローをベースにして作られている。

 

 

3. 中国・北京/上海(1981年10月)

中国から最初に話がきたのはいつですか? 誰から連絡をもらったのでしょう?

 

奇妙な話だった。毛沢東の時代、25年間に渡り西洋の音楽は中国で禁止されていたが、そのあと、北京の英国大使館が中国のラジオ局に私のアルバムを数枚渡していた。その頃の中国の最高指導者は鄧小平で、彼は改革開放路線を通じて、世界に開けた中国をアピールしようと考えていた。そこで彼は私の音楽を初めて中国でオンエアしたんだ。それが中国国民にとっては初めて聴く西洋音楽だった。中国の若者たちは西洋の音楽や映画について何も知らなかったので、大きな衝撃となった。

 

そして私は、シンセサイザーと電子音楽を大学院で教えるべく招かれ、その流れで北京と上海でコンサートを開催することになった。正直に言うが、誰がこの決定を下したのかは私には分からない。私を招聘した人たちは、それが理由で投獄される可能性があると考えていたはずだ。コンサートは月で演奏しているような、未知の体験だった。

 

コンサートが中止になるのではと感じた瞬間はありましたか?

 

常にそんな感じだったよ。最初から最後までね(笑)。中国での演奏は今でも難しい。私は7年前に紫禁城と天安門広場で演奏する機会に再び恵まれたが、あの時も非常に難しかった。だが、当時はいかんせんすべてが分からない状況だった。彼らは必要な電力を確保するために、街の一部の電力をカットしていた。それはあとで分かったことだがね。北京の一区画の電力をすべてカットしていたんだ。

 

あの時は、西側から来た映画撮影チームから発電機を数台借りた。丁度、ベルナルド・ベルトルッチ監督が映画『ラストエンペラー』を紫禁城で撮影していたので、彼らと機材を貸し借りしていた。私たちにはBBCの撮影チームのドリー(訳注:カメラ用の台車)があったが、彼らはそれを持っていなかったので、発電機と交換したんだ(笑)。

 

 

4. Rendez-vous Houston(1986年4月5日)

 

ヒューストンのコンサートはNASA・ジョンソン宇宙センターとヒューストン市を祝うフェスティバルという位置づけでしたが、開催に至った経緯は?

 

ヒューストン市の音楽監督は、開催の3年前から私にオファーを出してきていたが、ヨーロッパ人の私としては、ニューヨークかLAでコンサートをするのがクールだと思っていたので、何故テキサスなんだ? と思っていた。だが、その音楽監督が熱心に口説き続けてきたので、実際にヒューストンに出向いてみると、一目で気に入った。そして、高層ビル群を見た私は「素晴らしいね。これを背景にヴィジュアルを投影したらどうだろう?」と提案した。前例がなかったのでクレイジーなアイディアだったが、ヒューストン側は非常に気に入ってくれた。

 

NASAにとってはこの日が文化的なイベントへの初参加となった。ジョンソン宇宙センターの25周年を迎えていたからだ。宇宙飛飛行士たちと不思議なミーティングをしたのを憶えている。映画のようだったよ(笑)。私が向かうと、John Glennが古いRemingtonのシェーバーでヒゲを剃りながら、ポストカードにサインをしていたよ。

 

その時にRon McNairを紹介された。彼は優秀なサックスプレイヤーだったので、私はサックスを使ったエレクトロニック・ミュージックを用意した。彼はNASAで訓練している間を縫って、私と連絡を取り合っていた。NASAでの訓練中は基本的に外部との連絡が出来ない状態だったので、私は2日おきに決まった時間に電話をしなければならなかった。彼からは「僕からは連絡できないが、君が2時きっかりに電話をしてくれれば、僕は通路の電話に出られる」と言われたよ(笑)。こうしてヒューストンにいた彼とパリにいた私は電話越しにリハーサルを行った。元々は、スペースシャトルの中の彼と会場の私が共演するというアイディアだった。

 

そのスペースシャトルが、あのチャレンジャー号(編注:1986年1月28日の打ち上げ直後に爆発。McNairを含む乗組員7人全員が死亡)だった。全員が涙に暮れ、私もコンサートをキャンセルしたいと思った。だが、多くの宇宙飛行士が私に連絡をくれて「亡くなった宇宙飛行士へのトリビュートとして開催して欲しい」と言ってきた。それであのコンサートは国際的なイベントになったんだ。あのコンサート全体が彼らへのトリビュートだったが、高層ビルを使った巨大なステージというコンセプト自体は、ビッグレイヴのようなものだった。

 

 

5. Rendez-vous Lyon(1986年10月5日)

 

そしてRendez-vous Lyonですね。

 

リヨンは私の生まれ故郷で、市からローマ教皇(ヨハネ・パウロ2世)のためにコンサートを開催して欲しいと頼まれた。コンサートの直前に教皇に謁見する機会を得たが、感銘を受けたと言わなければならない。自分の宗教に関係なく、彼は素晴らしい人物だった。彼が部屋に入ってきた時、部屋の温度が高くなったように感じた。彼の履いていた靴に魅了されたよ。箱ごと履いているような靴だった(笑)。意識が空の遙か上にありながらも、地に縛り付けられているようなイメージを生み出していた。実際に話してみると、そのイメージ通り、非常に落ち着いていて先見性のある人物だったよ。

 

 

6. ラ・デファンス/パリ(1990年7月14日) 

1990年のラ・デファンスでPeter Minshallと共演した経緯は?

 

その1ヶ月前にトリニダード・トバゴでスティールパンのバンドとレコーディングをしたんだが、その時に向こうでPeter Minshallに出会った。以前から私の中には巨大なパペットとの共演は面白くなるはずだというアイディアがあったが、彼はその実現において天才的能力を発揮したね。彼は以前スコティッシュ・バレエ団の最年少舞台担当を務めた経験を持っていたが、その後トリニダード・トバゴへ移り、そこでカーニバルのデザインを担当していた人物だ。そのカーニバルはブラジルのカーニバルのようなもので、島全体が参加するものだ。彼はその一部としてストリートオペラを演出していた。それを見た私が「何か一緒にやるべきだ」と持ちかけたんだ。

 

このコンサートの動員数は再びギネスブックに載る記録となりました。当時は記録更新を意識していたのでしょうか?

 

それは今でも不思議に思っている部分だ。私は記録更新に囚われたことは一度もないからね。フェスティバルは、多くの人が集まってひと晩を共有するというものだが、私はひと晩どこか広い場所をハイジャックするというアイディアが好きなんだ。非常にロマネスク的なアプローチでリスクが高い。こちら側にもオーディエンス側にもセカンドチャンスはない。翌週にもう一度見ることはできないんだ。

 

 

7. Swatch the World(1992年9月25日・26日)

 

Swatchからオファーされた当時、あなたが身に付けていた腕時計は?

 

あの頃はアラーム機能がついた腕時計を常に身に付けていた。ホテルのモーニングコールを信用していなかったからね。当時のSwatchの社長、Nicolas Hayekはクレイジーだが紳士だった。ちなみにSmart(訳注:コンパクトカー)も彼のアイディアだ。その彼から「君はなんでSwatchを身に付けないんだ?」と訊かれたので、私は「アラーム付きしか身に付けないからですよ」と答えた。すると彼は、「じゃあ君がアラーム付きのSwatchを開発したらいいじゃないか」と返してきた。このコンサートのあと、私はスタジアムツアーを開催したが、Swatchがスポンサーについてくれた。また、Swatchの最初のアラーム用音楽も作曲した。あれは非常に難しいチャレンジだった。当時は2音しか使えなかったからね。

 

1990年代のあなたはコンサートの数が増え、ツアーも定期的にこなすようになりましたがその理由は? コンサートの開催が以前より簡単になったからですか?

 

その通り。ヴィジュアルと音楽の同期が簡単にできるようになっていた。以前は第2次世界大戦時のドイツ軍のサーチライトを使ってプロジェクションを行っていた。非常にパワフルなサーチライトだったが、同時に非常に危険で、簡単に火傷を負う可能性があった。私たちはそのサーチライトで耐熱ガラスのスライドを照らし、縦横50mのイメージを映し出していた。また、ビデオが登場する前は70mmの映写機も使っていた。しかし、突如としてオートメーションが行えるようになった。一気に未来に進んだ感覚だった。今やLEDスクリーンはどこにでもあるが、歴史の長さから考えればつい最近の話だ。

 

当時、パリのレイヴシーンは盛り上がっていましたが、あなたも注目していましたか?

 

もちろん。初めてレイヴを見た時は、他のどのジャンルよりも大きな人気を獲得するだろうと確信したよ。エレクトロニック・ミュージックは機材の性質上、ヴィジュアルが非常に重要だと思っている。ヴァイオリンやトランペット、そしてエレキギターも含めた生楽器は演奏を目的としてデザインされていて、私たちはそれらにマイクを立ててスタジオでレコーディングする訳だが、エレクトロニック・ミュージックの機材の場合は、その真逆だ。私たちは元々スタジオに置かれるためにデザインされているものをステージに持ち込もうとしている訳だ。また、知っての通り、コンピュータやシンセの後ろに2時間立ち続けるのはセクシーとは言えない。

 

 

8. Nuit Électronique(1998年7月14日)

この日に共演したApollo 440や小室哲哉とはどうやって知り合ったのでしょう?

 

このコンサートの3年前に、エッフェル塔で初のコンサートを開催した。当時ではかなりハイテクなコンサートだった。2回目となるこの時は、違う形で表現したいと考えていた。なぜならワールドカップ優勝を記念したコンサートを開催して欲しいと頼まれていたからだ。かなりギリギリのタイミング決まったコンサートだったので、とにかく沢山の人たちを呼んで、フランス代表の勝利を祝うエレクトリック・ナイトを開催しようと思った。屋外で開催されたDJパーティ、ビッグダンスパーティだった。

 

この時は、自作曲のダンスリミックスがベースになっていましたが、内容についてメディアやファンからは叩かれませんでしたか?

 

叩かれたよ。ファンは自分よりも独断的だからね。彼らはアーティストに対して、自分たちが知った時のままの姿でいて欲しいと願っている。そのファンの気持ちと同期できる時もあれば、できない時もある。だが、進み続けなければならないんだ。当然ながら、リミックスは原曲からかなりかけ離れていたが、リミックスというものは別物で、それゆえにエキサイティングなんだ。違った視点で自分の昔の作品を見ることができるからね。

 

 

9. The 12 Dreams of the Sun(1999年12月31日)

ミレニアムを迎える大晦日にコンサートを開催することが決定した時、新年の予定は既に決まっていたのでしょうか?

 

何も決まっていなかった。家族や友人と休暇を取る予定だったので、まったく違う形で2000年を迎えるはずだった。

 

あれはビッグチャレンジだった。人生最大と言っても良いかもしれない。エジプトで成功できれば、月でも成功できるだろう。当時、エジプトのテクノロジーのレベルは非常に低く、国は腐敗していた。当時のエジプト大統領からは「あなたの音楽は素晴らしいが、それよりも素晴らしいのは、あなたの音楽をエジプトで披露してもらえることだ。どうやったら実現できるのか、私には見当もつかない」と言われたが、この言葉がその難しさを見事に物語っている。チームは3ヶ月間砂漠で生活した。米国、英国、フランスからテクニシャンたちが集まったが、彼らは腕時計を身に付けていなかった。ピラミッドの近くでは、時空の概念が完全に別のものになる。

 

ピラミッドの前でのコンサートはどのようなエナジーを生み出すのでしょう?

 

完全に異なるもの同士をミックスしたようなエナジーだ。エジプトはアラブだが、古代エジプトはアラブ人とは一切関係がない。つまり、エジプトに住む人たちはピラミッドと繋がりを持っていない。それゆえに、ピラミッドは今でも孤立した不思議な存在だ。また、砂漠に近いと同時に、都市であるカイロにも近いので、非常に奇妙なエナジーが存在する。『ブレードランナー』に、『アラビアのロレンス』や『インディ・ジョーンズ』シリーズを混ぜ合わせたような感じだね。

 

 

10. Oxygène 30th Anniversary Tour(2007年)

 

なぜ『Oxygène』を新録しようと思ったのでしょう?

 

実を言えば、今後更に2、3パート加えたいと思っている位だ。『Oxygène』を制作した時は、元々ダブルアルバムでのリリースを考えていたが、ファーストパートを終えた時点でリリースすると大ヒットになった。それで違うプロジェクトを抱えるようになって、残りを完成させる時間がなくなってしまった。

 

この時は、『Oxygène』をすべて生で再現するのはクールになると考えていた。当時の機材だけでMIDIを使わずにね。クラシックやジャズのカルテットのような完全なコンサートを考えていた。悪夢のように大変だったが実現させた。それで「これをフランスの劇場で演奏したい」と考えたんだ。そのコンサートが成功に終わると、ヨーロッパの様々な劇場からリクエストが届くようになり、結局ツアーになった。クラシックを演奏して回るような気分だったね。ステージには50台ほどのアナログシンセを置いていた。コンサートの中盤で45度の角度で鏡を吊るし、手の動きをはじめ、すべての演奏が見えるような演出を取り入れた。

 

 

11. アリーナツアー(2008年−2010年)

2000年代後半のロングツアーでは、これまでのすべての作品から選り抜いた楽曲を演奏しましたが、その経験が新作『Electronica 1: The Time Machine』のインスピレーションになったのでしょうか?

 

あのツアーは必ずしもニューアルバムと繋がっている訳ではない。というのも、エレクトロニック・ミュージシャンと、公の場で演奏するミュージシャンというふたつは、元来違う存在だからね。世間は自分がインターネットを通じて世界と繋がっていると考えていて、自宅にローマ教皇がいて、隣人と話す必要さえないと思っているが、このアルバムはその真逆だ。アルバム制作は、ファイルを送って、それを誰かが受け取るという形で進められ、メロディやリズムを制作した当の本人とは会わないことも多いが、このアルバムの制作方法は違った。ミュージシャンとして、そしてインスピレーションの源として私がリスペクトしている、私の人生の一部となっている人たち、そして直接的・間接的にエレクトロニック・ミュージックに関わってきた人たちと、いちから一緒に音楽を作ろうというアイディアで制作されたものだ。

 

イラスト:Benedikt Rugar