一月 16

A Guide To Boredoms  

ニューヨークで活躍するイギリス人ライターが紹介するBoredomsの魅力

By Nick Neyland


30年に及ぶ活動を通して自らとその音楽、そして周囲の世界までもを絶え間なく作り替えてきたBoredomsは、論理など意味をなさない極致に達したバンドである。荒々しいロック・バンドとしてスタートした彼らは、荒唐無稽で容赦ない領域へと進化し続け、他に類を見ないスピリチュアルな音楽体験に接近している。

 

彼らは決して明解なバンドではない。Boredomsがいつ始まり、活動を終えたのかどうか、またこれからレコードのリリースがあるのかどうか、またバンド名の正しい綴りやその時々のメンバー構成でさえも、明らかではない。レコード1枚しか世に出なかった作品もあれば、Reprise/ Warner Bros.という巨大なメジャー・レコード会社から発売されているものもある。バンドの混沌とした活動期間でただ一人の不変のメンバーは、EYE (あるいはEYヨ)。シャーマンのようなフロントマンでありバンドの原動力である彼の無限の想像力は、ロックの限界を塗り替えただけでなく、バンドとバンドのあり方そのものに挑戦し続けてきた。彼らがメジャーのシステムと戯れたことは、一般大衆におけるアンダーグラウンドの概念を再構成する試みと映ったかもしれない。だが実際にはBoredoms自身が、あちら側へのブレークスルーなどあり得ないことをよく知っていたに違いない。

 

筆者が初めてBoredomsを見たのは1995年のGlastonburyフェスティバルで、ブリットポップ最盛期にReef、Ash、Shed Seven、Dodgyといったバンドと同じステージに出演していた。これが、時に「wackoaggro(ワッコアグロ)」と呼ばれていた、彼らの旋風のようなパンク・スタイル期の最後だった。フェスティバルのプログラムには「耐え難さをやや上回る」と紹介されており、Boredoms的な言語センスではかなり強い推薦を意味していた。

 

Boredomsの歩んできた道程を理解するには、目の回るような高みから、苛立たしい行き止まりまでをひと通り辿らなければいけない。80年代後半のある時点では、カセットテープのみで発売された伝説の『Boretronix』シリーズがあったが、実際それらの何本が世に出たのかは謎のままである。さらに混乱を招くことに、ある時EYEが自分専用のアナログのカッティング・マシンを手に入れ、1枚限定のリリースもしていたことだ。Masonnaとして知られる日本人ノイズ・アーティスト、山崎マゾはそれを手に入れた1人。「Boredomsの1枚限定のレコードを持っています」と、山崎は『Bananafish』誌のインタビューで語っている。「古いNew York Dollsのレコードの上からカットしてあるので、BoredomsからDollsへと針が行ったり来たりするんです。最高でしょう。」

 

意図的に混乱を招くような活動を続けてきたとはいえ、Boredomsが通過してきたいくつかの段階を区切ることは可能である。まるでEYEが独自の言語で、逆回しに物語を綴っている間に統制と無秩序の間で自分を見失ってしまったかのように感じられたとしても、そこには各章の始まりと終わりを示す明確な目印がちゃんとある。

 

ここでは、Boredomsの現在 ——1988年からメンバーとして在籍し続けるドラマーYoshimiが、新たな始まりの可能性を示唆している地点 —— に至るまでの軌跡を紹介する。長年ドラムに焦点を当てた活動をしてきた彼らだが、彼女は最近『Wire』誌でBoredomsが次のプロジェクトでは「ドラムなしでレコーディングすることを考えている」と語っており、それが本当ならバンドをまた根本から覆すことになり得る。


1983〜1986年:始動

 

 

Boredomsの起源を探るには、EYEのハナタラシ(Hanatarash、元の綴りはHanatarashi)としての活動に触れる必要がある。このジャパノイズ黎明期のバンドによる伝説的な狂乱のライブは、比較すればBoredomsでさえも良い意味で落ち着いたと感じさせるような無謀さだった。ハナタラシはまさにインダストリアルの先駆者Einstürzende NeubautenとGG Allinの折衷だったのだ。

 

EYEはハナタラシのコラボレーターであるZeni Gevaのギタリスト田端満と、Neubautenのライブで出会っている。ハナタラシも、Neubautenと同様に電動工具を駆使するステージを好み、EYEと田端は今となっては存在したことすら信じがたい奇妙な空想世界を、周囲に築き上げていた。ネコの死骸をナタで真っ二つに切り裂き、観客に権利放棄書への署名を求め、EYEがステージ上で火炎瓶に火をつけようとした際にはライブが中断されたこともある。幸運なことに、EYEがステージでブルドーザーを乗り回したという悪名高い出来事は、今も写真に記録されている。

 

Boredomsを定義する多くの要素が、既にハナタラシにあった。奇妙なスカトロ的ユーモア、EYE特有の非言語、野心的な行為を好む傾向、そして今この瞬間にも崩れてしまいそうな音楽。このバンドのレコードを聴いていると、決して組み合わせられないパズルのピースの山を見つめているような気持ちになるのだ。


1986〜1990年:Anal by Anal 〜 Soul Discharge

 

 

1986年までにEYEは、ハナタラシの灰からBoredomsという、Buzzcocksの曲「Boredom」から名づけたバンドを結成した。結成当初のメンバーは入れ替わりが激しく不明なままで、3曲入りデビューEP 「Anal by Anal」はEYEと田端でレコーディングされている。

 

オリジナルのメンバーは、EYEが別にやっていたAcid Macky & CombiとZombieというバンドの面々で構成されていた。メンバーの出入りがしばらく続いたが、Yoshimiとの出会いが重要な転機となった。脱退しようとしていた田端の紹介で出会ったEYEとYoshimiはまず、Hasty Snail Baby(後にUFO or Dieに改名)というバンドを結成した。

 

Yoshimiは2002年の『Wire』誌でのインタビューで「初めて見たときは、凄くつまらなくて最後まで見なかったのを覚えています」と、オーディエンスとして見たBoredomsのステージにがっかりしたことを語っている。EYEもこれに「完全なる退屈の中には何か美しさがある」と同記事の中で同意している。

 

この活動形態は長くは続かなかったが、その後生まれたのがデビュー・アルバムである『恐山のストゥージス狂』(アメリカでは『Anal by Anal』と共にパッケージされ、『Onanie Bomb Meets the Sex Pistols』というタイトルがつけられた)だった。そこでは彼らのパンク、スピード・メタル、サイケデリアの限界への興味が(未)精製されていた。Butthole SurfersにNapalm Death、Captrain Beefheartの要素を配合し、それをEYEがゲップや摩擦、引っ掻き音でリスナーの意識に擦り込んでいくような作品だ。

 

日本のロック・シーンの外縁で活動していたのはBoredomsだけではなかったが、彼らほど面白く、間抜けな個性を持ったバンドはそう多くはなかった。曲のタイトルは「Lick'n Cock Boatpeople」や「God from Anal」、「Jah Called AC/DC」といった具合。EYEの Boredomsは多くの場合、音楽の限界に執着するという意味では同胞であったMerzbowやRuinsからも距離を置いていた。David Novakは著書『Japanoise: Music at the Edge of Circulation』で、EYEがBoredomsについて「ノイズじゃなくて、ノイジーな(うるさい)だけ」と語っていたことを記している。

 

Yoshimiは『恐山~』には参加していないが、その後Boredomsのメンバーに反音楽的で奇妙な変化が起こり、横山豊人がドラムからパーカッションに転向した(EYE曰く、横山は「ドラムの叩き方を知らなかった」)。こうしてYoshimiが埋めるスペースが出来、バンドのコア・メンバーとなる2人が固まった。

1988年、Jon Spencerの退廃的ロック・バンド Pussy Galoreのジャパン・ツアーにBoredomsが同行した。SpencerはBoredomsのパフォーマンスを「Butthole Surferモードのフル・ノイズ・ロック… クレイジーでワイルドで、ありえないほどエネルギッシュ」と評した。重要なのは、これがEYEにとってニューヨーク・ロックとアヴァンギャルド・ノイズ・シーンとの最初の接点の1つであったことだ。

 

同じ頃、EYEは実験音楽の作曲家John Zornと知り合っているが、そのきっかけはZornがEYEの別プロジェクトGeva Gevaを見たことだった。ZornはEYEに自身のバンド Naked Cityでの共演を提案し、さらにBoredomsのテープを、元Butthole Surfersのメンバーで自身のレーベルShimmy Discからワイルドな前衛ロックやサイケデリック・フォーク・アーティストをリリースしていたKramerに渡した。Zornによればそれを聴いて「ひっくり返った」というKramerは、Boredomsのニュー・アルバム『Soul Discharge』をShimmyから出すライセンス契約をした。

 

まるで困惑の暴動のような『Soul Discharge』には、スクラップ・メタルのようなドラムに無意味なヴォーカル、そして乱暴なソロが詰まっていた。オープニング曲「Bubblebop Shot」は、Boredomsのメンバーであることこそ世界で最も素晴らしく、同時に最悪なことだと思わせ、床にゆっくり滑り込んでいくようにクライマックスを迎えながら、バンドそのものが歪んだアシッドのもやの中に溶けていくような気分にさせる。

 

『Soul Discharge』リリース時の北米もまた、当地のエクストリーム音楽の過渡期を迎えていたので、アンダーグラウンド・シーンでBoredomsが歓迎されたことは驚くに当たらない。彼らは同志であり、異なる時空から交信するように、共にロックを腹をかき混ぜるような新しい領域へ押し進めようと奮闘していた。


1990〜1997年 Pop Tatari 〜 Chocolate Synthesizer

 

 

Naked Cityのレコードは、メジャー・レーベルNonesuch/ Elektraからリリースされ、Boredomsと企業のロック・ビジネスとの思いもよらない関係が始まった。1992年にはWarner Japanと契約を交わし、メジャー・レコード会社による(Nirvanaのアルバム)『Nevermind』以来のこのもの珍しいディールは、北米Warner Bros.のA&R部副総長だったDavid Katznelsonの目に止まる。

 

Katznelsonはアメリカ国内でこのバンドをRepriseからリリースすることを目論んでいたが、バンドの母国である日本ではWarner Japanが契約をアルバム6枚分延長するなど、さらに影響が及んでいた。上機嫌のWarner Japanのお偉方に食事に招待されたというKatznelsonは、「まるでThe BeatlesかEric Claptonとの契約を取ってきたスターのように扱われた」という。

 

その後はさらに奇妙な展開が待っており、Boredomsは『Pop Tatari』(1992年)と『Chocolate Synthesizer』(1994年)という一切妥協のない2枚のアルバムをリリースした。さらにその2枚の間に、1993年にZornのレーベルAvant Recordsから『Wow 2』も発売されている。

 

これらの作品の第一印象は、原点回帰。『Pop Tatari』はメジャー・リリースらしからぬ、最も非商業的なアルバムの1つだったが、最も若さと勢いを感じさせるものだった。核となっていたのは、奔放な子供っぽさで当時人気を集めていた、John Kricfalusiによるアニメ番組 『The Ren & Stimpy Show』と並行するような、マンガ的な感性だ。

 

Boredomsと米国のアンダーグラウンド・シーンとのコネクションは1990年代前半には揺るぎないものとなっていた。1992年のSonic Youthとのツアーに続き、93年には数日間Nirvanaの北米ツアーの前座を務めるという事態に発展した。

 

当時(Kurt Cobainの娘) Frances Beanの子守をしていたアーティストCli DeWittは、Everett Trueの著書『Nirvana: The True Story』の中で、Boredomsのパフォーマンスに対する入り混じった反応についてこう述べている。「アリーナ全体がブーイングした時もあれば、みんなが楽しんだ時もありました。」日本のドキュメンタリー番組 、『精神解放ノ為ノ音楽』はこの両バンドの共演の様子を撮影したが、現在ではそのうちのほんの一瞬しか残されていない。

 

 

1993年、Boredomsは更なるアイデアを世に送り出すのに不可欠な手段となった『Super Roots』シリーズを発表し始める。1作は子供向けテレビ番組のテーマソングを3ヴァージョン収録しており、何作かはヒプノティックなトラック1曲を中心に構成されていた。

 

『Chocolate Synthesizer』は1994年に発表され、北米ではWarner/ Repriseからのリリースとなった。そのよりタフなサウンドからは、バンドが変貌の時を迎えていることが聴き取れる。オープニングの「Acid Police」は彼らの荒々しさが最も良く表れたButtholes Surfers崇拝に根ざした曲で、ドラムにはトライバルな要素と、全体を通してダウナーな雰囲気があり、Boredomsがハチャメチャなパンク時代を既に通過したことが伺える。

 

だがバンドはまだ、無防備な観客の眼球にアシッドを差すような驚きをもたらすことを止めたわけではなかった。1994年のツアーの日程にはLollapaloozaのメインステージでのパフォーマンスが組み込まれており、それはKurt Cobainからのリクエストだったという(Nirvanaが出演中止となっても、Boredomsは予定通り参加した)。メジャー・レコード会社による『Nevermind』型の青田買い時代は終わろうとしていたが、EYEのバンドにはあまり関係がなかった。『Pop Tatari』や『Chocolate Synthesizer』が他からリリースされたていたとしても、そのサウンドが違っていたとは想像し難い。

 

BoredomsのLollapaloozaでのライブをして、『New York Times』紙は「手に負えないノイズ」と評し、『Variety』誌は「全く記憶に残らないセット。小さなクラブと狂ったオーディエンス向け」と書いた。EYEはこれを面白がったに違いないが、メジャー・システム内部からの転覆作戦は終わりを迎えようとしていた。Warner/ Repriseとの契約は、1996年の『Super Roots 6』で打ち切られた。


1997〜2004年:Super æ 〜 Seadrum/ House of Sun

 

 

1997年、Yoshimiはその後長年続くことになるサイド・プロジェクト、OOIOOを始動させ、傑作『∞8∞』をリリースした。Boredomsにとっては劇的な方向性の変化の時期となり、その最初の兆候であった『Super æ』は、それまでの過去を全て清算するような作品だった。

 

北米ではKatznelsonのレーベルBirdmanからの発売となった同作は、エレクトロニクス、クラウトロック、サイケデリック・ロックをふんだんに取り入れていた —— 特に変わった組み合わせではないが、彼らの手にかかると特別に聴こえた。過去の作品が音による激しい攻撃であったとすれば、そのコンパクトに凝縮されたエネルギーの代わりに、この作品では熟考された歯切れの良いリフがアルバム全体に均等に振り分けられ、まるで全体が1つの長い曲のようにまとめられていた。

 

『Super æ』は、Boredomsの物語の中でも、そのパワフルで象徴的な勢いを示す作品であり、タイトルは彼らが好んできた「スーパー」という言葉に「アイ」に近い音で発音される「æ(アー)」という二重音字が加えられている。これが意味するものが何なのかは、説明されることはないであろう。英訳された彼らのインタビューはしばしば、混乱とユーモアと意図的な妨害シグナルの錯綜だ。スーパーという言葉の重要性を問われた1999年の『Washington Post』紙のインタビューでは、「僕たちはスーパーマーケットが好きで、よく行くし影響を受けてる」とEYEは冗談めいた回答をしている。

 

この頃Boredomsは7という数字にもこだわり始め、それが後の活動においても重要視されていくことになる。EYEは2008年に、Hisham Bharoochaに傾倒のきっかけをこう説明している。「パレンケで太陽の神殿に登った時、階段の数を数えたら77段だった。」同じインタビューでEYEは、沖縄では7という数が「多くの」、「たくさんの」、「広がること」を意味することに触れ、「みんなが共有できる。そういう意味で肥沃な数字だと思う」と述べている。

 

この時期、EYEの特異なダンス・ミュージックへの関心も一気に噴出する。その1つが非Boredomsリリースの中でも鍵となるコンピレーション、『Shock City Shockers』だ。異端のポップ・ミュージシャンCorneliusとジョイント・ヴェンチャーとして出された本作は、実は収録アーティストのほとんどがEYE自身の変名であり、またEYEが作成したBeckの99年のアルバム『Midnite Vultures』のジャケット・デザインの原案となったというアートワークに包まれていた。

 

創造力が漲っていた97年から98年の間、Boredoms関連のリリースが湧き出るように続いた。OOIOOがアルバム『Feather Float』を発表し、EYEもDJ 光光光(ピカピカピカ)として『Planetary Natural Love Gas Webbin' 199999』をリリース。これは時にジャングルのモチーフを取り入れながらも異常に高速なBPMで、全てを完全なるカオスに引きずり込むようにサンプルを集中的にビルドアップしていく、EYEによるハイパーで熱狂的なダンス・ミュージックのヴィジョンであった。

 

 

Boredoms名義では『Super Roots』シリーズがさらにリリースされ、リミックス・プロジェクト『Rebore』ではEYEのクラブ・カルチャーへの執着をより強め、また『Vision Creation Newsun』というEPとLPも発売された。このアルバムでバンドはサイケデリックの領域にさらに深入りし、『Super æ』のコンセプトを新たな次元へと進化させたトランスを誘起する作品で、トラック名はもはや記号だけに縮小されていた。

 

バンドの過去と現在を繋ぐ目印は、これらの『Vision Creation Newsun』で用いられている記号に表れている。そのうちの2つである円と渦巻きは、ステージ上の配置を支配するようになり、限定盤に記載された記号は、「Hourglass(砂時計)/ Boretronix Logo」と訳されてデジタル化された。

 

2000年代に突入する頃には、BoredomsはV∞redomsと改名(欧米では引き続きBoredomsという表記が使われていたが)。ドラムに比重を置いた構成で、Boredomsの日本におけるライブは、部族的・神秘的行事になっていた。YouTubeで見ることができる2001年のフジロック・フェスティバル出演時の映像には、全ての中心で我を忘れるEYEと、周囲を気にせず頭を垂れて踊りまくるオーディエンスが捉えられており、この日の予想のつかない展開をみせたパフォーマンスを記録している。

 

2000年代初期にはBoredomsの影響力は最高潮に達し、特にブルックリンのノイズメーカー Black Diceとプロヴィデンスのノイズ・ロック・バンド Lightning Boltは顕著な例であった。これらのバンドはBoredomsの持つ幅の両端からそれぞれ影響を受けており、Black DiceはBoredomsの耳障りな側面を山のようなエレクトロニクスの断片でふるいにかけ、Lightning Boltは初期のニヒルなロックの激しさをこれまでにない深い底へと落とし込んでいた。

 

興味深いことにBoredomsのUSでの名声は、Flaming Lipsが『Yoshimi Battles the Pink Robots』をリリースした2002年に思わぬにピークを迎えた。客演としてフィーチャーされたYoshimiは、アルバム・タイトルにまでなったのだ。

 

2004年リリースの『Seadrum/House of Sun』は、バンドの瞑想的な側面を更に拡張させたものであり、Warner Japanとの契約最後のアルバムとなった。『Seadrum』はそれまでに公開されていた複数のインタビューで触れられている、過去に砂浜で録音したというドラム音源を元に構成されていると考えられている。アルバムのUSツアーについて『New Yorker』誌のSasha Frere-Jonesは、ライブの最後には「誰も言葉が出てこないようだった」と書いている。「Boredomsのショーであり、Boredoms最後のショーだとしか思えなかった」と。


2004年〜現在:Boadrum

 

 

Boredomsは2004年以降レコーディングを止めてしまった訳ではない。『Seadrum』以降、『Super Roots 9』と同『10』、CD/DVDセット『Live at Sunflancisco』など、いくつかのリリースがある。だが「Sevea」と名付けられた7本ネックのギターを作るところまで行き着いた7への執着と共に、太陽崇拝のパフォーマンスにより焦点を当てていることは明らかだった。

 

2007年までに、バンドは通常のコンサート形態をかなり超越した領域に到達していた。2007年7月7日、ニューヨークはブルックリンにて77人のドラマーが、「77 Boadrum」と名付けられた77分の楽曲を演奏。そのイベントは彼らのスピリチュアルな部分と茶目っ気をワイルドに混合したもので、Yoshimiが『The Stoop Pigeon』誌に説明したところによれば「日本の民話から思いついた」アイデアだそうだ。彼女は「でも本当は、ただ77人がドラムを一斉に叩いたらどうなるか、音の波動がどう伝わるかを知りたかっただけ」とも述べている。

 

この「Boadrum」イベントは、2008年にはブルックリンとロサンゼルスでドラマー88人によって(ブルックリンは、バンドと親しいGang Gang Danceが企画)、2009年と10年にはそれぞれ9人、10人のドラマーによって、そして2011年にはオーストラリアで111人のドラマーによるパフォーマンスとして、2012年にはドイツで12人のドラマーによって開催された。Hisham Bharoocha、PonytailのJeremy Hyman、OneidaのKid Millionsなど、ミュージシャンの多くはそのうちの複数のイベントに出演している。

 

Boredomsはその芝居がかった演出を怠ることなく、9人のドラマーによるイベントでは、まずステージ上で8人がショーを始め、そこから演台に乗った楯川陽二郎が担ぎ込まれてドラムキットを叩きまくるといった仕掛けが盛り込まれていた。2009年のニューヨークでのATPフェスティバルでは、パフォーマンスがあまりに長く続いたため、演奏中にスタッフがステージ機材を解体し始めた。同年、このアイデアは海上にまで持ち出され、南太平洋に浮かぶロシアのフェリー上で21世紀で最も長い日食を祝福したりもした。

 

中心にEYEが立ち、その周りをとぐろを巻いた蛇のようにドラマーたちが螺旋状に広がっていく配置は、エネルギーの波紋を外側へと流れさせた。日本で2013年に行われた、91歳のドラマー瀬戸内寂聴を含む91人のドラマーによるイベントの時のように、図面化されたマップによって会場のセッティングが指示されることもあった。2014年のパフォーマンスでは、全く迫力を損なうことなく参加者のドラムキットの一部を取払った。

 

Boredomsの未来を予測することは不可能だ。どうやら、EYEは自身の動きによって他のミュージシャンを「コントロール」することに興味を持っているようで、Boredomsのショーでは彼が他のミュージシャンの演奏に反応するモーション・センサーで操るといった手法を取り入れている。このような実験は、バンドの歴史のほんの一瞬かもしれないし、何年にも渡って没頭することになることかもしれない。それが全く分からないからこそ、彼らは常にスリリングなのだ。


GIFs by Yoshi Sodeoka