十一月 19

儚きパーティ共和国

RBMA PARIS 特集 PART 9:1990年代初頭のパリを彩ったレイヴオーガナイザーたちの姿を振り返る

1990年から1994年にかけて、フランスの若きレイヴオーガナイザーたちはアンダーグラウンドで秘密性に満ちた新たなパーティカルチャーを発明した。この記事はそんな気楽な夢想家世代の姿を記したひとつのポートレートだ。

 

By Jean-Yves Leloup

 

現在のフランスにおけるエレクトロニック・ミュージック・シーンは、90年代初期に当時20代だった若い世代を中心とした小規模なグループが、この頃まだ産声をあげたばかりのハウスやテクノをディスコという牢獄から救い出し、民主化された新たなステージに引き上げて生命を吹き込んだという、過去の系譜をダイレクトに引き継いでいると言える。

 

その若者たちの名前をここに列記してみよう。Luc Bertagnol、Manu Casana、Pat Cash、Bernard Invaders、Rakham、Serge & Yayo、Cypriano Muñoz、Paulo Fernandès、Jérôme Dumayne、Olivier Martinoo、Pierre Hermann、Serge Papo、Fabrice Gadeau、Frédéric Djaaleb、Charles Pavie、Juan Trip、Cyrillotoman、Cécile Alizon。これで全員だ。彼らは1957年から1970年の間に生まれた世代で、その幼少期から少年期にかけて自由主義的な社会風潮の中で育ち、1970年代におけるパンクの勃興、そして1980年代におけるポストパンクやニューウェーブ・ムーブメントに強い影響を受けて成長してきた。

 

90年代の到来と共に20代を迎えていた彼らは、みな揃ってクレイジーなパーティマニアとなり、各自がグループ化してRave Age、Cosmos Fact、Beat Attitude、Dragoon Fly、Tekno Tanz、Gaïa、Take No System、Happy Land、Trans Body Express、そしてFantomなど、それぞれ創意あふれるタイトルを冠したレイヴパーティを次々に開催するようになっていった。廃墟化した古い工場跡地、トンネル、建築現場、ゴミ集積場、映画スタジオ、森林開拓地、キャンプサイト、更にはマッシュルーム栽培場など ― これまで誰も思いつかなかったような場所を利用して開催された彼らのパーティは、レイヴ黎明期特有のポジティブさ、エナジー、ユートピア性などがおしなべて体現される場となっていた。

 

急速な萌芽を見せたそのレイヴカルチャーを当時いち早く取り上げ、このカルチャーにおける最重要メディアとなっていたRadio FGの「Rave Up」という番組を手掛けていたPatrick Rognant(現在はジャーナリストとして活動中)はにっこりと笑顔を浮かべながら、当時の状況を「かなりハイレベルで錯乱していた時代」と言い表し、更にこう続ける。「誰も彼もが普通じゃなかったね。どのパーティでも主催者が一番狂ってた。彼らは自らの生活や貯金、個人的自由などすべてを投げ打ってパーティのために捧げていたんだ。出演者やDJなんか比べ物にならないほどさ」

 

 

 

"自分たちがお気楽だったとは思わないね。少なくとも僕はいろんなことを気にかけていたよ! 自分たちが世界を変えるだろうって自覚していたんだ"

― Luc Bertagnol

 

 

 

当時の狂乱の時代を生き抜き、Gaïaという組織を率いてトランスシーンを活性化し続けているRakhamの言葉を借りると、当時のレイヴオーガナイザーたちは「滑稽でお気楽な狂信者」の集団で、80年代までのツアーオーガナイザーやロックコンサートのプロデューサーたちとはまったく違っていたし、その後にフランスを席巻するフレンチ・タッチ、はたまた現代のフランスのシーンにおける音楽業界のプロフェッショナルたちやスターDJたちともまったくその性質を異にしていた。彼らは自らのリスクはおろかオーディエンスのリスクについても無自覚で、1000人を超える熱心なレイバーたちを集めて地下30mや不法占拠した廃墟などでパーティを開催していた。「もちろん、僕たちは若かったし、自分たちを止めるものは何もないと信じ込んでいたね」とRakhamは当時を振り返る。

 

「確かに、あの頃は誰もが面白おかしくぶっ飛んでいた。僕も含めてね」と笑顔で語るのは、当時のレイヴシーンの立役者のひとりで、後にJeff Millsの代理人を務めることになるFrédéric Djaalebだ。彼は更に続ける。「その原動力となっていたのは、僕たちオーガナイザーだけではなかった。ジャーナリストのPatrick Rognantをはじめとした重要なキーパーソンも一緒にこのムーブメントを動かし、沢山の障壁を壊していったのさ。僕はフランスにおけるこの文化的な転換期に少しでも関われて光栄だと思っているよ。90年代のパーティが持っていたヴァイブスについては多くのことが語り尽くされてきたと思うけど、その社会的な側面についてはまだ語るべきところが多いんじゃないかな。とりわけ、複数の世代を跨いだ社会階層/性差/セクシャリティといったカテゴリをすべて巻き込んだメルティングポットとしての側面についてね。テクノロジーや映像、ミニマリズムにおける実験を繰り広げながら僕たちの世代が社会をモダン化し、メンタリティを変化させたんだ。21世紀の到来に先駆けて、僕たちがその素地を準備していたのさ!」

 

このレイヴオーガナイザーの集団は、自分たちの望むパーティをどこでどのようにして開催するかについて、揺るぎない信念を持ち合わせていた。彼らの中で最も初期から活動する年長者のLuc Bertagnolはこう総括する。「自分たちがお気楽だったとは思わないね。少なくとも僕はいろんなことを気にかけていたさ! 自分たちが世界を変えるだろうって自覚していたんだ。当時の僕は60年代に憧憬を抱いていた。60年代の最初のサマー・オブ・ラブという魔法を体験するには、僕は幼すぎたからね。僕にとってレイヴとは、冒険心や一体感、ユートピア、快楽主義といった精神を蘇らせる手段であり、新たな意識を目覚めさせるための場だった。僕たちのパーティは電子的/電気的に人々を繋げるための方法として存在していたのさ」

 

Mozinor

 

Mozinor

 

1990年から1992年にかけて、ピュトー川畔に係留されたボートやFort de Champigny(シャンピニ要塞)はたまたHôpital Éphémère(廃病院)といった奇抜なヴェニューで開催されたレイヴCollège Arménien、そして7回にわたって開催された伝説的なレイヴMozinor(モントルイユの未来的なルックスの駐車場の屋上を使って開催された)を主導したLuc Bertagnolは、自身の手掛けるパーティをある種の密輸取引のようなものとして捉えていた。更には、恥ずかしがることもなく「音楽的な反逆活動で、ダンスと音楽に対するハードコアな献身」と付け加えている。確かにこの表現は彼の活動にぴたりとあてはまるが、彼と同時代に活動したオーガナイザーたちにも同じことが言えるだろう。彼らの一部は英国やオランダ、ドイツで同時期に勃興していた巨大レイヴムーブメントと同一線上に結びつき、レイヴがメディアに飛びつかれ、消費し尽くされて終わるよりもずっと前の段階から、自由で独立した祝祭性の形態を再発明 ― いや、むしろ新たに発明していた。

 

すべての終わりは何かの始まり

 

2015年春、映画監督のXanaé Boveは、フランスにおける初期レイヴムーブメントの記憶を現代に蘇らせ、彼女自身が「快楽に満ちた反乱への欲求」に突き動かされた「儚きパーティ共和国」と表現する一時代へのオマージュを込めて『Ex-TAZ Citizen Ca$h (1987-1994)』という作品を創り上げた。この作品は当時のシーンにおいてその存在感が一際輝いていたオーガナイザー、Pat Cashに捧げられたドキュメンタリーだ。

 

 

80年代後半のパリにおけるナイトライフを彩ったヒーロー的存在Cashは、不安定ながらも求心力が強く、ドラッグに溺れながらも露骨なほどにダンディーで、変幻自在かつ機知に富んだ強烈なキャラクターの持ち主だった。そのキャラクターはRammelzee(オールドスクール・ヒップホップ界の怪人)、Aga Khan(イスラム教イスマーイール派の分派ニザール派の指導者にして政治家・実業家)、Moses(旧約聖書『出エジプト記』に登場する古代イスラエルの民族指導者)、Andy Warhol(アメリカン・ポップアートの旗手)、更にはRocambole(19世紀のフランス文学界で人気を博した架空のキャラクターで、改心した悪党にして冒険ヒーロー)さえも思わせる部分があった。Pat Cashは、テクノに出会う前は、ファンク、ヒップホップ、ハードコアパンクなど様々な音楽遍歴を重ねており、ベルシーにある倉庫(1990年)、ラ・デファンスの高層ビル群の下の建設途中の高速道路用トンネル(1991年)、そしてその更に数ヶ月後のバスチーユのオペラ座の建設現場の真下などで、そのワイルドさとロマネスクさで今も歴史に名を残す数々のイベントを手掛けた集団を生み出した人物だった。

 

よって、そのようなキャリアを持つCashの主催するレイヴが、パリにおけるその他のレイヴ黎明期のパーティと同様、ラ・デファンスの建設現場やバスチーユのオペラ座建設現場、はたまたセーヌ川西岸に延々と伸びる廃墟の一群(現在このエリアはフランス国立図書館や服飾専門校であるCité de la Mode et du Design、パリ・ディデロ大学などが立ち並ぶ文教地区に一変しており、Wanderlust、Batofar、Petit BainそしてNübaといったナイトライフのためのヴェニューも並んでいる)など、パリ市内の都市計画の一部となる建設現場で行われていたのは何も不思議ではなかった。

 

90年代初頭は都市としてのパリが大きく変貌を遂げた時代だったが、それは行政面においても同様で、Francois Cussetが著した選集『A (Critical) History of the 1990s』の副題の言葉を借りれば「すべての終わりは何かの始まり」とも定義付けられる時代だった。この祝祭的な多幸感に満たされた僅かな時代は混沌としつつも非現実的なもので、レイバーたちは80年代の絶望的な荒廃やポストパンク、ゴス、インダストリアルの残滓など、過去の遺物を徹底的に破壊し、彼らが長らく夢想し続けてきたSF的世界 − 来るべき21世紀のサイバー時代 − を迎えるための祝祭空間を用意しようとした。

 

社会政治的な視点から見れば、このレイヴ黎明期は、ソビエトのペレストロイカ改革、ベルリンの壁崩壊、東ヨーロッパにおける最後の独裁政治の終焉、フランスにおけるFrançois Mitterrandの大統領任期延長に伴う生活様式の自由化、アメリカの景気回復に伴う1992年の民主党とBill Clinton時代の到来など、各地でさまざまな変革が起きた時代と重なっている。Patrick Rognantはこう回想する。「冷戦構造に代表される偏執病的な80年代という時代を経て、私たちは旧時代の終焉の瞬間を目撃した。そしてすべてが不確実性に満ちたモダニストの時代が幕を開けたのさ。人々は口々に『見ろ! あのベルリンの壁が壊れたんだから、不可能なことなど何もないぞ!』と言っていたよ」

 

当時のレイバーたちの情報交換のための手段はFMラジオかミニテル(インターネット時代の到来以前にフランスで普及しつつあったパソコン通信の一種)が主だったが、この時代はサイバー文化が萌芽し、インターネットという大変革の時代が近づきつつあり、インターネットの到来は、すでに従来の集団意識のあり方に大きな影響を及ぼしつつあった。レイヴシーンの第一人者でもあるEve Prangeyは、Xanaé Boveとのインタビューで「結局、未来なんてものはまだ起こっていなかったのよ」と断言していたが、世間の心の中には明らかに未来が到来していた。

 

転換期と新たな信念

 

レイヴシーン黎明期のこの若きオーガナイザーたちは揃って、パーティの中で自由を見つけ出すまでは、息の詰まるような時代へと転換していく社会の中で新しさを求めていた自分がいたこと、そしてパーティと出会ったあとに、やがて自分たちの人生を変えることになる "早朝の決意" をした経験があることについて触れている。彼らの多くにとって、その大きな変化は、白紙状態への回帰を希求していた過去の自分と深く結びついている(彼らの一部は、何年も経った後にその頃を振り返り、自分たちの音楽的ルーツを再発見している)。

 

パリのレイヴ界の先駆者であり共にロックの影響を強く受けたRave Ageの2人、Luc BertagnolとManu Casanaが手掛けたCollège Arménien、そしてFort de Champignyというパーティは、伝説的な最初期のレイヴで、これはごく短期間に渡って開催された。Luc Bertagnolはフランスの週刊誌『L’Express』などに寄稿する音楽ジャーナリストで、Manu Casanaは80年代にSherwoodというバンドおよびAuto Da Fé Recordsというレーベルで活動した根っからのパンクヘッズだった。そのAuto Da Fé Recordsは1989年にPat Cashがリーダを務めていたハードコアグループCosmic Wurstのファーストアルバムをリリースしている。

 

前述のXanaé Boveによるドキュメンタリー作品において、Manuはまだ若きパンクスだった80年代当時にロンドンでレイヴミュージックと出会った際の経緯を回想している。当時、彼は定期的にロンドンへ赴き、そこで仕入れたレコードをフランスに戻って転売していた。数人の友人たちからクラパムジャンクション駅付近で開催されていたパーティに誘われて出向いた彼は、そこで啓示的な経験をした。「大きな倉庫に辿り着くと、入り口のあたりに沢山の人が集まっていた。もうひとつの倉庫の方へ向かうと、その天井には大きな穴がぽっかりと開いていた。あれは1月のことで、強い雨が降っていた。だから、床は洪水のような状態になっていたのさ。人々は金属製の支柱に括り付けられた何本かのロープを伝ってようやくダンスフロアに辿り着くようになっていた。そうすれば、足元が濡れずに済むからな。そこからもう少し奥に進むと、ドラッグ・ディーラーたちが列を成して待っていた。20分もしてエクスタシーが効いてくると、ワイルドなパーティの始まりさ。そこには黒人やパキスタン人もいれば、スキンヘッズもいた。スキンズはパンクスの俺からすれば天敵だったがね。とにかく色んな種類のオーディエンスがごった煮になっていて、誰もが狂ったようにダンスしていた。俺は自分の居場所はもちろん、一緒に来たはずの友人たちの姿もとっくに見失っていたが、それから10時間もの間見知らぬ人々と延々おしゃべりしながら会場内を彷徨ったのさ。自分でもこれまで踊ったことのないようなダンスを踊りながらね」

 

Lunacy

 

しかし、最も心を揺さぶられるエピソードはManuの当時の相棒だったLuc Bertagnolにまつわるものだ。1957年にパリの労働者階級の息子として生まれたLucは、やがて1970年代になるとGroupes Autonomesとして知られた断固としてラディカルな極左運動に参加するようになる。Groupes Autonomesは自発的なサボタージュ(破壊活動)の実践を主張し、サンディカリズム(無政府主義)やトロツキズム(Lev Trotskyによって提唱されたマルクス主義および共産主義革命理論)、更にはアナーキストグループさえも含む、彼らの目にはより組織化された政治闘争に映った活動を否定しながら、暴動や不法占拠を繰り返していた。

 

Lucは22歳になった頃に、リウマチ性の珍しい難病を患った。硬縮した脊髄炎を伴うこの疾患により、彼はあらゆるスポーツやダンスを禁じられ、その堪え難い麻痺作用の痛みから逃れるためやがてヘロインに手を出すようになった。しかし、政治犯として懲役を受けた過去やその健康問題にも関わらず、彼は1984年以降音楽ジャーナリズムの分野で名を馳せるようになっていく。週刊誌『L’Express』への寄稿を続けながら、Princeなどのファンクを特集する一方、ライ(ラーイーとも呼ばれる。アルジェリア西部オラン地方に起源を持つ大衆音楽)やアフリカのワールドミュージックをいち早くメディアに紹介した。「僕はこれらすべての音楽を愛していたよ」とLucは回想する。「でも、1980年代の終わり頃の僕はすっかり悲嘆に暮れたような状態になってしまった。『L’Express』の仕事にも情熱が持てなくなってしまってね。僕が知るかぎり、ロックの黄金時代はとっくの昔に死んでしまっていたんだ。すでに死んでしまったものにしがみついて、それでもなお自慢気にしていた自分が惨めに思えた」

 

そんな彼に1989年、アシッドハウス、ニュービート、そしてテクノというブレイクスルーが訪れた。イタリアのトスカーナにあるBarcaccinaというクラブを友人たちと訪れた時のことだ。そこでは、当時のベストDJと言われたMikiとRoby Jという2人のDJがレジデントを務めていた。「友人のひとりからエクスタシーを手渡されて、それから5、6時間ぶっ通しで踊り続けた。僕の内面に、何かマジカルな変化が起きていた。まるで僕の精神と意識に太陽の光が降り注いだかのようにね。肉体的にも、僕は再びダンスできる身体に戻っていたんだ。ある種の治療みたいなもので、エクスタシーとダンスのおかげで僕と友人たちはヘロインと手を切ることができた。まるでセラピーみたいに、僕たちは70年代と80年代の呪縛から解放されたのさ。Groupes Autonomesでの政治活動、コンサート、不法占拠といった狂った日常に彩られた80年代はすでに単調なものに感じていたし、絶望的なものにさえ思えていたからね」

 

もうひとりの伝説的なレイヴオーガナイザーのFabriceことRakhamがレイヴの世界に出会ったのは、Manu CasanaとLuc Bertagnolが最初の直接的なきっかけだった。パリ近郊のネムールという街でディスコを経営していた両親のもとに生まれた彼は、幼少時代からディスコを遊び場として育った。長じてインダストリアル/ゴシックシーンに身を投じた彼は、その一方で極左運動の過激派とも近いところにいた。「初めてCollège Arménienのレイヴに足を踏み入れた瞬間、こう思ったのを覚えているよ。『ワオ、これこそ僕がずっと探し求めていたものだ。この場所で僕はずっと永遠に生きていたいんだ』ってね(笑)。そこに集まっていたオーディエンスの多様性にはまさに衝撃を受けたよ。パンクスやゲイ、ディスコファンが一緒の場所にいるなんて、それまでは考えられなかったことだからね」

 

それからの数ヶ月間におけるFabriceの変貌ぶりはラディカルそのものだった。陰鬱なジャケットデザインのレコード、黒いレザーの服、手錠型のアクセサリーといったものを彼は一切手放し、彼が言うところの「原色使いのゴアジャケットと赤いスラックス、赤く染めた髪」という新たなルックスを手に入れた。彼が「Rakham」という渾名で呼ばれる所以はおそらくここからだろう(Rakhamとはベルギーの漫画『タンタンの冒険』に登場する海賊のキャラクター名。赤い衣装を身に着けていることで知られる)。とはいえ、Luc Bertagnolによって付けられたこの渾名は彼の海賊的なスピリット ― つまり、レイヴパーティに最も相応しい場所に見つけ出す能力 ― をよく表していたといえるだろう。「いたってシンプルなものだよ」と彼は笑みを浮かべ、「レイヴによって、僕はサンディカリスト(無政府主義者)からヘドニスト(快楽主義者)へと転向したのさ」と続ける。それは15年ほど前に毛沢東主義を放棄し、The Palaceなどのバンドに代表される1970年代後半のパリにおけるポストパンク・ムーブメントに身を投じた極左組織の活動家が見せた、見事な変貌ぶりだった。

 

 

 

"主催者はもちろん、オーディエンスも防具を身につけていた。出入り口は窓がひとつあるだけ。まさに不法侵入パーティだったね!"

― Bernard Invaders

 

 

 

Frédéric Djaalebのエピソードも、これまで紹介したオーガナイザーたちの経歴とそう変わらない。リヨンで生まれ育ち、アルジェリアの血を引くゲイであり、ニューウェーブや人工的なタッチの音楽(彼が言うところの「冷たい」音楽)を好んでいた彼にとって、80年代という時代は、アンダーグラウンドなクラブやコンサート会場へ足を運ぶことに苦難を伴った時代でもあった。というのも、そうした場所では暴力がしばしば横行し、彼のようなゲイにとっては天敵であるスキンヘッズが跋扈していたからである。そうしたリヨンでの生活を捨て、彼は17歳でパリに移り、当時のクラブカルチャーにどっぷりと浸かることになる。彼はゲイの新世代に自分が属していることを自覚していた。彼は新たな音楽的インスピレーションを得るために様々なクラブを渡り歩いた当時を、「印象化されたものには興味がなくなって、音楽とダンスそのものに惹かれていった」と振り返る。

 

「僕は当時まだオープンして間もないBoy(オペラ座近くにあった伝説的なゲイクラブ)に向かった。エントランスに着いて、ドアを開けて中に入ると、ベルギー産のニュービートがガンガンに鳴り響いていたんだ。それで僕は『これだ、これこそ僕のいるべき世界だ。この音楽のことは全く知らないけど、とにかく凄いぞ』って思ったんだ。それから2年間ほど、毎晩のようにBoyやLa Luna、Le Power Stationといったクラブへ深夜に出掛けては朝の6時まで踊り通したのさ」彼はやがてHappy Landというオーガナイザー集団(後にアーキ・ド・ラ・デファンスの下で行われたパリ市内初のオフィシャルビッグパーティでLFOをヘッドライナーに招いた)のメンバーとして最初期のレイヴを開催すると、より秘密性の高いスタイルのシークレットレイヴなども開催していった。

 

Invaderという伝説的なレイヴを手掛けて当時のシーンで活躍したBernard Invadersは、80年代という一時代をより自由主義者的なスタンスで過ごしていた。1985年頃、彼はフランスからオーストラリアのシドニーに渡り、そこでMardi Grasというパーティ集団が手掛けるSleaze BallやRATといったレイヴに出会う。「そこではしばしば退廃的なパーティとクイア(同性愛者)的でオルタナティブなカルチャーがブレンドされていたんだ。朝までビートが反復的に鳴り続けるようなパーティを体験したのは僕にとってこれが初めてだった。それまで霞がかったようなインディーロックやエレポップの世界に浸ってばかりいた僕にとっては、初めて根底から揺さぶられるような体験だった。すごくシンプルな話さ」と彼はノスタルジックな笑みを浮かべながら更にこう続ける。「まるで10年後の未来にタイムワープしたようだった」

 

鼓動を止めない心臓のように

 

ここまで各オーガナイザーについて説明してきたが、ただ単に「オーガナイザー」という肩書きでひとまとめにして語るだけでは、快楽と共有という人間性の深い部分のために自分の信念を捧げたスピリチュアルな闘士だった彼らのことは到底語り尽くせない。

 

Luc Bertagnolは、Manu Casanaと共にオーガナイズした最初のレイヴのための約1000枚のフライヤーをどのように印刷したか、そしてストリートやメトロでひとりずつ手渡したことについて振り返り、「見た目や態度から判断して狙いを定め、ひとりひとりに話しかけるんだ。だいたい、ひとりあたり30分くらいは話したんじゃないかな。そんな中、出会ったひとりがJérôme Pacmanさ。彼はそれからすぐにフランスでもトップのハウスDJにのし上がったんだ」と誇らしげに語る。

 

Jérôme Pacman(1994年)

 

情熱と感情の昂りが綯い交ぜになった喜びと共に、Bernard Invadersは一体感のあるスピリットと詩的な神秘主義に満ちた彼のシークレットレイヴでのDIYカルチャーのあり方を思い起こす。そのレイヴの入場料は当時50フラン(9ユーロ相当)と安価だった。「Full Moon」 「Black Moon」 「1002 nights」はたまた「Final Frontier」と名前を変えながら開催されたそのレイヴは、会場もイブリの不法占拠地(かつてSAT:特殊急襲部隊の本拠があった場所だ)、草原、森、廃墟となった倉庫、マッシュルーム養殖場など、様々な場所で行われた。

 

「レイバーたちが出掛けるべきパーティがどこにも無い週末に、僕たちは即興で何かを仕立てる方法を探っていたんだ。どんな時でも僕たちは時間をかけてパーティできそうな場所を探して、そこで準備を進めていった。これはPat Cashが僕に教えてくれたやり方さ」とBernardは語り、更に説明を続ける。「当時の僕は、脇目も振らず突っ走っていたようなものだね。行き当たりばったりで物事を進めてばかりだった。お金もなかったしね。サウンドシステムのエンジニアや委託セキュリティたちにはパーティ前の木曜や金曜に小切手を渡しておいて、月曜に銀行に駆け込んで振込するなんてことはしょっちゅうだった。レイヴオーガナイザーをやっていて儲かった経験は一度もなかったね」

 

1993年、数年間のオーガナイザー経験を積んだ彼は突飛な大勝負に打って出る。パリの東にあるウルク運河38番地にあるヴェニューで、8月から10月までの60日間連続で24時間営業のパーティを開催し、当時のあらゆるオーガナイザー団体が代わる代わる音を鳴らし続けるという途方もない企画であった。そのアイディアの根底にあったのは、とにかく音楽を鳴りっぱなしにさせるという単純なものだった。Bernard自身の言葉を借りれば、「決して鼓動を止めない心臓のように」音楽を鳴らそうとしていたのだ。

 

レイヴ、その取扱説明書

 

90年代初頭のレイヴや、それに続くフリーパーティにおけるマジックの根源は、そのパーティが行われる場所にこそあった。Rakhamは「まったくパーティには適していなさそうな場所を見つけることが肝心だった。そんな場所を、僕たちの手でパーティの空間に相応しいものに変えてしまうのさ」と語る。パリ周辺はその郊外を含めるとかなりの広さだが、彼らはトンネルや不法占拠地、廃墟などをくまなく洗い出し、そこで数ヶ月間をかけてパーティの準備を秘密裏に進めていった。サン−ルイの病院近くの倉庫でアフターパーティを開いた時のことを思い出してBernardはこう語る。「時にはリスクを伴うこともあった。僕たち主催者はもちろん、オーディエンスも防具を身につけていた。出入り口は窓がひとつあるだけ。まさに不法侵入パーティだったね! パリの地下墓地を利用したマッシュルーム養殖場が当時はたくさん廃墟として残っていたんだけど、そこでも数回レイヴを開催したよ」

 

Rakhamは更にこう付け加える。「当時のオーガナイザー連中は皆凄かったよ。自分たちのことを『インディ・ジョーンズ虎の穴』と呼んでいたのを思い出すよ。地下30mの場所でレイヴを開催した時は、2000人もの客が集まった。そんな僕でも、正式に場所を借りるためにヴェニューの所有者や市当局の長と直接やり取りしなきゃいけないとなると、途端に尻込みしちゃってね。ポンピドゥー・センターの屋上で僕の25歳の誕生日を祝うレイヴを開催する際には、先方への印象を少しでも良くしておかなきゃと思って僕の母親や女友達に代理で出向いてもらおうとしたこともあったな。まあ、そういう経験を経たおかげで、Souppes sur LoingやVernouillet、Saint-Rémy Les Chevreuse、Cergy-Pontoiseといったファミリー向けの公園での野外パーティのオーガナイズもできるようになったんだけどね。当局に届け出するときはあくまでも『コンサート目的です』と言い張った。もちろん、そのあとの僕たちは遠慮しなかったよ。レイヴの後には草木一本も残りはしないのさ!」

 

レイヴのための場所の準備が整うと、やがてレイヴの詳細な情報が記された粗末なフライヤー(そのグラフィックデザインは粗末とは呼べない創意工夫に満ちたものだったが)がパーティなどで手渡しされてばら撒かれ、もちろんパリのマレ地区にあったUSA Import、バスチーユ地区のBonus Beat(のちのBPM)やTSF (The Sound Factory)、そして当然ながら、USA Importのバスチーユ支店、Rough Trade、Salinasなど市内各地のレコードショップにも置かれた。

 

ちょうどその後を追うようにして、遠距離通信の時代がやってきた(インターネットが一般化するのはもっと後の90年代後半になってからだ)。Radio FGは「3615 FG」もしくは「Libération’s」「3615 Rave」といった文字放送サービスを通して主要ニュースを伝えるようになった。また、電話サービスの充実化も目覚ましく、伝言サービスなども拡充されていった。週末になると、ハウスやテクノのファンはRadio FGやRadio Novaでの「Rave Up」や「Happy Hour」など、パリ在住レイバー必聴とされた番組に耳を傾け続けた。

 

フライヤーやラジオを通じてアナウンスされる情報にはしばしば集合場所のみが記されており、大抵は、パリ市域と郊外を分けるゲートが指定場所となっていた。そこでレイバーたちは会場行きのシャトルバスに乗り換えるか、もしくはそこでスタッフから新たに手渡されるフライヤーの情報を頼りに会場へ向かった。Rakhamは「レイヴが行われる会場がどこなのかは、最後になってようやく判明するのが当たり前だった」と回想する。「この宝探しのような感覚がある種の興奮を高めていたし、誰よりも先に会場にたどり着いてやろうという気持ちも生まれていたはずさ。時には、警察を攪乱するために偽のフライヤーやでっち上げの所在地を仕立てたりすることもあった。これは集合場所に良からぬ輩が集まるのを避けるのにも有効だったね。奴らは偽の情報にまんまと騙されて、僕たちがいる場所とは逆方向に向かっていたよ」

 

最も驚くべきは、混沌とした運営手法にもかかわらず、彼らのレイヴでは暴力やケガを伴う事故、暴走、死者、警察との乱闘などといった事態が一切起こらなかったことだ。これは、後の時代に行われたフリーパーティ、とりわけ2010年に19人の死者を出したLove Parade、そしてレピュブリック像から1人の少年が転落して死亡したパリでの最後のTechno Paradeなどとは対照的なコントラストを成している。

 

もちろん、チケット売り場に大金が集まっていることを見込んだ窃盗団の襲撃を受ける事件などはあったにせよ、RG(訳注:フランス中央総合情報局。公安警察の一種)や警視総監、憲兵隊、市長、そしてレイヴに対して集中的な批判攻撃を加えたメディア(1993年初頭、フランス共産党系の機関誌『Humanité』に掲載された扇動的な糾弾記事がきっかけだった)などが次々と仕掛けた罠に、海千山千のオーガナイザーだった彼らが引っかかるようなことはなかった。

 

この短いレイヴ黄金期に深刻な事故がなかったのは、このレイヴパーティ群を手掛けていた勇敢なオーガナイザーたちが持っていた潤沢な資金と怖いもの知らずの精神のおかげだろう。Rakhamは、どんな苦境に置かれても必ず脱することができたと主張する。「情熱を持つことが大事なんだ。これは僕たちにとってのロックンロールだったのさ。地主や地方議会、反レイヴ団体などとやり合いながら戦う必要があったんだ。彼らと向き合うのは本当に辛い仕事で、根性が要る。だが何よりも、交渉術というものを学ばなければならないのが大変だった! 常にニコニコと笑顔を絶やさぬよう心掛けていたけど、そのおかげでどんなシチュエーションでどんな年齢層の社会的/専門的地位の人に接しようと平常心で対応できるようになったね。個人的には、こうした権威ある人々とやり合うよりも、パーティ後に『おーい! 最高のパーティだったぞ!』と興奮で叫びながら絡んでくるぶっ飛んだオーディエンスたちへ対応する方が大変だったね。まあ率直に言って、ずっと罰金や投獄を免れ続けられたのはラッキーだった。これはもはやアートだね」

 

このアートが、一定の無謀さと即興性・組織性が織り交ぜられた直感のたまものであることに疑いの余地はなく、そこに参加した幸運なレイバーたちのみがその壊れやすい記憶の芸術を享受し、心に刻むことができた。

 

 

たとえば、Trans Body Expressが最初のレイヴを開催した時のことを覚えている人はほとんどいないはずだが、精神病全般や心理療法、神経学、中毒症状の研究を専門に取扱うサンタンヌ病院の待合室のような場所でレイヴを開くなど、誰が想像できただろうか? Patrick Rognantが「あれはとんでもない一夜だったな」と言えば、Bernardは「ロケーション、音楽、ドラッグといったものがすべて一体になって爆発的なカクテルを創り上げたって感じだったよ」と楽しげに回想し、更に続ける。「なんとイベント中もその病院は通常通り開院してたんだ。ときおり、研修医やナースがこちらをじっと眺めていたよ。おそらく、ある特定の向精神薬物が人々にどんな効用をもたらすかということについてよりよい理解を深めたんじゃないかな」

 

1993年にRadio FGとFrédéric Djaalebが中心となってパリ近郊オワーズにあるAbbaye du Montcelで開催したRave Upというパーティもまた、当時の神秘的なイベントのひとつだ。ゴシック建築のヴェニューに合わせたそのラインナップ(Jeff Millsのフランスでの初プレイ、そしてJérôme PacmanやLiza N’EliazといったDJたちが脇を固めた)もさることながら、この日は会場であるAbbayeはもとより敷地外のPorte de la Chapelleまで入場を待つ長い行列が続くほどの大盛況となり、シャトルバスがすべてのレイバーたちを捌ききれない事態にまで発展した。

 

Nostromo(1993年2月のフライヤー)

 

Nostromo(1993年2月のフライヤー)

 

そして、Fantomが手掛けたレイヴについても触れておかねばならない。1993年にこのクルーが開催したNostromoというレイヴは幻覚そのものといえるような熱狂を生み出し、完全なる成功を収めた。パリ郊外南西部のイッシーに広がる広大な郊外型倉庫群を彼らは開催1ヶ月前から貸し切り、入念なデコレーションと複数のステージを用意した。そして満を持して開催されたレイヴは12時間にも渡って繰り広げられ、5000人ものオーディエンスを集め、光とスモークとレーザーの渦の中で誰もが自我を忘却し、デトロイトのJuan AtkinsやBlake Baxterといったテクノのパイオニア、ベルリンのDJ Rok、そして地元フランスのD’julzといったDJたちがプレイするサウンドに浸った。そして、Juan TripやLunatic Asylumといったアーティストたちがトランス/ハードコア的な色彩を加えていたことも忘れてはならない。

 

Nostromo

 

観念とユートピア

 

Fantomのクルーは主に当時22歳前後のボランティアによって構成された集団で、そのスピリットは、レイヴの刹那的性質を加えた没入感の強いオーディオ・ヴィジュアル的美学と共有主義をミックスすることで、レイヴ黎明期のユートピア的側面を完ぺきなまでに捉えていた。

 

なぜなら、レイヴの神秘主義 − むしろレイヴという観念と言ってもいいかもしれない − は確かに根付いていたからだ。終わりのないパーティ、終わりのないビートという夢は最後にプレイされたレコードが終わってもなお、依然として各々の魂の中で共振しつづけていた。Frédéric Djaalebは「最大限にポジティブなタームとして『観念論者』という言葉を使わせてもらうと、このムーブメントにおける最も影響力のある観念論者はManu CasanaとLuc Bertagnolの2人さ。自らが発する言葉の熱っぽさに突き動かされた本物の過激派だった彼らの存在は、まだ若かった僕たちにとって非常に重要だったんだ」と語る。パンクな80年代とポジティブな90年代の狭間で、Manu Casanaは実際にドイツ赤軍(1970年代から活動を続けていた極左民兵組織)のロゴを彼のイベントやそのレーベル(Rave Age)に取り入れていた。ただし、本来のドイツ赤軍のロゴは赤い星の中央に機関銃のシルエットが描かれているものだったが、彼は機関銃の代わりに平和の象徴であるハトを描き入れていた。

 

しかし、レイヴという観念を最も強力に推し進めたのは間違いなくLuc Bertagnolだろう。彼はCosmos Factの創始者でもあり、伝説的パーティMozinorの仕掛人だった。彼が自身のパーティのためにフライヤーに時折書き連ねた文章は、90年代初頭に出現したレイヴ精神を支える限りなき希望として価値の高い遺物となっている。以下にその文章を一部引用する。

 

Mozinor(1991年10月のフライヤー)

 

『この蒼い惑星に生まれ、トランスとハウスネーションの子供たちである僕たちの神経細胞にはダンスが絶え間なく息づき、物質社会という牢獄からの開放を求めている。ここに宣言しよう。サラエボの郊外、ムルロア環礁、そしてアフリカと、システムの手先となった者たちが自然や人類の本質を否定しながら惨たらしい蛮行を行う場面を僕たちは目撃してきた。(中略)僕たちの中に眠る祝祭性というエナジーを再び呼び覚ますために集結し、繋がり合おう。サウンドがもたらす快楽は僕たちの感性を呼び覚まし、リズムという愉楽は、僕たちの肉体、そしてその中に眠るお互いへのリスペクトと一体感、脈動するパワーへの忠誠心を解放してくれる(中略)』

 

『より良い世界を求める僕たちの希望、そして真実への渇望は僕たちに刻まれたテクノというタトゥーによって語られる。(中略)音楽がもたらすヴァイブレーションは僕たちを宇宙の潜在的な構造の一部へと繋げてくれる。すべてを無から創造し、自然と再び繋がり、デジタルツールを使って創造性をコントロールしよう。自身の運命を自らの手に委ね、自らの意識を高め、混沌としたアクションを通じて無限へ続く橋を築こう。場所は問わない。しかし、時は今だ。幻滅させられても再び啓示を得よう。もう終わりだと思われても、強い意志で立ち上がろう』(引用終わり)

 

ここに引用した文章は25年も前に書かれたものだが、これを書いたLucは、今回の取材のためのインタビューを終えてから数時間後に送ってきたEメールの中で、「あの時の情熱はまだ僕の中で燃え続けている」と明言し、更にこう続けている。「1990~92年のフランスにおけるレイヴ最初期のラディカルな新しさ(音楽、ドラッグ、ロケーション、デコレーション、オーディエンス)は時代を超越した逆流を僕たちの生活にもたらし、多くの人々に再び火をつけた。そしてその火はその後しばらく燃え盛り続けた。希望という名の聖なる火がね。当時のエレクトロニック・ミュージックはまだ様々なジャンルを内包していて、革新的かつ刺激的で、幻影のように移り変わりながらもパワフルそのものだった。その音楽は僕たち自身の脳や気力、そして魂に直接語りかけるものだったんだ。英雄譚がサウンドという姿を借りて僕たちの脳内や身体の中を巡り、この息詰まるような旧世界における停滞した絶望感を突如として遠くへ押し流してくれた。その一方で、13世紀ペルシャの神秘主義詩人であるMevlânâ Celaleddin-i Rumiが僕たちの耳元でこんな言葉を囁いていた。『それは自我の外側にある。私という自我の外側にあるのだ』」

 

一方、他のオーガナイザーたちはLucに比べると控えめな野望を持ってそれぞれのレイヴを開催していた。Frédéric Djaalebは「笑顔で満ちあふれたクラウドと、スキンヘッズたちがAphex Twinの曲で狂ったように踊る姿をパーティで見かけたこと」で満足し(かつてスキンズを嫌っていた過去も忘れて)、Invaderに関して言えばBernardは自らのレイヴを「超巨大なアート」として表現しようとしていた。Bernardは「僕は自分のやっていることを愛していたんだ。オーディエンスを叫ばせ、暗闇の中に押し込んだかと思うと急に花火を点火させる。レイヴ独特の雰囲気の中では、ひたすら上昇を続けて、頂上まで登り詰めてやっと現実の世界に帰れるんだ。まるで、レイヴとそのオーディエンスがひとつの生き物のようだった」

 

「プロノイア(支援妄想)」という言葉・概念が存在する。やや曖昧に聞こえるかも知れないが、この言葉は、若き冒険家たちやそこにいたレイバーたちに共通するスピリットを完ぺきに捉えている。これはギリシャ語の「神の導き(英語ではprovidence)」という言葉に由来しており、90年代以降に生まれた典型的な新造語のひとつだが、当時多くのイベントでの共感的なムードと結びつけて表現する際にしばしば用いられ、それは次のような表現に集約できる − 「いついかなるときも、自分が知らないうちに、誰かが自分の幸せに協力してくれている」

 

レイヴシーンの保守派の多くはおそらくどこかでこの根源的な哲学を保持してきたはずだ。産業化したレイヴにおいて経済的に成功した者は数少なく、レイヴシーンが再び復興の兆しを見せる現在において何らかの利益を得ている者は更に少ない。1994年以降、 第二次コアビタシオン期のJacques Chirac政権が推し進めた治安維持政策によって、行政当局や警察による介入が顕在化し、シーンは壊滅的な状態へ追い込まれた。その後もオーガナイザーを続けた者はごく僅かだ。

 

それでも、その一部はテクノの可能性を諦めなかった。Fabrice Gadeauは今ではパリの名門クラブRex Clubのマネージメントを手掛け、Rexを厳しさと熱情のバランスで見事に取り仕切っている。Rakhamは自由主義を謳歌し続け、トランスシーンに神秘的なスピリットを吹き込み続けている。そしてManu CasanaはP.U.R.E (Pure Underground Rave Energy)というパーティを展開し、往時のRave Ageを彷彿とさせるエナジーを現代に思い起こさせている。

 

その他の者たちは別の道を歩んだが、彼らもまた90年代初頭のエナジーに対して忠実であり続け、ある者はそのままの姿を保ち、ある者は再生した。Bernardはアーティスティックなキャリアへと転じたが、その時間の多くを90年代初頭のパリにおけるスクワット(不法占拠)のシーンをアニメ作品化することに費やしている。Dragoon FlyのOlivier Martinooは現在スキューバダイビングや海との対話に人生を捧げているそうだ。当時のパリにおけるレイヴオーガナイザーの中で最もハウス的な嗜好が強かったBeat AttitudeのCécile Alizonは、ヨガの道へと進み、Luc Bertagnolは一年の大半をゴアのビーチで海水に浸って過ごしている。そして、Pat Cashは旧約聖書研究のためにイスラエルへと渡って久しい。

 

筆者紹介:Jean-Yves Leloupはフランスの作家/ジャーナリスト/DJ。ヨーロッパにおけるエレクトロニック・ミュージックの進化過程を1980年代終わりの到来当初から追い続けている。エレクトロニック・シーンを見続けてきた生き証人として、彼は音楽とアート、それを取り巻く社会との間の関係性をテーマとし続けている。Leloupの最新作、『Musique Non-Stop』は2015年にLe Mot et le Resteより出版された。